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革新する高岡の伝統
大みそか、日本全国で響き渡った除夜の鐘。
昔から慣れ親しんでいるせいか、
この音色を聞くと、年越しの気分が一気にわく気がします。
実はこの除夜の鐘、その多くが、
富山県高岡市で作られていることをご存じでしょうか。
高岡は全国で生産される銅器の約95%を占める一大産地。
江戸時代、加賀藩2代藩主の前田利長によって町が開かれて以来、
鋳鉄の原料となる砂鉄、燃料の薪炭、保温材のわら灰、
鋳型をつくる川砂などを得やすかった高岡は、
鋳物の産地として発展を遂げていきます。
高岡駅近くに建立されている「高岡大仏」は、
高岡の職人の技術を結集してつくられたものでした。
そんな高岡の地で、鋳物の技術を活かしつつ、
革新的なものづくりを続ける企業があります。
今年、創業98年を迎える鋳物製造の老舗
「株式会社 能作」。
「うちには営業はいないけど、富山県民がみんな営業してくれるんですよ」
5代目を担う能作克治社長がそう語ります。
能作が最近世を騒がせ、富山県民が胸を張って「富山産だよ」
と周りに話したくなるものが、こちら。
錫製の曲がる器です。
金属なのに、人の力で自在に曲げられます。
使う用途に合わせて、形状も自由自在。
「食器=硬い」という固定観念を見事に覆されましたが、
こうした革新的な器が生まれた背景には、
挑戦し続ける伝統産業の姿勢がありました。
「日本の伝統産業はもう下火といわれていた時代にも、
私たちは横ばいか、少し右肩上がりの業績でした。
日本のものづくりの技術は世界一なんです」
福井出身の新聞記者から一転、婿養子として能作に入社した能作社長は、
17年間、職人として高岡の鋳造技術を教わったといいます。
「富山では、県外から来た人のことを"旅の人"って呼ぶんですよ。
言い換えれば"よそ者"です。ただ、同業者には教えないようなことも、
僕には教えてくれた。だから僕は、そんな高岡に恩返しがしたいんです」
グローバル経済が進み、中国の台頭が顕著に見られるなか、
高岡銅器も他産地と同様に、衰退の一途をたどっていました。
そんななか、能作社長がとった戦略は、多品種少量生産。
それも、一度は機械化した工場を、今一度手作りに戻すほどの徹底ぶり。
「少ロットでも、品質の良さで勝負するしかないと思ったんです。
手作りに戻すことで、職人の技術もさらに磨かれるようになっていきました」
工場に保管されている4000にも及ぶ鋳型が、
まさにその戦略を物語っていました。
ひたすら技術を磨き続けていくなか、やがて能作社長に
「ユーザーの声も聞きたい」という想いが芽生えていきます。
「当時は問屋さんから言われたものを作るだけでした。
ただ、売れなくなったら、末端は何もできないんですよね」
その状況に歯がゆさを覚えていたと話す能作社長のもとに、
2001年、東京で展示会開催のチャンスが訪れます。
それまで仏具や花器を手掛けていた能作でしたが、
これを機に社長直々に新しい製品の開発に乗り出し、
作り上げたのが、このハンドベルでした。
「これが大失敗だったんです。
だいたい家でハンドベル鳴らして奥さん呼んだ日には、
代わりに皿でも飛んできそうでしょ(笑)」
しかし、このハンドベルを見たある店員さんからのアドバイスで、
またたく間にヒットする商品が生まれるのです。
それが「風鈴」。
「風鈴は"鉄"だっていう、勝手な固定観念があったんですね。
私たちが手掛けていたのは"真鍮"でしたから。
この時に、売り場の店員さんはユーザーの志向を知っているんだな、
ということを学びました」
この学びから、今度は「身近な食器を作ってほしい」
という店員さんからの依頼に耳を傾ける能作社長。
真鍮や青銅は口にする食器としては適しておらず、
そこで、考えられたのが「錫」でした。
「当時、高岡の技術では錫は鋳造できないといわれていました。
それを実現できたのも、技術を磨いてきたからでしょう。
ただ、錫100%だとどうしても柔らかすぎて、曲がってしまったんですね」
それを、特徴と捉えるまでに、さほど時間はかからなかったそう。
「曲がるんなら曲げて使えば?
