各国・各地で「千葉・鴨川 ─里山という「いのちの彫刻」─」
棚田の村へ入ると、まるで時計の針を戻していくように過去へとタイムトラベルしていきます。しかし、ここでの暮らしから見えるのは、過去を突き抜けた「未来の風景」です。

桃源郷みかん物語

2014年12月24日

一つひとつの食べものには、物語があります。
つくっている人、その人の思い、その土地ならではの農業、風土気候、文化、歴史・・・。
世界放浪後、15年前この土地に初めて足を踏み入れた時、手の行き届いたみかん畑と棚田と古民家のある里山の風景に、僕は足が震えるほど感動したのを昨日のことのように憶えています。

「ここは、現代の桃源郷だ」

僕の暮らす古民家の下には、約1町歩100本の温州みかんが里山の南斜面に並んでいます。
この夏、百姓の師匠である長老のきんざ(栢尾勉さんの屋号)さんが87才でお亡くなりになり、その直前に僕はこのみかん畑を引き継ぎました。

このみかんの木は1962年に植えられた52年の長寿木です。通常寿命35年から40年のみかんは、収量が年々下がるため伐採され植え替えられるそうですが、ここのみかんの木は残されました。収量は下がっても、長寿木のみかんは味の濃い美味しい実をつけます。

鴨川および房総半島は、みかんの北限として栽培が盛んな土地でした。しかし、今ではほんの一握りしか残っておらず、今後ますます進む高齢化とともに、壊滅状態になるでしょう。

誰も知り合いもいない、縁もゆかりもない農村に飛び込んだ僕を、最初に受け入れてくれた人が、長老のきんざさんでした。
きんざさんが長年手塩にかけたみかん畑でひとり黙々と作業していると、いつの間にか亡くなったきんざさんが僕の隣にあらわれ、ニコニコと一緒に作業しているのを感じます。この里山の大地に、風に、光に、みかんの木に、彼は生きているのです。

この美しい里山の時間と空間は、ここに生きた人々が1千年をかけて創りあげた「いのちの彫刻」だと思っています。
だから、ここを守り「次の時代」へ手渡していこうと思います。
どんなに社会が変化しても、1千年後も変わらぬ人と自然の営みが、ここにはあると思っています。

素晴らしい死

87才まで現役で百姓仕事をしていたきんざさんは、冬に体調を崩し、夏になるとサッと風のように逝きました。
集落の最長老であるきんざさんは、移住者や都市住民をこころよく受け入れ、さらに都市と農村をつなぐ活動を積極的に行い、村のしきたりや伝統的な暮らしの知恵を惜しみなく僕らに教えてくれ、保守的な村の重い扉を開きました。

また、地域の重要な役である大山不動尊の総代長も長年努め、地域コミュニティのために尽力し、移住希望者のために空き家も紹介してくれました。
そんな地域のリーダーであったきんざさんは、常に礼儀正しく、気品があり、人格者でもありました。孫に近い世代の僕のことを「さん」付けで呼び、頼み事や相談は何でも引き受けてくれ、講師を依頼しても謝礼を受け取らず、移住者のことを決して「ヨソモノ」と言いませんでした。
こういう人のことを「徳が高い」というのだな、と思いました。

地元でなにか問題があると皆、きんざさんに聞きに来るほど何でも知っている彼のことを、僕は「村の図書館」だと思っていました。
80才以上の長老たちが持っている暮らしの知恵を今引き継がなければ、連綿と受け継がれてきた日本の里山文化が途絶えてしまいます。それはあまりにも、もったいないことだと思い、僕はNPOの仲間たちと2013年に鴨川市の助成金を受けて、きんざさんの手仕事を記録した「里山の教科書」という小冊子をつくりました。

きんざさんは、偉ぶらず、おごらず、謙虚で、優しく、そして良く働きました。
命尽きるまで大地で働き、最後はまわりに迷惑をかけずに、この世を静かに去ったきんざさんの死に方は、誤解を恐れず言うと「素晴らしい死」でした。

僕もこんな風に死を迎えたいと思いました。
「素晴らしい死」を迎えることは、「素晴らしい生」を全うすることです。
毎日、生を全うしていれば、死を恐れることはなくなるでしょう。
「農のある暮らし」とは、「最高の医療」であり、「最高の福祉」なのだと、長老の死から教わったような気がします。

生きることはアート

きんざさんの手は魔法のようでした。

農園は絵のように美しく、野菜畑は着物のテキスタイルデザインとなり、棚田は稲と土と水の彫刻となり、わら細工は工芸品となり、果樹園は空中庭園となりました。

お米をつくり、野菜や果樹を育て、木を切り、炭を焼き、小屋を建て、土木工事や水道工事をこなし、手仕事で必要な道具をつくり、自らの力で生きていた彼はまさに百の仕事をする「最後の百姓」でした。
納屋へ入るといつもキレイに整理整頓され、手の行き届いた農具が並び、暮らしの細部に「気」が入り、きんざさんの手にかかると「暮らしそのものが美」になりました。

これからの時代は、生きることがアートになると思います。
芸術は一部の人のものから、すべての人が暮らしの中で楽しみ、生活を豊かにする「術」として、広く社会に解放されていくでしょう。
柳宗悦の「民芸運動」、宮沢賢治の「農民芸術概論」、ウィリアム・モリスの「アーツ・アンド・クラフツ運動」、ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」、サティシュ・クマールの「ソイル(土)・ソウル(心)・ソサイエティ(社会)」等々、生活と芸術の一体化を主張した人々は、洋の東西を問わず存在します。

江戸時代末期から明治の初めにかけて、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)など日本へ来た西洋人は農村の美しさに大変驚き、口をそろえて"日本人ほど幸福に見える国民はいない"と言ったそうです。

"たとえばアメリカの初代総領事ハリスは次のように述べている。「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もいない。----これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる」と。
またイギリス人の詩人・ジャーナリスト、エドウィン・アーノルドは、日本の街の様子について、「これ以上幸せそうな人々はどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスを取りながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、『おはよう』『おはようございます』とか、『さよなら、さよなら』というきれいな挨拶が空気をみたす」と述べている。

もう一つ加えると、工部大学校の教師をつとめたイギリス人ディクソンは次のように言う。「ひとつの事実がたちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。・・・西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている」"

(「人口減少社会という希望 コミュニティ経済の生成と地球倫理」広井良典・著/朝日新聞出版)

今、日本の若者たちの農村回帰が始まっているのは、その頃の西洋人の状況と似ているような気がします。
都会で生まれ、西洋的な文化に囲まれて育った若者たちは、日本の農村に自分たちのルーツや暮らしの美、本当の豊かさを「発見」しているのだと思います。

生きることがアートになり、暮らしそのものが、美しく、楽しく、満ち足りたものであれば、一人ひとりの人生は輝き、社会はもっと豊かに、そしてもっと平和になるでしょう。

Photo by hirono masuda, satomi simogo, miako hatanaka, yoshiki hayashi

  • プロフィール 林良樹
    千葉・鴨川の里山に暮らし、「美しい村が美しい地球を創る」をテーマに、釜沼北棚田オーナー制、無印良品 鴨川里山トラスト、釜沼木炭生産組合、地域通貨あわマネーなど、人と自然、都会と田舎をつなぐ多様な活動を行っています。
    NPO法人うず 理事長

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