バイクパッキングで巡る日本の北限 北海道最果ての島旅その2
礼文島2日目の朝は鳥のさえずり
といってもキャンパーたちの食料を虎視眈々と狙うカラスの鳴き声で目を覚ました。寝ぼけ眼をこすってテントの外を見やると、青空が戻ってきていた。カラスはともかく、キャンプ場を囲う森と空の境界がくっきりとしていて、気持ちがいい。
トレッキングのカップルはもう既にテントを撤収して歩き出そうとしているところだった。僕はといえば、前日、到着するのが遅かったせいでまだキャンプ場のお金を払えていなかったので、管理人がやって来る迄の間、テントを乾かしながら、サイトに大の字になって寝転び久々の日光浴を満喫した。
清々しい青空を堪能できたのは、結局その2時間程度だった。海岸線に降り、再び昨日と同じ道道40号線を北上し始めると、なおも吹き止まない北東の風が素早く雲を運んできた。空の低いところを高速で移動する薄墨色の雲はあっという間に島を覆い尽くし、昨日ともあまり変わらない天気に逆戻りさせた。「花の浮島」とも呼ばれ、初夏にはとりどりの高山植物が花を咲かせる礼文島もこうなってしまえば、どこにもその影を見出すことはできない。
でも、それも果ての島らしくて悪くはないと思った。風切り音と荒ぶる波にじっと耐えるくすんだ壁の木造番屋はこんな天気こそ似合うような気がしたし、寂寞とした雰囲気はこの先にあるであろうロシアのうらぶれた漁村のイメージとも重なる。あるいはチリ最南部の都市プンタアレナスから船で渡った先にあるフエゴ島にもよく似ていた。場所は違えど、果ての哀愁はどうしてこうも似通うのだろう。果ての島ならではの空気感を肌で味わえたことに僕はほのかな充足を覚えた。
「その自転車ってポケットロケットってやつですか?」
不意に後ろから声が聞こえ、間髪入れずにその声の主であるサングラスをかけたおじさんが僕の隣に現れた。自転車旅行者だった。
「あ、似てますけど、ちょっと違うモデルで、ポケットリャマの方です」
「そうですか。で、どうですか、それ。僕も昔買おうかなと思ったことがあったんですよ」
けっこうマニアックな僕の自転車ブランドを知っているだけあって、おじさんは相当な自転車好きと見た。長野からの旅行者で、新潟に出てフェリーで小樽まで移動し、そこからここまで走ってきたそうだ。
「もう歳だからゆっくり走ってるよ」なんて謙遜していたけれど、小樽から稚内までをフル装備の自転車で6日で走ってきたというのだから、かなり乗り込んでいる。
僕らはしばし並走しながら自転車談義に花を咲かせた。方やピカピカに磨き上げられたランドナー(ツーリング用自転車)に、コシのあるキャンバスコットンのサイドバッグとハンドルバッグを装着したオールドクラシックなスタイル、一方の僕は折り畳み自転車に最小限の荷物で軽量コンパクトを突き詰めたスタイルで、姿形は対極なのに同じ自転車旅行者というギャップが面白い。自転車旅行にもいろいろな流派があるのだ。
ただ、標準経のランドナーと小径車ではやはり絶対的に巡航スピードが違う。おじさんは僕のペースに合わせて走ってくれていたけれど、それも申し訳ないので、先へ行ってもらうことにした。
「またどこかで会うでしょうから、その時はよろしく」
「はい、こちらこそ是非」
こんなお別れが島のサイズ感を表しているような気がした。
再び一人になって峠道を越えると、船泊(ふなどまり)の集落に出た。ここが礼文島北部で最大の集落だ。
金田岬とスコトン岬を結ぶU字型の湾に位置する船泊の民家の軒先のあちこちでは昆布が干されていた。洗濯ばさみで無造作に干されているけれど、このあたりで採れる利尻昆布(礼文島で採れるものもそう呼ぶ)は昆布の中でも最高級に入る。昆布は出汁文化の和食に取って欠かせない食材であるが、その主な生産地は北海道である。
