「文化のバトン」を次世代へ
昨年の暮れは、1年の締めくくりに恒例となった注連縄かざりをつくるワークショップを、合計6回も行いました。
今回の講師は、去年と同じように友人の畑中亨くんの他、百姓の師匠である長老のこんぴら(柴崎栄一)さん、かわばた(柴崎五一)さん、じいた(瀬戸善一)さんにも来て頂きました。
まず、最初は無印良品 有楽町店のOpen MUJI Tokyoにて12月12日土曜日から13日日曜日の2日連続行われたワークショップで、僕らは長老たちと泊まりがけで東京へ行ってきました。
「いや~、有楽町はスゲー人だっぺよぅ~。」
「この店にいる人の数の方が、ウチの集落より多いっぺ。」
「そういや俺は若い頃、昭和30年代だったろうか、1人で有楽町へ映画「紅の翼」を見に行ったことがあってよう、映画館へ向かって歩いている途中、ひと目で俺が田舎から出てきたんだとわかったんだろうな、ダフ屋が寄ってきてもう映画のチケットは売れ切れたと言って、ぼったくられたんだよな~ハハハ、いや~そんなこともあったな~。」
「ええ~、その頃の有楽町は、そんな感じだったんですか!」
僕はインドを旅していた若い頃に、散々ぼったくられた経験を思い出しました。
里山ではいつも地下足袋や長靴で元気に野良仕事に精を出している長老たちですが、有楽町では革靴を履いてキョロキョロと周りを観察し、まるで外国へ来たように東京滞在を楽しんでいました。
有楽町に「リトル釜沼」出現!
日本最大規模の無印良品店舗の有楽町店はさすがに連日、日本のみならず世界中からのお客さんで賑わっていました。そんな中で、畳を敷き詰めたOpen MUJI Tokyoの白い空間に、僕は長老たちといることが不思議な感覚でした。でも、ワークショップがはじまると僕らは東京にいることも忘れ、すぐに参加者のみなさんと一体となって手仕事に集中していきました。
また、幼子を連れたワークショップ参加者が注連縄かざりをつくっている最中、長老のじいたさんが幼子を膝に乗せて子守をしていたり、都会に暮らす長老のお子さんやお孫さんも祖父に会いに顔を出してくれたり、会場は終始笑顔が絶えず、ファミリー感のあるアットホームな「リトル釜沼」になっていました。
有楽町店では2日間午前と午後、計4回のワークショップを行い沢山の方に参加して頂き、おかげさまで大盛況でした。高齢の長老たちも2日間元気にワークショップの講師をつとめられ、帰りの車中では、いや~良い体験ができた、良い思い出ができた、と東京滞在を大変喜んでくれました。
きらびやかな夜の東京を後にし、僕は東京でのワークショップをやって良かったなと思い、「手仕事の時間」の余韻を味わいながら、夜の闇がつつむ房総半島を南下し帰路につきました。
今度は里山で
そして、その一週間後の12月19日土曜日には、釜沼集落で再び注連縄づくり&みかん狩りを行い、今度は都会の人に里山へ来て頂きました。
当日は快晴だったので、古民家ゆうぎつかの庭にブルーシートを敷いて、外で注連縄かざりをつくりました。東京で行うワークショップも良かったですが、やはり里山の広い空間は気持ちが良いです。
今回も沢山の親子連れに参加して頂き、とても賑やかになりました。
はじめは親と一緒になって注連縄かざりをつくっていた子どもたちは、そのうちに色々な遊びを見つけ出し、もうじっと座ってなんかいられません。
子どもたちは我が家のにわとり「コッコちゃん」と遊んだり、裏山へ冒険ごっこをしたり、みんな初対面とは思えないほど仲良くなり、縦横無尽に里山を走り回り、我が家はもうほとんど里山自由保育園となりました。
昼食は、料理家の米山美穂さんがつくってくれた地元の冬野菜をふんだんに使ったヘルシーな里山ごはんです。
