海の道をつないでアイランドホッピング 広島県瀬戸内海の旅その3
御手洗地区を出る時にYさんから、この先のお昼ご飯スポットを聞いておいた。
「それなら久比(くび)地区のひばり座がいいですよ。お好み焼きを食べられます」
お好み焼きか。そういえば僕は広島県を訪ねるのはこれで三度目だったけれど、本場のお好み焼きを食べたことがなかった。ちょうどいい機会だから、そこで食べていくことにしようか。
ところがYさんにそのひばり座の場所を尋ねると、"小学校の近く"というざっくりとしたことしか教えて貰えなかった。そして「とにかく行けばわかる」という曖昧極まりない情報だけを頼りに久比地区まで走ってきた。
小学校周りを囲う用水路に沿って路地を奥へ進む。こんなところに本当にお好み焼き屋があるのだろうか? 奥へ進むほどに人家は密集し、道幅は軽トラック一台分ほどまで狭まってしまった。いくらなんでもここじゃないだろう、引き返そうと思った時、前方右手にそこだけ異様な存在感を放つ民家が現れた。
建物の壁には額縁に入れた肖像画がおびただしい程の量で飾られていた。よく見るとそれらは共通のモチーフを元に描かれたもののようだ。美空ひばりである。Yさんの言った「行けばわかる」とはこういうことだったのか。お好み焼き屋ひばり座は確かに一発で分かる佇まいであった。
店の中に入ると、とうとう四方八方を数十人の美空ひばりに囲まれた。奥からおじさんとおばさんが出てきた。このおじさんが熱狂的なひばりファンなのだそうだ。といってもファンになったのは、彼女が亡くなった後らしく、その反動のせいかこうして肖像画を書き続けているようだ。
おばさんにお好み焼きを注文して、水でも飲んでさぁ一息つくぞと思っていると「はい、じゃあ上がって」とおじさんに二階に連れて行かれた。
そこもまた美空ひばりの肖像画部屋となっていて、そこでもああだこうだと半ば無理矢理おじさんのひばり愛を聞かされることになってしまった。そしておじさんの講釈を一通り聞き終えると、お好み焼きが焼き上がる頃合い、という良くできたシステムである。狙っているわけではなさそうだったけれど。
おばさんが焼いてくれたお好み焼きはダブルで550円という信じ難い安さだった。豚肉入り焼きそばがたっぷり入っていて味も悪くない。昨日のみはらし食堂もそうだが、この島の飲食店はお店のシステムや価格設定がむちゃくちゃである。
しかし一方で、この強烈な個性こそが過疎の進む島でいつまでも店を続けてこられた極意でもあるのは確かだった。それは島というおおらかな土地に育まれた天然の逞しさでもある。一見するとセオリー無視で我が道を行くように見える経営こそ、客を呼ぶ最適解だということを体で分かっているのだ。そういう店が本土の幹線道路沿いに並ぶ無個性なチェーン店よりも断然魅力的であることは、この店に吸い寄せられ面白いと感じている僕自身が物語っていた。
お会計をして店を出ようとすると、聞いてもいないのにおじさんが言った。
「お客さんはみんなブログとかSNSとかに写真載せてますよ。私は撮られるのは構いませんからどんどん載せてください」
やっぱりもしかすると、このご主人は結構なやり手なのかもしれない。僻地にあるこの個性的な店を宣伝する最良の手段は今の時代インターネットだとちゃんと分かっているのだから。島で店を続けてこられたしたたかさの片鱗も垣間見た瞬間であった。
午後の走行はそれまで停滞していたグレー色の雲がどこかへ消え去り、初夏の青空が広がった。意外だった。最新の予報でも雨マークは消えていないどころか、大雨警報が出ているにも関わらずの空模様だったからである。
今日も雨に降られるものと覚悟していたのに、僕のいるところだけぽっかりと雨雲が抜けている。晴れの日の多い瀬戸内海の面目躍如ということなのだろうか。大雨警報下の晴天とは、なんだか落ち着かないそわそわした妙な心持ちだった。
しかし天気が良いと景色は抜群に良い。この時期ならではの瑞々しい緑に覆われた大小の島々と空のコントラストがよく映える。水深の浅い瀬戸内海だから、外洋のようなどす黒さはなくて、太陽の光が海を透過して、すっきりとしたブルーの水面がきらきらと光っていた。