鎌倉時代中期ごろから武士を中心に身近になっていった昆布は、海上貿易が活発になった江戸時代、蝦夷地に米や塩、醤油を運んだ北前船の帰り荷として大量に運び出され、各地で重用されるようになった。当時は西廻海運が主な航路だったために昆布は、蝦夷から越中、薩摩、大阪といった順で広がっていき、この道筋を昆布ロードと呼ぶ。さらに延びた昆布ロードは琉球王国、清まで至り、各地で独自の昆布食文化が育まれていった。昆布ロードは日本の食文化を語る上で重要な、歴史的な海道なのだ。
スコトン岬へと至る海岸沿いの最後の数キロは特に風が強かった。ごうごうと唸りをあげる暴風に抗いながら一漕ぎ一漕ぎ自転車を進める。
背の高い木々が一本も生えていない草原の先端に赤茶色の建物が見えた。スコトン岬の土産物屋だった。
岬へ至る最後の直線で長野のおじさんとすれ違う。風が強いので立ち話もそこそこに彼は今度は島の南を目指して走り出していった。今夜はそこにある名物ユースホステルに泊まるのだそうだ。「風がこうも強いと嫌になっちゃうねぇ」とボヤいていたけれど、今朝は稚内から来たと言っていたし、何だかんだ言ってアクティブに動き回るおじさんである。
ちょうど観光バスがいない時間だったので、おじさんが去った今、岬には僕以外の観光客はおらず、もの寂しげな気配を強烈に漂わせていた。晴れていればサハリン島まで見通すことができるそうだけれど、今日の天気では叶わぬ夢の話で、対岸のトドやアザラシなどの海獣の住処の海馬島を臨むのがやっとだった。
岬の突端部は小さな広場として整地されていて、そこには「最北限の地スコトン岬」と書かれた古ぼけた木柱が建てられていた。
最北限という何とももやもやした言い回しなのは、ここが決して日本の最北端では無いからだ。北海道の最北は宗谷岬であるし、無人島とはいえ目の前に海馬島もある。意外かも知れないが政府が領有権を主張する北方領土を含めれば、本当の最北端は択捉島のカモイワッカ岬である。礼文島は日本人が住むことができる最北の地、ということで最北限というややこしい表現を使っている。
中央省庁が建てたらしいこの柱の曖昧な表現には、領土問題に対する政府のダブルスタンダードが窺い知れるような気がして、僕は何とも言えない複雑な思いを感じたのと同時に、日本の矢面とも言えるこの場所に来てもなお、ロシアは近くて遠い国のように思えた。
僕はスマートフォンにラジオ機能がついていたことを思い出した。もしかしたらロシアの番組が拾えるかもしれない。けれど、周波数帯が違うのか、それとも単純に電波が届いていないからなのかスマートフォンからロシア語が聞こえてくることはなかった。諦めきれずに今度は携帯電話の電波が届いていないか探してみたけれど、結果はやはり同じだった。
雲で閉ざされてしまった海の向こう側の景色を想像する。ユジノサハリンスクの港やサハリン島の南端クリリオン岬でも今頃、僕と同じように対岸に異国情緒を抱いて佇んでいる人間はいるのだろうか。ロシア側から眺める日本はどんな形をしているのだろう。あるいはこんな風に思ってしまうのが島国の人間のせせこましい感情なのだろうか。それを確かめるために、いつかサハリン島を訪ねてみたいと思う。
とはいえそれはなるべく急いだ方がよさそうだ。稚内~サハリン航路は今や風前の灯火である。昨年をもって赤字を理由にハートランドフェリー社の定期航路は廃止された。今年はロシアの船会社が後を引き継いだようだが、船のサイズは国際線にしては寂しい小さな双胴船になってしまった。ロシア経済の低迷が長引けば、これもいつ廃線になってもおかしくない。
旅はいつだってタイミングだ。昨日までできた旅が明日も行けるとは限らない。反対に昨日までできなかった旅が明日から可能になるということもあるけれど。陸路でサハリン島を訪れる旅が二度とできない幻の旅になってしまう前に、早ければ来年ぐらいにサハリン島へ渡ってみようと心に誓った。
やがてツアーバスが3台、駐車場にやってくると、岬はにわかに活気づこうとしていた。最果ての寥々さが失われる前に僕はここを立ち去ることにした。今度は海のあっち側から、この岬を望めるようにと願いながら。
(次週へ続く。北海道最果ての島旅は全4回を予定しています)