海の道をつないでアイランドホッピング 広島県瀬戸内海の旅その2
「コマンタレブー?(ご機嫌いかが?)」
フランス人の女性教師が自転車に乗りながら挨拶を振りまくオレンジジュースのCMを見た時、その撮影場所が大崎下島の御手洗(みたらい)地区だと一発で分かった。
緩やかなカーブを描く堤防沿いの道、時代物の建物が混在するレトロ感ある家並、たおやかな海に点在する大小さまざまな島嶼群。間違いない、御手洗だ。
僕は以前に一度だけ大崎下島を訪れたことがあった。けれど、その時はこの島にこんな素敵な場所があると知ってやって来たわけではなかった。僕と大崎下島をひも付けたのは御手洗出身の故人・中村春吉という人物だ。
中村春吉は1902年から1903年にかけて日本人初の自転車世界一周を果たした男だ。中国、シンガポール、ミャンマー、インド、イタリア、フランス、イギリス、そしてアメリカを周遊したという。いわば僕の大先輩みたいな人間だ。その春吉の生まれ故郷が大崎下島の御手洗で、地区の天満神社には彼の偉業を称える碑石が立っている。
2015年12月に自転車世界一周の旅から日本へと帰ってきた僕は、フェリーが到着した福岡から実家のある福島へと日本を横断していた。百年以上も前に自転車世界一周をした人物が瀬戸内海の出身だ、そんな噂を耳にした僕は福島までの道すがら、旅の大先輩に帰国の挨拶をしに立ち寄っていたのだ。
ふらりと立ち寄った大崎下島の御手洗地区は思いがけず記憶に焼き付く島となった。瀬戸内海らしい多島海の望む御手洗の港町は江戸時代の町並みを色濃く残し、雰囲気の良いところだった。ここでひょんなことから地元の人間と知り合うと、「現代の中村春吉が来たぞ」とあれよあれよと話が盛り上がってしまい、そのまま島に一泊させてもらったのだった。
あの時、お世話になった人たちは元気にしているだろうか。夏の瀬戸内海もきっと素晴らしいだろうな。とびしま海道も通っていることだしもう一度訪ねてみよう。アイランドホッピングの旅は僕にとって大崎下島を再訪するいい口実だったのだ。いわばとっておきの島なのである。
ちなみに余談ではあるけれど、そのオレンジジュースはフランス保護領だった歴史を持つモロッコを走っていた時によく飲んでいた飲み物である。僕が海外を走っている間にそれが日本に進出していたことにも二重で驚いた。一本のオレンジジュースが海に囲まれた御手洗とモロッコの日干しレンガの町並みの記憶を結ぶなんて、全くミスマッチだ。
「すみません、遅くなっちゃいました!」
暗くなった海岸線を猛スピードで飛ばして、みはらし食堂の扉を開けるとN夫婦がいた。
「おぉー、待っとったよぉ。久し振り」
このN夫婦の旦那さんこそが僕が前回、御手洗に滞在するきっかけとなった人だ。
半年前、自転車を押しながらぼんやりと散歩していたとき、表通りにある写真館の前で声をかけられた。写真館にはもう一人、こんな田舎にどういうわけか外人がいた。日本語ペラペラのTさんは御手洗に惚れ込んで夫婦で移住をしたのだという。この写真館はTさんが古い建物を改装したもので、Nさんは呼び込みの手伝いをしていたのだ。
歳も近いこともあって、僕らはあっという間に意気投合し、その夜はTさんの家に泊めてもらったのだった。
今回は残念ながらTさんは帰国中で留守とのことだった。
「Tのヤツ、ほんとタイミング悪いけぇねぇ」
大柄で立つと迫力のあるNさんが冗談交じりに言う。
「いやいや、僕も急に来るって言っちゃったし、仕方ないですよ」
こてこての広島弁は東北の人間からするとぶっきらぼうに聞こえるけれど、Nさんの心根はとても優しい男である。こんな風に悪態をつきながらも週末は帰国しているTさんに代わって写真館の店番をしているとのことだったし、前回島に泊まっていくことを勧めてくれたのもNさんだ。
「そうそう、怒っているよう聞こえるかも知れんけど、これが普通の広島弁なんよ」
僕は何も言ってないはずなのに、なぜか奥さんのKさんがフォローを入れた。
「そうじゃ」