とデザイナーの小泉誠さんにアドバイスいただいたんです。
なるほど、とすぐに受け入れられたのも、
私自身が異業種出身だったからかもしれませんね。
以来、一歩俯瞰して見ることが大事、ということを知りました」
こうして錫100%の、曲がる器が誕生したのです。
今では、高級レストランから特注で発注がくるほど、
売り上げも青銅や真鍮をしのぐまで伸びてきているんだとか。
最近では、金属製の日用品になじみのある欧米を中心に仕掛けも始め、
Made in Japanを、また、高岡の名を世界に広めていっています。
そして、今になってあのハンドベルが海外で売れ出しているそう。
「高岡がなければ、能作は絶対に成り立たない。
そういった意味でも、"伝えられる生産者"でなければなりません。
そのためには、モノの良さはもちろんのこと、コトと心が大切。
コトとは、高岡の伝統産業の技術。そして、心とは職人の想いです。
これからも"攻める"伝統産業であり続けたい」
終始、穏やかなトーンで話される能作社長でしたが、
その内に秘める想いには、並々ならぬ熱意を感じました。
「これからは"競争"ではなく、"共想""共創"の時代。
高岡の同業者と協力して頑張っていきたいですね」
革新し続ける伝統産業の背景には、
高岡に対する誇りと感謝の念が込められていました。
八尾和紙
昨年、富山県をキャラバン中に出会ったこちらの名刺入れ。
「八尾(やつお)和紙」と呼ばれる、
富山県南部の八尾町で漉かれている和紙を使ったものでした。
一目惚れで手に取ってから、旅路をともにしましたが、
とても丈夫で、1年経っても汚れや型崩れがありません。
今回はその生産現場を見に、1年ぶりに八尾町を訪れました。
八尾町は、平野から飛騨の山脈に連なる街道筋の
富山県と岐阜県との県境に位置し、
飛騨の山々から越中側へのびる8つの山の尾に拓かれた地という意味から
"八尾"と呼ばれるようになったといわれる、自然豊かな地。
かつては、街道の拠点として、飛騨との交易や養蚕、
売薬、売薬用紙の販売による収益などで繁栄していました。
そして、この地で漉かれていた八尾和紙は、
もともと字を書くための紙ではなく、加工する紙として製造され、
薬袋や薬売りのカバンなど、売薬とともに発展してきたそう。
明治初期の最盛期には、「八尾山家千軒、紙漉かざるものなし」
と謳われたほど、ほとんどの家庭で冬の農閑期の仕事として、
紙漉きが行われていたといいます。
しかし、その後、機械漉きが始まると、八尾の和紙産業は衰退。
現在も八尾の地で紙漉きを行うのは、「桂樹舎」1軒のみとなりました。
「うちは大正生まれの父親が始めた工房です。
八尾で和紙産業を再び盛り上げるために、富山県製紙指導所ができて、
父がそこの講習生になりました。
本人いわく、その頃体調を壊していて、暇つぶしに始めたとか」
当時、すでに斜陽産業だった和紙の世界に父親が入った理由を、
息子であり、現社長の吉田泰樹さんが教えてくださいました。
軽い気持ちで紙漉きを始めた父親の吉田慶介さんでしたが、
ある時、民芸運動の指導者・柳宗悦氏の『和紙の美』という本を読んで感動し、
何の面識もなかった柳氏に教えを請いに、東京の日本民藝館に足を運んだそう。
桂樹舎の手掛ける八尾和紙は、
加工用として発展してきたことから丈夫であることと、
カラフルでモダンな目を惹く型染めが特徴ですが、
実はこの型染めを始めた裏には、民芸運動との関わりがありました。
吉田さんは、民芸運動の参加者で染色工芸家の芹沢銈介氏とも知り合い、
戦後、なかなか手に入りにくかった布の代わりに、
和紙に型染めができないかと、芹沢氏と一緒に研究開発を進めるように。
型染めは、図案を作成して型を彫り、
色をつけない部分に糊を置いてから染め、水につけて糊を落とす、
という作業を繰り返すのですが、普通の和紙では水に溶けてしまいます。
研究の結果、楮(こうぞ)の繊維をより多く絡ませて分厚く漉き、
さらにコンニャク糊をしみ込ませて揉む、
