「鳥取」カテゴリーの記事一覧
鳥取砂丘らっきょう
鳥取県といって、想像する方も多いであろう「鳥取砂丘」。
東西16km、南北2km、起伏は日本最大の47mにも及ぶもので、
昔も今も多くの観光客を魅了してやみません。
この鳥取砂丘に代表されるように、
鳥取県内には砂地の土壌が多く存在します。
砂地というと水はけが良く痩せた土壌のため、
植物が育ちにくい印象がありますが、
鳥取には、その環境を逆手にとった特産品がありました。
「砂丘らっきょう」です。
らっきょうは、砂地や荒廃地などの痩せた土壌でも育つという特性を持っており、
鳥取砂丘の東部の福部町には、120ヘクタールに及ぶ
砂地のらっきょう畑が広がっています。
夏場には砂地の表面温度は60~70℃にまで上昇し、
冬場には雪に覆われることのある過酷な環境下でも、
らっきょうはたくましく育つそう。
かつて「不毛の地」と呼ばれた砂丘地での農業は、水の確保が最大の課題でした。
浜井戸から桶で水を汲み、炎天下のなか天秤をかついで畑に何度も水を撒く作業は
「嫁殺し」と呼ばれるほど過酷なものだったとか。
この環境を改善しようと戦後、鳥取では日本初のスプリンクラーを導入するなど、
様々な技術開発が進み、不毛の地は特産品が生産される優良農地へと生まれ変わったのです。
そんななか、オーガニックで
らっきょう栽培に取り組まれる方がいると聞いて、訪ねました。
鳥取市気高町(けたかちょう)で
「鳥取らっきょう本舗」を営む田中正貢さん。
「健康食品ともいわれるらっきょうなんですから、
オーガニックの方がいいでしょ」
そう、健康そうな表情で話す田中さんは、
今から6年ほど前にサラリーマンから農家へと転身されました。
もともと農薬を売る仕事もしていた田中さんでしたが、
口から入れるものが体を作っているという意識が高まっていき、
食べる人のことを考えた野菜づくりをしたいと考えるように。
無農薬での収穫量は、農薬を使った時の1/10ほどだそうですが、
はじめから無農薬栽培を手掛ける田中さんの畑では、
徐々に収穫量も高まってきているそうです。
田中さんのらっきょう畑にお邪魔すると、
そこにはらっきょうと雑草が共存する光景が広がっていました。
「雑草の根が水分を蓄え、微生物がはびこる。そして、その周囲に栄養分が溜まる。
この雑草こそが、おいしいらっきょうを育てる鍵なんです」
一見、分かりにくいのですが、実はこの畑も砂地。
水はけの良い砂地で水分を蓄えるために、雑草は重要な役割を担うのだそうです。
「よかったら少し持って帰りませんか?」
そう言いながら、田中さんが掘ってくださったオーガニックらっきょうは、
しっかりと根を張りながら育った、生命力にあふれるものでした。
「収穫のたび、この大地からの恵みに喜びを感じるんです。
これを枯渇させることなく、限りなく自然の状態で、
後世に引き継いでいくことが、私たちの責任だと思うんです」
今では、土よりも砂地の方が作業しやすいと話す田中さんは、
らっきょうのみならず、様々な在来種の栽培にまで着手。
そして、こうした動きを個人的なものにとどめるのではなく、
この夏「鳥取オーガニックマーケット」を立ち上げ、
地域ぐるみの取り組みを始めていました。
高知のオーガニックマーケットにヒントを得たというこのマーケットは、
7月からの毎週土曜日開催で延べ2300人が訪れるほど、
定番化しつつあるそうです。
「自分で作ったものを、自分で売る。
自分が欲しいものを、作った人から買う。
このシンプルで無駄のない行為のなかに、
なんともいえない安心感と充実感を覚えるんですよ」
「まぁ昔に戻っているだけなんですけどね」
と、田中さんは優しく微笑みました。
砂丘地帯という不毛な土地を、優良な農地へと変革した
鳥取の乾燥地における農業技術。
それらに感謝し、後世につないでいこうと努力を惜しまない人たちの姿。
与えられた環境を、より良くしようと耕す姿勢を、
鳥取からは教えられているようです。
鳥取民藝運動と、因州中井窯
きちんと整理整頓された焼成前の器に、
