八尾和紙
昨年、富山県をキャラバン中に出会ったこちらの名刺入れ。
「八尾(やつお)和紙」と呼ばれる、
富山県南部の八尾町で漉かれている和紙を使ったものでした。
一目惚れで手に取ってから、旅路をともにしましたが、
とても丈夫で、1年経っても汚れや型崩れがありません。
今回はその生産現場を見に、1年ぶりに八尾町を訪れました。
八尾町は、平野から飛騨の山脈に連なる街道筋の
富山県と岐阜県との県境に位置し、
飛騨の山々から越中側へのびる8つの山の尾に拓かれた地という意味から
"八尾"と呼ばれるようになったといわれる、自然豊かな地。
かつては、街道の拠点として、飛騨との交易や養蚕、
売薬、売薬用紙の販売による収益などで繁栄していました。
そして、この地で漉かれていた八尾和紙は、
もともと字を書くための紙ではなく、加工する紙として製造され、
薬袋や薬売りのカバンなど、売薬とともに発展してきたそう。
明治初期の最盛期には、「八尾山家千軒、紙漉かざるものなし」
と謳われたほど、ほとんどの家庭で冬の農閑期の仕事として、
紙漉きが行われていたといいます。
しかし、その後、機械漉きが始まると、八尾の和紙産業は衰退。
現在も八尾の地で紙漉きを行うのは、「桂樹舎」1軒のみとなりました。
「うちは大正生まれの父親が始めた工房です。
八尾で和紙産業を再び盛り上げるために、富山県製紙指導所ができて、
父がそこの講習生になりました。
本人いわく、その頃体調を壊していて、暇つぶしに始めたとか」
当時、すでに斜陽産業だった和紙の世界に父親が入った理由を、
息子であり、現社長の吉田泰樹さんが教えてくださいました。
軽い気持ちで紙漉きを始めた父親の吉田慶介さんでしたが、
ある時、民芸運動の指導者・柳宗悦氏の『和紙の美』という本を読んで感動し、
何の面識もなかった柳氏に教えを請いに、東京の日本民藝館に足を運んだそう。
桂樹舎の手掛ける八尾和紙は、
加工用として発展してきたことから丈夫であることと、
カラフルでモダンな目を惹く型染めが特徴ですが、
実はこの型染めを始めた裏には、民芸運動との関わりがありました。
吉田さんは、民芸運動の参加者で染色工芸家の芹沢銈介氏とも知り合い、
戦後、なかなか手に入りにくかった布の代わりに、
和紙に型染めができないかと、芹沢氏と一緒に研究開発を進めるように。
型染めは、図案を作成して型を彫り、
色をつけない部分に糊を置いてから染め、水につけて糊を落とす、
という作業を繰り返すのですが、普通の和紙では水に溶けてしまいます。
研究の結果、楮(こうぞ)の繊維をより多く絡ませて分厚く漉き、
さらにコンニャク糊をしみ込ませて揉む、
という"シワ加工"をすることで水に強い和紙を実現。
初めは素材メーカーとして、芹沢氏の元に和紙を納めるだけでしたが、
そのうちに型染め紙の生産が追いつかなくなり、
吉田さん自身も型染めの技法を学び、
紙漉きから型染め、そして最終的な加工品まで
手掛けることができるようになったといいます。
原料である和紙を漉いて染め、さらに商品企画をして、
最終的な商品に加工する、という一連の工程を一貫して行っている工房は
日本全国探してみても、桂樹舎の他にないかもしれません。
そして、見ているだけでもワクワクしてくるこれらの模様ですが、
そのほとんどが父親の代から使い続けている型紙を使って表現されている
というから意外です。
というのも、それらの模様は決して古臭くなく、
むしろ現代にマッチしていると思うのです。
「父は民芸好きで、日本のものだけならず、アフリカや南米のものなど、
幅広くコレクションしていました。それも紙だけでなく、布も器も。
そこからインスピレーションを受けていたんだと思います。
そう考えると、昔の人はもっと偉いですよね」
そう話す、泰樹さんも大学卒業後、芹沢工房で型染めについて学びました。
そして、その色彩感覚を生かして、数年前から
現代社会により受け入れられるように、カラフルな色遣いをし、
また型紙の使い方も工夫するようになったんだとか。
ところで、現在、桂樹舎には20人の職人が働いており、
そのうちなんと2人を除いて、すべてが女性だそう。
これまで見てきた和紙の産地では、男性職人がほとんどだったので、
それを聞いてとても驚きました。
さらに素晴らしいのが、後継者問題が深刻な和紙業界において、
桂樹舎には20〜30代の若手職人が4人もいるというのです!
「継ぐのは当たり前と思ってこの世界に入りましたが、
こんなにも大変とは思っていませんでしたね。
手間がかかり過ぎているのに、それに見合った価格に紙はできない。
同じ素材である革だと高くて平気でも、紙だとそうは見てもらえない。
だけど、うちがやめてしまったら、室町時代からの
八尾和紙の歴史がなくなってしまうから、
前向きに自分を奮い立たせてやっていますよ」
最近、泰樹さんの元には、娘さんが帰郷し、
和紙づくりに参加するようになったそうです。
1年前にふと手にした名刺入れの裏に、
こうしたストーリーがあったことを改めて知り、
相棒に、より一層愛着が湧いてきました。