突如、山に現れる美しい棚田。ずっとこの土地を守ってきたおばあちゃん。
宮崎県日南市の国道222号線を都城市方面に向かうと見えてくる、山あいに囲まれた酒谷(さかたに)地区。更に山手に入り10分程車を走らせると見えてくるのが坂元(さかもと)地区にある坂元棚田です。日本の棚田100選に選ばれるほど美しい、日本の原風景ともいえる景観が残ります。今回は、そんな坂元棚田の麓で55年間暮らしながら棚田を見つめてきた、谷口ハルコさんのお話。
ハルコさんは、昭和13年5月5日生まれの日南育ち。今は2軒しかない隣村の小布瀬(こぶせ)地区で、5人兄弟の末っ子として育ちます。「自分はまだこの地区にきてそんなに経っていないんだけどね」。と謙遜しながらも、坂元に嫁いで55年。ずっとこの土地を護ってきました。
「ごはんを炊きだすとね、おばあちゃんがやかましくて。昔のお姑さんは難しかったからな~(笑)」朝は釜でごはんを炊きました。ごはんを炊き終わると、息子達の学校の支度をする面倒を見る間もなく、牛や馬を引いて山に行きました。最初は馬2頭、牛2頭養っていて、そのエサとなる草を集めるのもハルコさんの役目。畑仕事を終えたら夕方5時に山を出て草を刈り、6時半にはご飯を作るために家に帰るという生活。鎌を腰にさし、畦の横に馬を立たせて、そこから馬に飛び乗っていたといいます。当時の道は舗装もされていませんから、石ばっかりの荒れ道。山の小払いには鉈を使って進むほどだったというから、そのパワーに感服してしまいます。
山で作業をしていると、自分の子供が登校しながら騒いでいるのが聞こえ、「宿題を忘れなかったかな」とか、「忘れ物は無かったかな」などと心配しながら作業をしていたと笑います。「家に帰ると案の定、3人のうち誰かが忘れ物をしていて、地域の他の仲間に届けてもらうようにお願いしたりしていました」。忙しくて学校参観にも行けなかったハルコさんですが、今では子供にも孫にも恵まれ、良い生活が出来ていると笑います。
坂元棚田と関わり始めたきっかけ
旦那さんのところに嫁いだばかりの昭和34年から、棚田の一角に畑の開墾を始めたというハルコさん。これがきっかけとなり、坂元棚田で毎年お米を育てるようになりました。しかし、石を切り出しリヤカーに乗せて運んでの繰り返しに、身体はボロボロ。「お嫁にきたばかりだったから、手も柔らかくて(笑)。 手袋をするわけじゃないので、手から血が出たりしていました」。元々は全部山だった場所を、「もっこ」に石や砂を抱えて畑を作ってきたというから驚きです。
嫁いでからは毎年棚田で米を育て、竹を固めて旦那さんと掛け干しをしてきたハルコさん。米の取り入れが済むと、旦那さんと2人で「とまり山」という6~7人泊まれる山小屋に行って、一緒に行く山師が食べるごはんの炊事などをしていたことも、振り返って話してくださいました。よその集落の山小屋に泊まって、そこで牛を連れて仕事をするそうで「牛を6頭、人のものまで面倒をみてましたけど、芋や豆を食べたりして。隣の串間市までも行ってました」。食料品も何もなくて、サバの缶詰が唯一のごちそう。今の時期はだいこんの葉、からいも等を食べていたということからも、とても食料確保が大変だったことが伺えます。当時は車も無く、女は免許を取ったらいけないという風潮もあったといいます。
集落の人々
この集落に住んでいる人々は、ほとんどが棚田の所有者。なかには高齢で世話ができなくなり、棚田のオーナーに預けている人もいるのだとか。ハルコさんは12年前に旦那さんを亡くし、来年が13回忌。「お父さんが亡くなってから掛け干しをようしきらんがな(なかなか出来ない)」。息子さんも仕事をしているし、自由が利かないので休みを利用しては農業の手伝いをしてもらうけど、雨が降って出来ない事もあります。「それでも私はまだ、息子が棚田で頑張ってくれているし、2人の孫も手伝ってくれるから」。と現役を続けるハルコさん。「子供たちが帰って来てくれるから、なんとか生かせてもらえる限りは頑張っていこうと思います」。
