MUJIキャラバン

米沢牛との出逢い

2012年07月02日

山形県南部の人口8000人に満たない町、飯豊町(いいでまち)。

広大な田園散居集落が広がるその地は、
全国にその名を轟かせる肉牛の産地でもあります。

「松阪牛」「神戸牛」と並んで、日本三大和牛に数えられる「米沢牛」。
その約4割は、この飯豊町で飼育され、出荷されているんです。

その牛を一目見たいと、宿の近くの牛舎の周りをウロウロしていると、
よほど怪しく見えたのでしょう。

「どっから来たね?」
複数の男性に声を掛けられます。

「東京です。取材で」
と応えると、

「そしたら、ええ写真ある。づいでごい」
と言われるがままに、近くの公民館に連れて行ってもらうことに。

そこには、米沢牛の歴史を語るうえで、希少な写真が飾られていました。

「むがしっがら、立派な牛を育てとったんだぁ」

そう、その男性たちは、
飯豊町で畜産業を営む社長の方々だったのです。

しかもそのうちの一人は、
この地区で最も古くから畜産業を営む、田中畜産の田中社長。

偶然の巡り合わせで、米沢牛の歴史、おいしさの秘訣などについて
お聞きすることができました。

米沢牛の名が全国に馳せるようになったのは明治初期。

米沢藩に招かれていた英国人講師チャールズ・ヘンリー・ダラス氏が、
故郷を懐かしんで牛肉を食べ、その味に感激し、任務を終えた際に、
米沢の牛を1頭横浜に連れ帰り、仲間に振る舞ったことに始まるようです。

当時、食肉用というよりも、農耕作業用に飼われていた牛でしたが、
文明開化後、欧米の肉食文化が浸透していくにつれ、
米沢牛の名は徐々に全国的に広まっていきました。

「その美味しさの秘訣は?」

ふと素人じみた質問をすると、

「ええもん食わせてっからなぁ」と。

かねて土壌が肥沃だったこの地域では、
農耕作業用に家族同様に扱われていた牛にも
お米を与えていたんだそう。

今でこそお米は与えてはいませんが、
国産の稲わら、大麦、とうもろこし、大豆かす、フスマ、米ぬかなど、
生産者独自に、おいしい肉質を追求した餌が配合され、
場所によっては米沢産のりんごを与えるところもあるそうです。

田中社長曰く、海外では与えないような独自の餌の配合が、
和牛のおいしさをもたらしているとのこと。

さらに、寒暖差の激しい気候も、
牛の体が寒い冬を乗り越えるべく、脂質を蓄えようとするため、
きめ細かい霜降り肉にするための大切な条件なんだそうです。

「なるほど、それなりにお値段が張るわけですよね…」

「そりゃそうだぁ。2年間、育てっがら!」

そう、生後10ヵ月の仔牛から精魂込めて約2年間、
立派な牛に育て上げたうえで、出荷するわけなんです。

しかも、1頭の母牛から1頭しか仔牛は誕生しません。

ちなみに、
豚は一頭から3~12匹産まれ、出荷までは約6ヶ月間。
鶏は一頭からたくさんの卵が産まれ、出荷までは約2ヵ月間。

牛肉が高い訳も分かります。

それだけに出荷する時は、さみしさも募るようです。

一頭ずつ、番号で呼んでいるのかと思いきや、
きちんと名前も付けているそうですから。

写真は昔の出荷時の光景ですが、
生産者たちが総出で、牛を見送っている姿からも、
その想いの強さを感じます。

「せっかぐだから、食べてけぇ」

普通には絶対に聞けないような話を聞くことができ、
その上、ご馳走にまでなるのはさすがに気が引けましたが、

「ええがら、ええがら」

と笑顔で田中社長に勧められ、結局お言葉に甘えることに…。

そこで出していただいた牛肉は、
口の中でとろけるような味わい。

レバーも、まったくと言っていいほど臭みがありません。

これで、レバ刺しも食べ納めです。
(取材は、6月下旬に行いました)

日本三大和牛、米沢牛のおいしさの裏には、
生産者のあくなき努力と想いが詰まっているんですね。

食卓では、常に感謝の気持ちを忘れずに、
もちろん残すことなく頂こうと心に決めました。

  • プロフィール MUJIキャラバン隊
    長谷川浩史・梨紗
    世界一周の旅をした経験をもつ夫婦が、今度は日本一周の旅に出ました。
    www.cool-boom.jp
    kurashisa.co.jp

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