メニューは、タカキビ肉団子風 葛あんかけ、冬至カボチャともちアワの炊き合わせ きんとん風、人参のフライ、レンコンのムニエル、大根の自家製醤油漬け 柚子風味、菜花のおひたし、サツマイモと白菜のヒエシチュー、もちキビ入りごはんです。
子どもたちは、元気に遊んでモリモリ食べてくれました。
コミュニティの相互扶助
午後からは、注連縄かざりに南天や千両の赤い実、それに稲穂をつけて完成させました。
注連縄かざりの材料はすべて里山集落にあるので、この南天や千両の赤い実を分けてもらいに、僕はワークショップの前日、村中を軽トラで走り回っていました。
すると、アチコチで声がかかり、これ持っていけ、あれ持っていけと、カボチャや大根、春菊、小松菜など食べきれないほど、沢山のおみやげを頂きました。いやいや、こんなに食べきれませんよという僕の主張は聞いてもらえず、ニコニコといいから持っていきんしゃいと、ドシドシくれるのです。
里山集落に暮らして驚いたことは、こういった与え合う贈与文化が日常生活にごく普通にあることです。それは、モノの少なかった時代から、長い間コミュニティでお互い助けあって暮らしてきたからなのでしょう。
そして、このコミュニティの相互扶助が里山に暮らしていることの「安心感」と「豊かさ」をもたらしてくれるのだと、つくづく思います。
注連縄かざりが完成すると、古民家ゆうぎつかの真下にある里山の南斜面にあるみかん畑へ、みかん狩りに行きました。
みかんは一本一本の木によって味が異なりますので、それぞれの木を味見しながら、自分のお気に入りのみかんを収穫し、袋詰めしてもらいました。
みかん畑でも子どもたちは大活躍で、木に登ったり、セッセと収穫してくれました。
今年は暖冬のせいか、みかんはとても甘くて本当に美味しく、大豊作でした。
そして、美味しい、美味しい、と言って食べてくれる姿を見るのは、農家にとって一番うれしいことです。
「感謝」と「祈り」の手仕事
その翌日の20日日曜日には釜沼集落の集会所で、長老たちと丸一日かけてこの地域の伝統的な大きな注連縄かざりのワークショップを行い、12月は延べ100人以上もの人へ注連縄かざりをお伝えしました。
長老に聞くところによると、しめ縄かざりをつくるのは父親の仕事であり、稲刈りを終えるとその年の青みがかった最もきれいな稲わらをカビないように保管しておき、年末になると自分の家へ年神様を迎えるため、玄関へしめ縄かざりを飾ったそうです。そして、驚くことにこの地域ではお正月は男が働き、女は休んだと聞きました。働き者の農家のお母さんに1年の労をねぎらい、お正月は休んでもらったのですね。
貨幣経済が今のように浸透していなかった時代、お米はお金と同じ価値を持ち、まさに生きる糧であり、さらに機械化される前の農業は本当に大変な労働でしたから、この1年の締めくくりに父親が家族のために注連縄かざりをつくることは、とても深い思い入れがあったに違いません。
1年間無事にお米がつくれたことへの「感謝」と、来年もお米がつくれますようにと「祈り」の気持ちを込めて、父親は注連縄かざりをつくったことでしょう。
注連縄の歴史は日本神話にも出てくるほど古く、昔から暮らしと共にあった習俗ですが、現代の稲作は機械化され、稲刈りはコンバインで行うため、稲わらは細かく粉砕されて田んぼへ撒かれるので、長いままの稲わらはほとんどなく、農村でさえ注連縄かざりをつくる機会は減りました。
社会の変化と共に日本の手仕事はどんどん消えていきますが、お米を主食とする民族の新年を迎えるための手仕事が消えることなく、こうやってワークショップを通じて楽しみながらも「文化のバトン」を次世代へ手渡していけたら、それは素敵なことだと思っています。
Photo by Hirono Masuda・Yoshiki Hayashi