大崎下島から豊島へ、豊島から上蒲刈島へと架かる橋から望む景色はいちいち絶景で、立ち止まる回数が増える。
これでは雨でも晴れでもペースが変わらないじゃないか、と苦笑しつつ僕はこの青天の霹靂ならぬ、霹靂の青天を堪能した。これぞアイランドホッピングの旅にふさわしい天気である。
しかし、翌日は現実を取り戻したかのように朝から雨だった。空の低いところをもやがゆらゆらと停滞し、視界が悪く、瀬戸内海自慢の多島美は見る影もない。
昨晩泊まった宿の女将の話によると、昨日も晴れたのも実はごく一部の場所だけで、あとはずっと大雨だったらしい。それを示すかのように、宿を出発してしばらく走った先では雨による土砂崩れで道が通行止めとなってしまっていた。
とびしま海道は基本的に島の沿岸部に沿って道が伸びている。だから道が塞がってしまうと島の反対側に回り込む以外に迂回路がない。雨の中、遠回りするのは億劫だったけれど他にどうしようもないので来た道を引き返し、島の南側へ向かった。
蒲刈大橋を渡り、下蒲刈島にやってくる頃には目を開けていられない程に猛烈な雨脚がバラバラとレインウェアを叩いた。雨宿りをしようにも、なかなか良い場所が見つからない。石畳で演出された島の歴史地区を抜けた先にようやくお好み焼き屋の暖簾を見つけ、そこに逃げ込んだ。全身濡れねずみの格好でお店に入るのは心苦しかったが、店のお母さんの「ええよ、ええよ、気にせんで」という言葉に甘えることにした。
壁にくっついた細長いテーブルにスツールが3つだけの店内で、お母さんが一人、鉄板でジュージューカンカンとやっている。雨ですっかり冷えていた僕にとって、その光景は見ているだけで暖かくなった。その最中にひっきりなしに注文の電話がかかってきていた。店は小さくとも人気の店なのだろう。
「もう三十年焼いとるねぇ」とお母さんは笑った。
まもなく僕の肉玉入りお好み焼きができあがった。アツアツのお好み焼きを唇にソースや青のりをつけながら頬張る。ボリューム満点で一つ430円だ。やっぱりこの辺りの飲食店はどこかポジティブなおかしさに満ちている。
店の壁には古ぼけた手書きのお品書きが貼ってあり、値段のところは上から書き直した跡があったので、これでも物価や材料費の高騰の影響を受けているのだろう。昔はいったいいくらだったのか、知るのがちょっと怖い気もするし、知ってみたくもある。
お好み焼きを食べながら、外を眺めていた。天候が回復する余地はなさ気で、鈍色の空は濃さを増し、バケツをひっくり返したような土砂降りを落としていた。
このあたりが引き時だろうかと思う。
この先の安芸灘大橋でとびしま海道は広島県本土にぶつかり、さざなみ海道に接続する。今日の午後はさざなみ海道を走り、呉からかきしま海道の途中にある倉橋島あたりまで走ろうと思っていたけれど、ちょっと難しそうだ。隣の九州地方も大雨だというから、明日の天気の保証もない。無理に自転車で先へ進み、もし途中でさらに天気が悪化すれば進退窮まってしまう。この先を諦めて走りを切り上げるには、列車の走る本土に近いこの場所がラストストップだったのだ。
「ここから川尻と仁方の駅はどっちが近いですか?」お母さんに尋ねた。
「島の人たちは仁方に行くのが多いねぇ」と教えてくれた。
すると、僕とお母さんの会話を耳にしていた客のおじさんが割って入ってきた。
「この雨じゃけぇ、電車も止まるかも分からんよ。昨日も止まったけんの」
「
マジっすか」
これを聞いて腹が決まった。島に閉じ込められる可能性が出てきた今、今回の旅はここで切り上げだ。
とはいっても雨は猛烈な勢いで降り注いでいて、駅までの数キロでさえ自転車で移動できる状況ではなかったので、雨が弱まるのを待つ間、近くにある松濤園を訪ねた。ここには全国で唯一の朝鮮通信使資料館がある。大崎下島の御手洗地区が栄える以前は、この下蒲刈島が潮待ち港として発展していたそうで、江戸へ向かう李氏朝鮮の使節団も度々立ち寄っていた記録が残っている。