という"シワ加工"をすることで水に強い和紙を実現。
初めは素材メーカーとして、芹沢氏の元に和紙を納めるだけでしたが、
そのうちに型染め紙の生産が追いつかなくなり、
吉田さん自身も型染めの技法を学び、
紙漉きから型染め、そして最終的な加工品まで
手掛けることができるようになったといいます。
原料である和紙を漉いて染め、さらに商品企画をして、
最終的な商品に加工する、という一連の工程を一貫して行っている工房は
日本全国探してみても、桂樹舎の他にないかもしれません。
そして、見ているだけでもワクワクしてくるこれらの模様ですが、
そのほとんどが父親の代から使い続けている型紙を使って表現されている
というから意外です。
というのも、それらの模様は決して古臭くなく、
むしろ現代にマッチしていると思うのです。
「父は民芸好きで、日本のものだけならず、アフリカや南米のものなど、
幅広くコレクションしていました。それも紙だけでなく、布も器も。
そこからインスピレーションを受けていたんだと思います。
そう考えると、昔の人はもっと偉いですよね」
そう話す、泰樹さんも大学卒業後、芹沢工房で型染めについて学びました。
そして、その色彩感覚を生かして、数年前から
現代社会により受け入れられるように、カラフルな色遣いをし、
また型紙の使い方も工夫するようになったんだとか。
ところで、現在、桂樹舎には20人の職人が働いており、
そのうちなんと2人を除いて、すべてが女性だそう。
これまで見てきた和紙の産地では、男性職人がほとんどだったので、
それを聞いてとても驚きました。
さらに素晴らしいのが、後継者問題が深刻な和紙業界において、
桂樹舎には20〜30代の若手職人が4人もいるというのです!
「継ぐのは当たり前と思ってこの世界に入りましたが、
こんなにも大変とは思っていませんでしたね。
手間がかかり過ぎているのに、それに見合った価格に紙はできない。
同じ素材である革だと高くて平気でも、紙だとそうは見てもらえない。
だけど、うちがやめてしまったら、室町時代からの
八尾和紙の歴史がなくなってしまうから、
前向きに自分を奮い立たせてやっていますよ」
最近、泰樹さんの元には、娘さんが帰郷し、
和紙づくりに参加するようになったそうです。
1年前にふと手にした名刺入れの裏に、
こうしたストーリーがあったことを改めて知り、
相棒に、より一層愛着が湧いてきました。
バタバタ茶
各地を旅していると、ご当地食材に出会いますが、
なかでも、必ず各地で見かけるのが「お茶」。
千葉では「びわ茶」、茨城で「そば茶」、
栃木で「はと麦茶」、群馬では「桑茶」というように。
ふと考えてみると、お茶は日本国内だけならず、
世界中で様々に飲まれていますね。
私たちが以前世界を回った時には、中国はもちろんのこと、
イギリスのイングリッシュティーをはじめ、
インドのチャイ(ミルクティー)、トルコのアップルティー、
チベットではバター茶なんていうのもありました。
現地では、(特にインドやトルコでは)お茶そのものを楽しむというよりも、
お茶を飲む時間を使って、コミュニケーションを楽しんでいるという印象で、
朝から夜まで、至る所でお茶をしている人々をよく見かけました。
さて、新潟県との県境に程近い、富山県朝日町蛭谷(びるだん)の集落には
今でも独自のお茶文化が残っていると聞いて、行ってきました。
向かった先は「バタバタ茶伝承館」。
公民館のようなその施設の扉を開くと、
「いらっしゃい〜」とおばさまたち。
ちょうどお休みの日で、近くに住むお孫さんたちも遊びに来ていました。
「まぁ、飲んでいってちょうだいよ」
と、グツグツと煮え立つお鍋の中から器にお茶を注ぎ、
慣れた手つきでお茶を点て始めます。
カタカタカタ
2本連なった珍しい茶せん(夫婦茶せん)を使って
左右にお茶を泡立てて飲む。
そう、これこそが蛭谷で飲まれている「バタバタ茶」です。
バタバタというより、カタカタ音がするから、
カタカタ茶の方が合っているかも?