きれいに並んで天日干しされている陶土、
そして、しっかり組まれたレンガや薪に囲まれた登り窯。
おもわず聞いてしまった、「A型ですか?」という質問に、
「いえ、B型ですよ」と笑顔で答えてくださったのは、
因州中井窯の3代目、坂本章(あきら)さんです。
この因州中井窯の代表的器として知られるのが、こちらの「染め分け皿」。
ひしゃくで順番に釉薬を掛けていくのですが、
このように3色の釉薬を均一に施すのは、技術はもちろんのこと、
坂本さんのきっちりとした性格のなせる技だなと感心しました。
それにしても、この鮮やかな色合いと、大胆なデザインは
これまで見てきた焼き物にはなかったものです。
すると、
「うちの窯の特徴は、"プロデューサー"がいたことなんですよ」
と、坂本さんが因州中井窯の歴史について教えてくれました。
因州中井窯は、もともと農業や教員など別の道を歩んでいた坂本さんのおじいさまが、
焼き物に興味を持ち、近くの牛ノ戸(うしのと)焼の窯場を訪ねては仕事を教えてもらい、
昭和20年に開窯。
そして、その後、因州中井窯を語るうえでは、欠くことのできない
3人のプロデューサーとの出会いが各々の時代にありました。
まず、1人目のプロデューサーが
鳥取民藝運動の指導者、吉田璋也(しょうや)氏。
鳥取で耳鼻科医を営む吉田璋也氏は、
民藝運動の創始者・柳宗悦に強く共鳴し、
地元鳥取周辺の民陶であった牛ノ戸焼の窯場に足繁く通い、
現代の生活に見合う器類を作るように提案、指示します。
そして、それらをすべて引き取って販売する「鳥取たくみ工芸店」を
昭和7年に立ち上げました。
これは民藝品流通の最初の事業であり、日本初の民藝店となりました。
さらに販売を拡大するために、1年後の昭和8年には、東京銀座に「たくみ」を創設。
そうして、吉田璋也氏は商品補充のために、坂本さんのおじいさんに、
中井の地で、生業としての焼き物づくりを奨励し、
製品化した物はすべて「鳥取たくみ工芸店」で販売する道を与えました。
ちなみに、この「3色染め分け皿」の原型は、
鳥取市郊外にある因久山(いんきゅうざん)窯にあったそうですが、
吉田璋也氏がそれを牛ノ戸焼で作らせ、さらに中井窯でも作らせたものなんだとか。
今でこそ、デザイナーとのコラボ商品や、
作り手以外のプロデューサーが生み出した器などが出てきていますが、
昭和初期のこのような動きは、先駆けでした。
そして、これこそが"鳥取民藝運動"すなわち、
"新作民藝運動"の始まりでもありました。
柳宗悦氏の唱えた民藝運動は、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、
世に紹介することに努めたことに対して、
吉田璋也氏の新作民藝運動は、単に発掘してそれを広めるだけにとどまらず、
自身がデザイナーの役割を担って、新しい民藝品を生み出していったのです。
「作り手でもなくて、年上の陶工たちに指導できたのは、
吉田璋也先生の人間力と財力があったからだと思いますね」
吉田璋也氏は焼き物に限らず、鳥取の木工、染織、金工、竹工、漆工、和紙
と様々な分野で、この土地の材料を生かした新しいモノづくりを指導していきました。
そして、後に、作り手にとっての物の勉強の場として「鳥取民藝美術館」(写真左)を、
器を実際に使ってみせる「たくみ割烹店」(写真右)も創設。
※ちなみに、吉田璋也氏が北京料理をアレンジした「牛肉のすすぎ鍋」は
しゃぶしゃぶの原型になったものなんだそう。
「見る、使う、食べる」の三位一体論を推進したことで
鳥取の民藝運動は躍進していったのです。
続いて、2人目のプロデューサー、
手仕事フォーラム代表で、鎌倉の「もやい工藝」店主の久野恵一氏。
坂本さんはどこか別の窯で修業をするのではなく、
お父様の仕事を見よう見まねで作っていたので、
いい焼き物を作りたいと思っていたものの、
何がいいか、悪いかが分からない状態だったと当時を振り返ります。
しかし、30歳の時に転機が訪れます。