館内では朝鮮式の帆船のミニチュアや当時のもてなしの様子などを再現した資料が展示されていた。釜山を出た使節団は対馬、壱岐、赤間関(下関)などを経て瀬戸内海を横切り、大阪までを海路で通行したそうだ。地域ごとに藩の護衛船が加わり、それはもう大パレードの様相だったことが展示された絵画から伝わってくる。今でこそ朝鮮半島と瀬戸内海の結びつきになかなかピンとこないが、当時は海の道によって現代よりもずっと強く繋がっていたのだろう(残念ながら館内は撮影禁止だった)。
一時間ほど見学をしていると、少しだけ雨が弱まった。このチャンスを逃すかとばかりに自転車に跨がり、とびしま海道の出口であり本土の入口・安芸灘大橋へと向かった。
雨に打たれて走りながら考えていた。
これまでいくつかの島を旅して分かってきたが、島と外界をつなぐ出入口は限定的であった。言うまでもなく水に囲まれているからだ。普通の島の場合、出入口を担うのは港であるけれど、このとびしま海道の島々では橋がその役目を負う。橋が架かることは島と本土を日常的に結んだが、それはあくまで時間軸だけのことであって、出入口という場所軸で見れば港も橋も限定的であることには変わりない。陸路で結ばれたとびしまの島々が今もなお本土からの影響を最小限に止め、島の個性を保っているのは出入口がこの安芸灘大橋以外にないということによるのではないか。
結局、仁方駅に到着する頃にはひどいずぶ濡れになっていた。おまけに荷台のスーツケースにもどこかから雨が入り込んでしまっていて、蓋を開けると中は3センチほどのプール状になってしまっていた。着替えも何もかもがびしょびしょである。残りのさざなみ海道とかきしま海道を走れないことは残念だけれど、無理をしないでここで区切って正解だっただろう。
駅舎はがらりとしていて人気がなかったことをいいことに、荷物を広げて少しでも水気を切りながら自転車をパッキングした。
ところが自転車を仕舞い込み、プラットフォームへ向かうと前方から引き上げてきた女性から無情な事実を知らされる。
「なかなか電車が来ないから、駅に電話をしてみたら、今日はもう運休ですって」
ウソっ!? なんとお好み焼き屋のおじさんの予言通り列車が止まってしまったのである。周辺に宿泊施設もなさそうな場所だったから、これはもう一度自転車を組み立てて呉市あたりまで走らなければならないのかとげんなりした気持ちでいると、女性が隣の広駅ではまだ列車が動いていることを教えてくれた。そして「私もそっちへ移動するので、よかったら一緒にタクシーに乗りますか?」と誘ってくれた。
渡りに船とはまさにこのことで、僕は二つ返事でタクシーをシェアすることにした。
そればかりか広駅に到着し、運賃の半分を支払おうとすると「もともと私が一人で乗るつもりだったタクシーですから、いいですよ」とお金を返されてしまった。つまりシェアというよりも、便乗である。
「でも
」と食い下がる僕に「誰か困った人がいたら、そのお金で助けてくださればいいですから」と言うので、有り難くその親切を受け取ることにした。そして彼女は「また来てくださいね」と言って去って行った。
またこの土地の優しさをもらってしまったなと思った。
いつ瀬戸内海を旅してもここに来る度に素朴な善意に出会う。泊まっていきなよ!と声をかけてくれたり、切符を買ったら一緒にみかんも手渡されたり。それが瀬戸内海の温厚な気候のなせるわざなのかもしれないけれど、他の地方の人間からすれば驚天動地の至りである。だから瀬戸内海を去るときはいつだって心地いい余韻に包まれる。そしてまた戻ってきたいと思わせる。
今回は払いそびれたタクシー代という大きな置き土産もできてしまったし、走り損ねたさざなみ・かきしま海道もちゃんと走りにこなければならない。そうやって再訪する理由ができてしまうのが瀬戸内海なのだ。もし誰かに絶対に外さない日本の旅先を尋ねられたとした、僕は真っ先に瀬戸内海を挙げることだろう。
広駅からの広島行快速列車は大雨の影響でかなり混雑し、車内には梅雨の湿度が充満していたけれど、僕はそんなことはまるで気にならなかったのだった。
(次回からは長崎県の旅をお送りします)