そう言ってNさんがコップのビールをあおった。
問答無用で息の合った夫婦漫才を見せつけられたみたいで僕はププッと吹き出しそうになった。これは二人にとっての"ネタ"なのである。
そうだ、僕はここの古めかしい町並みも好きだったけれど、ここに住む人たちのこういう飾らない素朴さがもっと気に入ったんだった。
あの時とちっとも変わっていない島の空気に触れて、僕はやっぱり来てよかったと思った。
素朴といえば、この食堂もすごい。
島民のディープな飲み屋と化しているここは、基本的にほったらかしだ。旅館も兼ねているので、一応僕には一通りの晩ご飯を持ってきてくれたが後はもうノータッチである。海に面した一等地にある食堂だから、"みはらし食堂"なのだろうけれど、いっそのこと"ほったらかし食堂"に改名した方がいいかもしれない。
何か注文があれば厨房に出向き、酒は勝手に冷蔵庫から取る、ランチの残りがガラスのショーケースに並んでいるからそれが食べたければそれを持って行く。お会計はすべて自己申告制だ。それでいてうどんは250円、稲荷寿司は100円、瓶ビールは400円と激安である。「安くてうまいんだから文句はねぇだろ」という店主の声が聞こえてきそうな、まさに港町の食堂である。
はい、全く異存はございません。こんな我が道を行く食堂も僕は大好きだ。
結局、その日の宴は島の食堂としては遅い夜10時過ぎまで続いたのだが、店主は嫌な顔一つ見せずにいてくれたのだった。いや、厨房の奥にいたから見えなかっただけかもしれないけれど。
翌朝、今日の天気はどうだろうかと外に散歩に出かけると、一隻の船が港に停泊していた。
船体には「診療船」と書かれている。
船の入口にいた男性に「これは何ですか?」と尋ねると文字通り海を移動する病院だと教えてくれた。済生丸という名前の船は済生会病院によって運営されており、レントゲンや血液検査までを行える設備を有しているのだという。図々しくも中を見学させてもらったのだが、船内だけを見ればそこは確かに病院だったし、病院の"ニオイ"もした。
聞けばなんと日本でたった一台の診療船なのだそうだ。しかも、今日は一年にたった一度の大崎下島での診療日らしい。
今でこそ大崎下島は本州の呉ととびしま海道の橋々で陸続きとなっているけれど、つい数年前までは隣の豊島から先の橋がかかっていなかった。昔から定期診療船が立ち寄っていた事実は大崎下島が文字通り"とびしま"だったことを物語る。
いや、陸路が開かれた現在も自前の交通手段を持たない老人たちにとっては、とびしまは今もとびしまのままなのかもしれない。その証拠に朝イチにも関わらず病院にはたくさんの受診者がひっきりなしにやって来ていた。
その後、昨日は全く歩く時間のなかった御手洗を散策した。
全国で110ヶ所ある重要伝統的建造物群保存地区の一つに指定されている御手洗は江戸時代の町並みの面影を現代に伝え、そこにいくつかある明治時代の粋な洋館が混じり、独特の雰囲気を保つ地区だ。
半年ぶりに歩いてみたけれど、相変わらずいい町だ。朝からニヤニヤしながら歩いた。
潮待ち館という物産館の前を通りかかった時、ここでも懐かしい顔に再会をした。
「Yさん、Iさん、お久しぶりです。覚えてますか?」
「あぁ!自転車の!?」
僕が一方的に覚えていたわけじゃなかったのが嬉しいようなホッとしたような気持ちだった。
二人とは前回、Nさんに連れて行ってもらった雅楽の練習所で出会っていた。伝統を守るために活動する地区の中心人物だ。
「また来ちゃいました」
僕が照れくさくそう言うと「ゆっくり見て周っていってよ」と声をかけてくれた。
それから再び海沿いの道に出た。
オレンジジュースのCMにも出てくるゆるいカーブの先には、海に付き出した高とうろうがある。そこを眺めるところに島の有名人、宮本さんの工房がある。
もともと船大工の宮本さんは往時の御手洗を行き交った船の模型を制作して暮らしている。
工房には北前船や千石船に加えて、おちょろ船という小船の模型が無造作に放ってあった。
おちょろ船とはなんだろう?