坂本さんにとってのプロデューサー、久野恵一氏との出会いがありました。
久野氏は10年以上にわたり、坂本さんたちの窯へ通って、指導を続けたそう。
「久野さんからは、形よりも縁の作りや削りの仕方に気を配れといわれましたね。
例えば、コーヒーがすっと口に入ってくる形状だとか」
坂本さんのおっしゃる通り、坂本さんの作ったコーヒーカップの口元は
上唇にとてもフィットして、飲みやすいのです。
また、久野氏のつながりで、お父様にもかつて指導した、
柳宗悦氏の息子でプロダクトデザイナーの柳宗理氏に、
坂本さんも教わることになったそう。
これが、3人目のプロデューサーである柳宗理ディレクションの
2色の染め分けと、縁の釉薬を抜く技法を組み合わせたお皿です。
吉田璋也氏、久野恵一氏、柳宗理氏というプロデューサーとともに
成長してきた因州中井窯。
工房の隣には、展示場兼ショップがまもなくオープンするそうです。
「今後も誠実なモノづくりを大切にしたい」
最後にそう語ってくださった、坂本さんの作る器が一堂に会する場所は
きっと素晴らしく、そして整然と置かれているに違いありません。
伯州綿
鳥取県米子(よなご)市の米子駅から鳥取県境港市の境港駅に至る、
JR境線の上道(あがりみち)駅は別名「一反木綿(いったんもめん)」駅!
一反木綿は、鹿児島県の肝付町(きもつきまち)に伝わる木綿のような妖怪で、
かつては比較的無名な妖怪だったものの、
「ゲゲゲの鬼太郎」に登場してから一躍、名が知られることに。
なんでも境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」では1位に選ばれたそうです。
そして、この駅の前には偶然にも"コットン"畑が広がっていました。
実は、ここは境港市が管理している「伯州綿(はくしゅうめん)」の畑なんです。
「伯州綿」とは、300年以上前の江戸時代前期に
鳥取県西部・伯耆国(ほうきのくに)で栽培が始まった綿で、
最盛期には一大産地を形成し、北前船によって全国各地へ運ばれ、
鳥取藩の財政を支えるほどのブランド綿だったそうです。
しかし、関税撤廃による、安価な外国産綿の台頭により、
国の伝統的工芸品のひとつ「弓浜絣(ゆみはまがすり)」の主原料として
一部栽培される以外はほぼ衰退してしまいました。
2008年に耕作放棄地の解消策として、
休耕地の管理耕作用の作物を検討していた市役所職員が、
在来種の和綿「伯州綿」の試験栽培を行ったところ成功。
少ない労力で高齢者でも一定面積の栽培が可能なことが分かり、
2009年からは国の雇用対策事業を活用して本格栽培に取り組んでいます。
2009年度は約1ヘクタールにつき約668キログラムの収穫があり、
2012年11月現在、6人の職員を雇用して、約2.6ヘクタールで栽培を行っています。
綿の栽培方法は、かつての生産方法と同様に、
農薬ならびに化学肥料を使いません。
防草のためにマルチ栽培を行ったり、
天敵であるアブラムシ対策に、水で薄めた牛乳をかけたりと、工夫を凝らしています。
それでも、やはり除草作業には人手が必要 。
「昨年から"栽培サポーター制度"を導入して、
市民のみなさんにも栽培を手伝ってもらっているんですよ」
そう教えてくださったのは、境港市商工農政課の大道幸祐さんです。
"栽培サポーター制度"とは、境港市農業公社が畑の整備を担当して貸し出し、
種植えから収穫に至るまでの一連の作業を、一般の市民に参加してもらい、
最後にできた綿を農業公社が買い取るというもの。
現在、個人とグループ合わせて、
13組78人がサポーターとして参加しているようです。
私たちキャラバン隊が今回この「伯州綿」について知ったのも、
実は今年サポーターとして栽培に参加した方からの情報でした。
サポーターの方々によって収穫された綿は、加工され、
境港市の新生児および100歳になられる方に、
それぞれ伯州綿製品の「おくるみ」と「ひざかけ」として贈呈されています。
試しに触らせていただくと、ふんわりと柔らかい肌触り!