そんなことを思っていると、このバタバタとはお茶を点てる音ではなく、
あわただしくバタバタと茶せんを左右に振る動作を指している
と教えてくれました。
この地域では、ご先祖様の命日や、その他結婚式や入学式などの行事の際に
お茶会を開くんだそうです。
もともとは浄土真宗の儀式のひとつで、
自分たちがお茶をいただく前に、まずは仏様に供えるんだとか。
また、2009年からはこの伝承館において、
近所のおばさま方が交代制で番を務め、近所の人をはじめ、
私たちのような訪問者を温かく迎え入れ、お茶会を開いているのです。
お茶会と聞くと、なんだか難しい礼儀作法とかいろいろとありそう
。
そう伝えると、バタバタ茶においては、決まり事はほとんどなく、
自由に、何杯でもお茶を飲んでいいといいます。
早速、私たちもバタバタ茶を点ててみました!
手首の力を抜いて、左右にカタカタ、カタカタ。
徐々に泡立っていくのが面白い!
こうして、泡を立てることでマイルドな味になるんだそうですよ。
ちなみに、小学校低学年のお孫さんも上手にお茶を点てていて驚くと、
以前までこの地域にあった幼稚園では、
子供たちにもバタバタ茶の文化を伝承していたそう。
そんなバタバタ茶の原料は、「朝日黒茶」というもの。
お茶は製造方法によって基本的に、
不発酵茶・半発酵茶・発酵茶・後発酵茶の4つに大きく分けられるといいます。
それぞれ代表的なものに、不発酵茶は「緑茶」、
半発酵茶は「ウーロン茶」、発酵茶は「紅茶」があり、
「黒茶」は後発酵茶に該当します。
紅茶・ウーロン茶が茶の葉に含まれる酵素の働きで発酵して作られるのに対し、
黒茶は酵素の働きをいったん止めた後、こうじ菌の働きで発酵させるのだそう。
また出てきましたね、"発酵"に"こうじ菌"というキーワード。
これまでも、お醤油や日本酒、納豆づくりに欠かせないものとして
登場してきましたが、お茶にまでこれらがかかわっているとは!
バタバタ茶のお茶請けには、地元で採れた山菜や野菜の煮付け、
漬け物などがつくのが一般的。
お茶請けというと、和菓子のイメージを持ってしまっていましたが、
そういえば、これも各地で違うかもしれませんね。
茨城や栃木では、お茶と一緒に"おせんべい"が出てくることが多かった気がします。
月・水・金・土の10:00~15:00に開館している伝承館は、
その名の通り、バタバタ茶の文化を後世に伝承していく場でもあり、
地元の人の大切なコミュニケーションの場でもあります。
知らない人が来たからといって、嫌な顔をせず笑顔で迎え入れてくれる。
そして、お茶を飲みながら世間話をして、ゆっくりと時間が過ぎていく。
なんだか、海外を旅した時に味わったような感覚を思い出しました。
水と共に生きる
水を飲みたい時には水道の蛇口をひねる。
そんな生活が当たり前の私たちにとって、
富山県黒部市生地(いくじ)の人たちの生活は驚きでした。
この地区では、飲み水は汲みに行くものなんです。
かつて暴れ川と称された黒部川の扇状地に位置するこの地区は、
昔から、洪水などに見舞われながらも、
こんこんと湧き出る清らかな水を、生活に利用してきました。
黒部ダムの建設によって、黒部川の氾濫は抑えられるようになりましたが、
今でもその大量の伏流水が湧き出ており、町の至る所に水場が存在しているんです。
この湧水は「清水(しょうず)」と呼ばれ、
今でも飲み水、炊事用などに利用されており、
タンクに水を汲みに遠方からも人が来るほどです。
生地にはこうした水場が11ヵ所も残っており、
「共同洗い場」と呼ばれ、一昔前まではここで野菜を洗ったり、洗濯をしたりと、
地域の人たちのコミュニケーションの場ともなっていたんだそう。
今でも、こうした洗い場は、地域ごとに地元の方々によって管理され、
みんな自分のところの水が一番!と信じて疑わないため、
町のボランティアガイドは、どこの水が美味しいとは、案内できないそうですよ。
実際に、その内の一つで水を口にすると、
水温が低い軟水で、とっても爽やか!