「ばあちゃんばっかりで1人暮らしも多くなったじゃないですか。だから余計、結束が強くなっているんです」。よくお茶を飲んだり、お話をしたりと、坂元の集落の人たちはみんな元気で仲良しです。そうやって生きて行かないと、人は1人では生きられない。ハルコさんのお子さんもお孫さんも、都会に行かないまでもみんな地区の外で暮らしています。「だから、ここにはばあちゃんばっかり残るがな」と笑います。山での暮らし。親から子へ、子から孫へ。先祖が開墾した棚田を守り、後世にも伝えるために、親子3世代で稲作に取り組み、2人(双子)の孫たちは棚田保護活動や、棚田の良さの周知、疎遠になりかける集落の横の繋がりを復活させるべく催しの開催などにも取り組んでいます。
下の世代が、棚田の景観、歴史を守ろうと活動していること
日本の棚田100選に選ばれてからというもの、「棚田を守れ」と言われることも多くなったと言いますが、そのたびに「棚田を守るためには自分の体を守れ」と返すハルコさん。選ばれた以上は、棚田を荒らせないという誇りとプライド。しかし身体に限界も感じるといいます。田植えから稲刈りの時期にかけては、田んぼの水量を調整する為に毎日朝と晩、所有する田んぼ11枚全て歩いて見て回ります。勾配もあり、細いあぜ道を歩いて回るのも最近では大変な作業となり、孫達があちこちの草を払ったり、手入れしてくれるからありがたいと感慨深げでした。ありがたいと思っているけど
、やはり自分の体を守りなさい、とここはゆずりません。いくらお金を持っていたとしても、体が弱ければどうにもならない。それよりも、貧しい生活でも体が丈夫なら生きていられる。「棚田も大事やけど、体も大事。無理しなくていいよ」。
季節の楽しみもあり、冬は積んである石も冷たくなって棚田は眠ってしまうが、秋は秋桜や彼岸花が美しい。展望台から眺めると格別なのだそう。夜には星が輝き、水も澄みきっている。小松山からの澄んだ水が、おいしくて安心して食べられるお米を作ってくれます。
坂元棚田について
坂元棚田は、日南市の最高峰である小松山(988.8m)の南斜面標高200mの麓に位置し、小松山を水源の清らかな水が谷川から棚田へと流れ込んでいます。
棚田の元地は、集落共有の屋根を葺く茅を刈る原野で茅場とよばれていたところです。
その茅場が棚田へと変わっていったのは昭和の初めで、国の補助事業を導入して大正の末から測量が始められ、昭和3年5月に坂元耕地整備組合を設立して同年9月から本格的に工事が始められました。工事は5年間、19,747円と、当時としては高額の費用をかけて昭和8年8月に約100枚、5ヘクタールの棚田が完成しました。
石積みは全て現地の石を利用したもので、小さな自然石と大石を割ったものを垂直に近い斜面に高く積み上げる技は大変難しく、専門の技術者を入れて工事は始まりました。工事が進むにしたがって地元の人々も見よう見まねで技術を習得し、十数枚の田が出来上がった頃からは、地区の人々を中心に家族総出で工事が進められたようです。
この棚田は馬耕を前提としており、全国的に類をみない幾何学的に整備されたもので、1枚辺り5アールの面積やあぜ道の幅などすべて馬耕の思想が見られます。
開田と同時に、灌漑用水工事も行われ、小松山中腹の赤ナメラ谷、半四郎窯谷の二つの谷から約1500mの水路開削工事も進められました。
当時は渇水が激しく、田の表土も硬く、稲の収穫は現在の半分にも及ばない程でしたが、農家の努力によって年毎に耕作し易くなり、徐々に増収へとつながってゆきました。
現在地元農家(平均64歳)13戸が約70枚、3.5ヘクタールの水田を耕している。
農林水産省は平成11年7月26日、文化的遺産や国土保全、動植物生態系の維持などを果たしている役割を評価して「日本の棚田百選」に認定しました。 また、棚田保全活動のひとつとして農閑期にレンゲを蒔き、毎年4月の第二週の土・日曜日には棚田一面がれんげの花で彩られる「棚田まつり」が行われ、訪れる人々の心を潤している。