生成りの色合いが優しく、ぬくぬくと体を温めてくれそうでした。
また、前の年におくるみを受け取った親子は、
次年度の新生児のために種を蒔き、栽培に参加していくという取り組みもあるそう。
地元の特産品を、生まれた時から肌に触れて知ることができ、
また、ペイ・フォワードしていく(自分たちがしてもらったことを次へつなげていく)
このサイクルはとっても素敵ですね!
先月の10月には、国産綿について意見交換をする、
「2012全国コットンサミットin境港市」を開催。
全国の国産綿の主な栽培地などから、総勢約700人が参加し、
「伯州綿」の魅力を全国に発信しました。
「伯州綿は繊維が短いので加工が難しいのですが、
弾力があって、軽くて暖かいのが特徴です。
そして、何より農薬や化学肥料を使っていない国産綿は貴重です。
食だけでなく、"衣"にも安心安全の意識を持ってもらえたらいいですね」
農業公社では、今後、伯州綿の茎を使った和紙づくりや
綿の実から採れる油を石鹸などの加工品に使えないかと、
副産物の活用も視野に入れています。
トットリノススメ
「いいまちに住みたい。
どこかに引っ越してもいいけど、
ここを耕すって方法もある。このまちの特殊性は
僕らが暮らしていることにある。
それは、砂丘やマンガよりずっと深くてゆるぎなく、
かつ、不確実で頼りない。世界のほとんどは気持ちで出来ている、と思う。
僕らはたくさんの仲間とここに居る。
このあいまいで確実なコミュニティーが、
お互いに気持ちのチューニングをし合う
そういうまちに住みたい」
"街を歩いて、発見して、頭の中の地図を書き換える月間"
「トットリノススメ」のキャッチコピーです。
鳥取市では5年ほど前から、秋から冬に入るまでのあいだ、
市内の店舗や空きスペースを利用して、様々なイベントが催されています。
あるレコードショップではドキュメンタリーフィルムの上映会、
あるパン屋さんではトークイベント、旧病院跡では大学生が運営するカフェ、
など
。
どれも街の人が自主的に企画し、運営しているイベントです。
ちょうど私たちが鳥取市にお邪魔した時にも、
韓国焼肉レストランでトークイベントが催されていました。
その日は「ゲストハウスの作り方」というテーマで、
大阪と鳥取でそれぞれゲストハウスを運営する人たちによるトークセッション。
会場には、ゲストハウスに興味のある人から、
単純におもしろそうな人たちの話を聞きたい人までが集まり、
好奇心が交錯しながらの、心地よい時間が流れていました。
「1ミリでもいいから、鳥取に住んでいる人たちで幸せを感じ合いたい。
そんな想いを持つみんなで作っているイベントなんです」
そう語るのは「トットリノススメ」の発起人、本間公(あきら)さん。
鳥取の木を主な木材とした家具製作や店舗内装を手掛ける家具工房
「工作社」を営んでいる方です。
初めてお会いした瞬間、「ようこそ鳥取へ」と手を差し伸べられ、
どこか外国人の雰囲気を感じたのは、本間さんがもともと旅人だったからかもしれません。
岐阜県高山市での木工修業を経て、
タイ、インドネシア、オーストラリアといった外国を1年間放浪。
帰国後、年に5週間は休暇をとるという
オーストラリアのライフスタイルを実現すべく、
故郷、鳥取市に自身の工房を構えられました。
「帰郷したはいいんですけど、カフェはない、BARはない。
周りの人たちの気持ちもどこか都会に向いていて。
だったら、ないない文句言ってないで、作ればいいじゃん!」
そういって、運営したい人と一緒に、空き物件を見つけて、
カフェをオープンさせてしまいました。