しかも、これが水場によって、汲み上げている深さが違うようで、
100mのところと70mのところで、また味が変わるんです。
多くの家庭にも湧水が出るようで、
町の酒蔵は清酒に合う水を利用したり、
住人はご飯を炊くのに適した水を利用したりと、
用途ごとに水を使い分けているんだとか。
なんと贅沢な水の遣い方でしょう。
水場の近くでは、おばあちゃんたちが井戸端会議をしていました。
話しかけてみると、とても元気で肌艶もこの通り。
「これも清水のおかげだよ」
と、笑顔で答えてくれました。
翌日、この清水の源流を見てみたくなり、
黒部峡谷、立山へと足を運んでみました。
その渓谷は険しく、流れ込む雪解け水は確かに豊富。
そして、その源が、
この立山をはじめとした北アルプスに降り積もった雪です。
GW時で、この積雪量(17m)ですから、
真冬時の豪雪ぶりは相当なものでしょう。
そりゃ、この雪解け水が流れ込めば、川も氾濫するわけです。
豪雪と、黒部川の氾濫に見舞われ続けたこの地のくらしは、
その環境を受け入れ、共存しているものでした。
その地で生活する人たちは、
水の脅威とありがたみを誰よりも知っている気がしました。
地元で愛され続ける、駄菓子屋さん
富山市街から車で30分ほど行ったところに、
「八尾(やつお)」という、城下町のような雰囲気のただよう町があります。
9月の頭には「おわら風の盆」という、富山を代表する祭りが開催され、
3日間で観光客約25万人が訪れ、賑わうようです。
この町に、ふらっと訪れた私たち。
その日は偶然にも、八尾のもう一つのお祭り、
「曳山祭」の開催日でした。
江戸時代中期から続いているというこのお祭りは、
町内で6地区ごとに保管されている自慢の曳山(山車)が一斉にお目見えし、
町中で曳かれるというもので、
その日は年に一度の記念すべき日だったのです。
「○○ちゃん、久しぶり~!」
「父ちゃん、こっち!こっち!」
至る所からこんな掛け声が響き合っています。
お祭りの日ならではの、今日だけは許された開放的な雰囲気がたまりません。
毎日がお祭りのような都心では、もうこのワクワク感は
味わいにくいのかもしれませんね。
夜も更け、町中を巡った曳山が蔵に戻る頃、宿へ戻ろうと帰路につくと、
通りの一角にひっそりと開いているお店がありました。
中に入ると、そこは駄菓子屋さんでした。
夜9時を回って、開いている駄菓子屋さんがあることに驚きましたが、
さらに驚かされたのが、そこで働いていたおばあちゃんの年齢。
このおばあちゃん、なんと今年98歳を迎えるんだとか!