ここで港町としての御手洗の歴史を紹介したいと思う。
御手洗は江戸時代に潮待ちの港として栄えた場所である。大崎上島の岡村さんのところでも触れたが、当時の船は紀伊・豊後水道の潮の満ち干きを利用して航行していた。また暴風雨などの荒天時の停滞港としても使われ往時はとても賑わっていたそうだ。
江戸へ向かう廻米船を始め、琉球通信使やオランダ船など外国からの船も停泊した記録が残っている。伊能忠敬やシーボルト、坂本龍馬といった日本史に名を残す人物もここに足跡を残している。
潮待ち風待ちの御手洗で特徴的だったのは藩公認のお茶屋があったことだ。お茶屋とはすなわち遊郭である。数百人を超える遊女を擁し、「西に御手洗有り」と言われるほど広く名前が知れ渡っていたのだそうだ。
沖合に停泊する船乗りたちの元へ遊女を送り届けるのがおちょろ船で、小船が明け方まで赤ちょうちんを提げて"ちょろちょろ"としていたのだという。
「あの頃は朝まで賑やかで楽しかったのぉ」
宮本さんは懐かしそうに当時を振り返る。
御手洗で特筆すべきは遊女たちと住民の関係が良好だったところにある。悲劇の歴史も多い遊女たちだったが、ここではとても大切にされていたことが、地区を見下ろす眺めのいい丘に彼女たちのお墓が建てられていることからも伺える。
遊郭を抱えた港町としての御手洗の繁栄に区切りをうったのは昭和33年のことだ。この年に売春禁止法が施行されたことをきっかけとして、地区は衰退の一路を辿ることとなる。
「昭和33年で御手洗は全部変わってしまった」
工房には遊女の写真や絵画、それに春画が飾られていた。それらとともに宮本さんは、御手洗の繁栄の時代を知る数少ない生き証人なのだった。
地区をぐるりと一周して、最後に天満神社に立ち寄った。ようやく中村春吉の碑石までやってきた。
春吉もそうだが、興味深いのは以前僕が訪れた宮城県・寒風沢島の津太夫も同じように島の出だということだ。二人の世界一周者に共通する島出身という事実。
もちろん津太夫の場合は、運命のいたずらに翻弄された部分もあり、必ずしも自分の意志で行ったものではない。けれど必ず帰国をするという強い意志があったから、海を隔てた異国からの生還を果たした。だから僕には二人の世界一周者が島の出身だということに因果関係があるように思えた。
きっと"見えていた"んじゃないかと思う。寒風沢島も御手洗地区もその時代の良港として栄えた場所だった。全国津々浦々からの船が立ち寄っている。そういう環境が海の向こうに視線を向けたのではないか。海運が中心だった時代の港は、外に開けた交流場所であると同時に最前衛の場所だったのだから。
僕の目にはただ茫洋と広がるように見える海も、彼らの目にはそこにも道があるように映っていたはずだ。まさしく"海道"が見えていたから、海の向こうに行って帰ってくるという偉業を果たすことができたのではないか、そんな風に思う。
僕はこの御手洗の人々の外に開けた気風が好きだ。突然現れた来訪者にも分け隔てなく接してくれる。昔から変わっていないだろう土地の気質に、来るたびに元気をもらえる。縁もゆかりもなかったはずの場所なのに、「あぁ帰ってきた」と思わせてくれる。一旅人としての居心地の良さに心を預けていると、往時の賑わいが目に浮かぶようだった。きっと春吉はここで僕のような旅人に何人も出会い、そして自身も海の向こうを見るようになったのだろう。
少しだけと思った散歩はすっかり正午を過ぎてしまっていた。
名残惜しくも御手洗を後にして、隣の大長地区を過ぎると道路に青いラインが引かれていた。隣の愛媛県・岡村島から延びるとびしま海道にぶつかったことを示すラインだ。
ここから4つの橋をつないで本州まで続いている。
かつてのような海運の時代は終わってしまった。けれどこうして今も、海の道は姿を変えて外の世界と御手洗を結んでいるのだった。
(次週に続く。広島県瀬戸内海の旅は全三回を予定しています)