古い建屋を改装した店内は、とても落ち着く空気が流れていて、
私たちも2日続けて、訪れてしまったほど。
都会のカフェとはまた一味違う魅力が放たれていました。
「このカフェによって、街中の人の流れも、人の意識も変わった。
"変わる"おもしろさを知ってしまったのはそれからだね」
この経験が、「トットリノススメ」のような企画につながったのでしょう。
旅に出たい衝動に駆られながらも、
「旅に出なくとも自分の身の回りを耕せばいい、
そのためには周りの人たちの意識を変えればいい」
そう考えるようになっていったんだとか。
本間さんは、「トットリノススメ」の役割を、
"気持ちのチューニング"と話します。
数々の民藝に代表されるものづくりや、人と人との近さ。
こうした鳥取の魅力を、この機会に再認識するきっかけになればと。
「イベント打って儲かるわけじゃありません。むしろ、採算は度外視。
各店舗の人たちが、あくまでも自主的に企画・運営しているんで、
気持ちが満ちればやればいいし、満ちなければやらなければいい」
そう話す本間さんは、あくまでもニュートラル。
今年4回目を迎える「トットリノススメ」には、10/28~12/9に、
16カ所(店舗含む)で20を超える企画・イベントが催されています。
「いいまちに住みたいから、ここを耕す」
鳥取のように、皆がそんな気持ちになれば、
きっと地域はもっと楽しくなるのではないでしょうか。
まんが王国とっとり
2012年は鳥取県が地域のマンガ・アニメカルチャーの豊かさをアピールする
「まんが王国とっとり」を建国した、
記念すべき年であることをご存じでしたか?
私たちが鳥取県に入った週末には、偶然にも米子(よなご)で
「国際マンガサミット鳥取大会」が開催されていました。
鳥取県は、『ゲゲゲの鬼太郎』の著者である水木しげる氏を始め、
『名探偵コナン』の青山剛昌氏や『神々の山嶺』の谷口ジロー氏など、
多くの著名なまんが家を輩出してきた県であり、
この素晴らしい鳥取県自慢の「まんが文化」を世界に広めていこうじゃないか!
ということで、「まんが王国とっとり」を建国したそうです。
といっても、鳥取県のまんがによる町興しは今に始まったことでもありません。
水木しげる氏の故郷・境港市には、1993年に
水木しげるの代表作である『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』
に登場する妖怪をモチーフにした銅像を設置する「水木しげるロード」を設置。
また、米子から境港市までをつなぐJR境線では、
「鬼太郎列車」が同年から運行されています。
普段、キャラバンカーで移動している私たちですが、
せっかくなので車を置いて、「鬼太郎列車」に乗って境港へ行ってきました!
各駅名には、「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪名がついていて、
出発は「ねずみ男」駅(米子駅)から。
車内も鬼太郎一色で、アナウンスは鬼太郎と猫娘の声優さんが担当♪
もちろんれっきとした移動手段であり、地元の乗客も多く乗っているので、
はしゃぎ過ぎてはいけませんが、
なんだかアトラクションの一種のように、ワクワクしました!
45分ほど電車に揺られ、ついた先は「鬼太郎」駅(境港駅)。
ゲート(写真下)をくぐって、いよいよ"妖怪の国"へと入国すると
そこには水木しげる氏の世界が広がっていました。
浮き立つ気持ちを抑えながら水木しげるロードを進むと、
なんと!!!
向こうから鬼太郎が歩いてくるではありませんか!