こんな遅い時間まで、立って店番されるなんて、
どれだけ元気なんでしょう。
しかも、この駄菓子屋さん、この地で60年以上も続いているそうです。
おばあちゃんに、それだけ長く続けられる秘訣を聞くと、
「わたしゃ子供が大好きでねぇ。逆に子供から元気をもらっているんだよ」
と、笑顔で答えてくれました。
我々が旅路の途中だということを伝えると、
「ありゃ、そうですかぁ。わたしゃ、この通り老いぼれなもんでねぇ。
宿まで見送りに行きたいけど、行けなくて申し訳ないねぇ」
と、本当に申し訳なさそうに言うんです。
あまりにも優しいおばあちゃんの態度に心打たれた私たちは、
その日以来、おばあちゃんのことが頭から離れませんでした。
八尾を離れる日、私たちは今一度、
そのおばあちゃんの元へ足を運んでみました。
「こどもや」と呼ばれる、その駄菓子屋さんの店内は、
元気な子供たちで、賑わっていました。
その時間、おばあちゃんは休憩中で、あいにく会うことはできませんでしたが、
息子さん夫婦にお話を伺うことができました。
「戦後、東京から帰郷した母と父は、問屋からお菓子を仕入れて、
少しずつ拡大して、今に至っているんですよ。
もちろん、単価の安いものなんでね。
儲かる商売じゃないから、大変な時期もあったと思います。
ただ、子供たちの憩いの場をなくしたくない、という母の想いがあるから、
今でも続けているんです」
確かに、今は閉店してしまった、私の地元の駄菓子屋さんも、
幼少期の憩いの場となっていたことを思い出しました。
少子化が押し寄せているのはこの町も同様ですが、
それでもお店が続いているのは、
何よりも地元の人に愛されているからではないでしょうか。
事実、私たちがこのお店に滞在中にも、ひっきりなしにお客さんが出入りしており、
なかには、孫と一緒に来るおじいちゃんの姿も。
「昔、来てくれていたお客さんが、
今度は自分の子供や孫を連れて来てくれるんですよ!」
60年余り続いているお店ならではの光景ですが、
後に、それもそのはずだと感じるシーンを目にしました。
お金を遣いすぎる子供に対し、きちんと叱っているんです。
「こらこら、ちゃんと自分で稼ぐようになったらにしなさい」
聞かない子に対しては、親に忠告することもあるんだとか。
あくまでも子供のためになることを前提としたこの姿勢こそが、
この地で60余年、祖父母から子供の世代にまで、
愛され続けている秘訣ではないでしょうか。
八尾の子供を愛し、愛されてきた駄菓子屋さん「こどもや」。
私たちも、またいつの日か、おばあちゃんに会いに、
必ずや戻ってきたいと思います。
富山市の取り組み
富める山の国、富山。
山に囲まれた風景は、まさにその名を実感させます。
総務省統計局「社会・人口統計体系」(2012)調べによると、
富山県の持ち家率は77.5%で、秋田に次ぐ全国2位、
また、持ち家1住宅当たり延べ面積は全国1位だそう。
旅路で出会った富山県民の女性にはこんな話も聞きました。
「昔、お見合いの話が来た時は、顔よりも何よりも
"あの人大きな家持っているわよ~"
って、親から目を輝かせて言われたもんよ」
富山県民には、どうやら自分の家を持って一人前という風潮があるようです。
そんな富山では、富山市にある、
富山ファボーレの無印良品に行ってきました。
すると、お店の入り口付近で目に入ったのが家具のセット。
スタッフに聞いてみると、やっぱり持ち家率の高い富山では
家具類が人気商品なんだそう!
お家ができる前に家具を一式買っていく方も多いんだとか。
新しく建つ自分のお家に「これ置こうか、いやこっちがいいかな!」
なんて想像を巡らせながら、家具を選ぶのは楽しそうですよね♪
富山ファボーレ店では、「インテリア相談会」も行っていて、
図面を持ってきて、家具やインテリアの相談をされるお客様もいるそうですよ。
さて、富山市では車を置いて、自転車で市内を散策してきました!
富山城を目指して、サイクリングを始めると
市街には発見がたくさん!