あまりにも自然に歩いていたのでビックリしましたが、
さすがは人気者、すぐにみんなに囲まれていました。
平日にもかかわらず、この人だかりです。
これまで他の地域でも、キャラクターによる町興しは見てきましたが、
ここまで徹底して行っている町は初めてだったかもしれません。
町と鉄道と市民、すべてが協力しないと、こうした町興しは難しいと思いますが、
その壁を乗り越えて実現しているとは素晴らしいですね。
「まんが王国とっとり」が次に何を仕掛けてくるか、楽しみです。
冬支度
鳥取県では、米子近くの無印良品 イオンモール日吉津に
お邪魔してきました。
店長さんいわく、
「鳥取って西日本なので温かく思われがちなんですけど、
北陸と同じ日本海側でして、冬はとっても寒いんですよ」
とのこと。
店長さんは冬に雪で電車が停まって家に帰ることができず、
年末年始をお店近くのホテルで過ごしたこともあるんだとか
。
最近めっきり寒くなってきましたが、
これからもっと寒くなると思うと身震いしてしまいますね。
そんな冬に備えて、これからの時期活躍すること間違いなし!な、
こちらの人気商品をご紹介いただきました。
「タッチパネル手袋」です。
3本の指先部分に導電性の糸を編み込んであり、
手袋をはめたままで、タッチパネルの操作ができるんです!
私たちも去年から愛用していますが、寒い中で手袋をはずさずに
スマートフォンをスムーズに操作できて気に入っています。
今年も間違いなく活躍してくれそうですが、
願わくは、もうしばらく手袋をはめなくてもいい気候が続きますように
。
作り手のぬくもり
その器でコーヒーを飲んだとき、
どこか温かみを感じ、ほんわかとした気持ちになれたのは、
作り手の雰囲気が器に表れていたからかもしれません。
鳥取県岩美町にある「延興寺窯(えんごうじがま)」。
父・山下清志さんと娘・裕代さんの父娘で作陶に励む窯元です。
お二人ともとても柔和で優しい雰囲気をお持ちで、
その空気感がそのまま焼物にも伝わっているようでした。
しかし、ひとたび工房に入れば、父娘から師弟の関係に。
ゆったりとした空気と、ほどよい緊張感に包まれた自宅内の工房は、
まさに、父の背中を見て育つといった環境でした。
父・清志さんがこの地で開窯されたのは今から33年前。
もともとコンピューター制御の仕事で会社勤めしていた清志さんは、
丹波立杭焼で修業していた兄の誘いもあって、生田和孝氏に師事。
故郷の鳥取に戻り、兄とともに磁器による浦富焼を再興し、
その後、陶器の土を求め、1979年にこの延興寺の地にたどり着きました。
「陶工は土を求めて回る。昔の民陶のスタイルはみんなそうでした」
あくまでも焼物の原点を追求する清志さんの案内のもと、
自宅近くの土の採取現場へ。
採取した土はしばらくの期間、天日干しで乾燥され、
自らの手によって生成されていきます。
「こうして大地の恵みに触れていると、謙虚な気持ちになれるんです」
そう話す清志さんが使う釉薬も、もちろん地元で採れるもの。
白釉のためのもみ殻は、地元の農家の方から、
黒釉のための黒石は、近くの河原で採れるそうですが、
そこには推定1600万年前の成分が含まれているそうです。
「私たちは地球の資源に生かされていることを実感しますよね」
清志さんによって成型される器が、
裕代さんに渡り、削りが加えられていきます。
裕代さんは、沖縄県の読谷村焼・北窯で約3年間の修業後、
8年前に帰郷し、父のもとで作陶をはじめられました。
「毎日の仕事を大事にしています」
と話す裕代さんの手仕事も、とても優しく丁寧なもの。
こうして父娘の協働による器が生み出されています。
思わず手に取ってみたくなるような温かみを感じます。
装飾のしのぎや藁描き、櫛描きといった技法は、
清志さんの恩師、生田さんからの直伝です。
師から弟子に継承された技術は今、
父から娘へと伝承されていっています。
最後に清志さんは、自然いっぱいに囲まれる環境で、
ものづくりに対する想いを語ってくださいました。
「普遍的であるがままの世界のなかで、
決して無理をせずに、美しいものを作っていきたい」
作り手のぬくもりを感じる器は、
大地の恵みと父娘の愛情がたっぷりと詰まっているものでした。