まず、自転車に乗っていて気づいたのが、
道路がしっかりと、歩道路と自転車路に分かれているんです。
これは自転車大国のベルギーやオランダでは
当たり前のように見られた光景です。
でも、日本ではこうしてきちんと分かれているのは珍しいですよね。
通常、自転車は車道を走ることに決まっていますが、
よく歩道を走っていて、歩行者としては危険な思いをすることもしばしば。
続いて、目にしたのがこちら。
LRT(Light Rail Transit)と呼ばれる新しい交通システムで、
富山市では、2006年に富山ライトレールが国内初のLRTとして開業しました。
LRTとは、環境や人にやさしいトラムを使った交通機関で、
「短い停留所の間隔や低床の車両など、高齢者を含めた誰もが利用しやすい」
「都市内の自動車交通がLRTに転換されることにより、道路交通が円滑になり、
かつ、CO2の削減にもなる」
という特徴があり、人を中心とした街づくりに欠かせない、
これからの交通システムとして注目されています。
また、こんなものも見かけました。
これは、「バイクシェアリングシステム」。
市内各所に設置されたステーションから、自由に自転車を利用して、
任意のステーションに自転車を返却できるシステムです。
これを見た瞬間、
「あ!イギリスのロンドンやフランス、スペインでよく見たやつだ!」
そう、ピンときました。
それもそのはず、富山市では2010年3月にパリのVerib(ヴェリブ)
というバイクシェアリングシステムを参考に、
ヨーロッパ以外で初めて、このシステムを導入したんだそう。
他にも、富山市では新しい文化の創出と地場産業育成の観点から、
「ガラスの街とやま」を目指して、早くから様々な取り組みがされているんです。
将来のガラス文化を担う優れた人材の育成の「富山ガラス造形研究所」、
地元ガラス作家の作品販売や異業種間交流を推進する「富山ガラス工房」、
道行く人々に気軽にガラスの魅力に触れてもらう
「ストリート・ミュージアム・プロジェクト」、
さらには今年の秋には、ガラスの制作体験などができる
「新ガラス工房」もできるそうですよ。
こうした取り組みが評価され、
富山市は今年1月に国が指定する「環境未来都市」に制定されました。
初めて知ることの多かった、富山市散策。
今後も富山市の取り組みに目が離せません!
おきぐすり
突然ですが、みなさんはケガをしたり、体調を崩したりした時に
どのように対処しますか?
病院に行く前に、まずは市販の薬を なんて人も多いのでは?
だけど、買った薬をすべて使い切ることって意外に難しく、
次使う時には使用期限切れということも経験あるかもしれません。
それを解決してくれるのが、「おきぐすり」。
以前は「売薬」といわれていた薬の販売方法で、
配置員が、直接消費者の家庭を訪問して、薬をあらかじめ消費者に預け、
次回訪問した時に、消費者が服用した分だけの代金を集めていくというもの。
これであれば、使い損じが生じなくていいですよね。
そんな「おきぐすり」が始まったのが、300年以上前の富山といわれています。
当時、加賀藩から分藩した富山藩は、財政難に見舞われていました。
そこで、自分も体の弱かったお殿様が、薬産業を始めさせたんだとか。
当時の一般庶民の日常生活では、貨幣の流通が十分ではなかったために
この「先用後利」(用を先に利を後に)の仕組みは大変重宝がられたそう。
"信頼"がないと成り立たないこの仕組みは
今のクレジット商法の前身でもあるようです。
富山市内には、当時の薬売りの様子を表した像もありましたよ。
そして、この「おきぐすり」とともに発展したのが、「越中和紙」。
薬を包む紙や袋はもちろん、
子供たちのお土産用に配る、紙風船や版画絵にも使われていたそう。
もともと字を書くための紙ではなく、
加工する紙として製造されてきた越中和紙は、
おきぐすりやさんのカバンとしても活躍していたほど丈夫。
今でも名刺入れやブックカバー、小物入れなどが作られています。
ところで、レトロな薬袋のデザインを見ていて
気づいたことがありました。
だるまの絵が多いこと!
先日、群馬の高崎でそのルーツを探った"だるま"ですが、
こんなところにも登場していたとは。
なにやら、だるまは寝てもすぐに起き上がることから、
薬袋のデザインに多用されていたそう。
他には、早く治ることの象徴として、ロケットや飛行機のデザインも
多かったそうですよ。
こうして、ひとつの事柄を見ていくと、
付随してどんどんと別の事柄も見えてきて面白いですね。
「まいどはや まめなけ」
これは「ごめんください 達者でしたか」の意味を含む、
富山のおきぐすりやさんの昔ながらの挨拶言葉。
現在も1300人ほどのおきぐすりやさんが、
富山を出て全国を回っていると聞きます。
信用で成り立っている「おきぐすり」は
日本ならではの商売手法なのかもしれませんね。