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大和と琉球を結ぶ国道58号線 鹿児島県トカラ列島の旅その4

2017年03月01日

悪石島は坂だらけの島だった。島の中腹にある上集落も学校のグラウンドを除けば平地らしい平地はほとんどなくて、立体的に家々が連なっている。方々に張り巡らされた坂道のおかげで方向感覚が奪われて、どこか迷宮感のある集落だった。

島の人口70人のほとんどがこのあたりに住んでいるという。それにも関わらず、船の荷役を終えた昼下がりのこの時間は人影が全く見当たらない。しんと静まり返った穏やかな雰囲気。民家の軒先で干された「悪」一文字のTシャツが微風に揺られている。トカラ列島には「刻を忘れさせる島」というキャッチコピーがあるけれど、このあたりは時間の流れが特にスローに感じる。

集落を抜けて、ノンゼ岬方面へ延びる道を下る。ここが自転車を停めるのもままならないような急傾斜だったから、帰り道を想像してしまい、なかなか颯爽と下れない。しかし、景色はなかなかの絶景。悩ましいサイクリングだ。

斜面に僅かに残された平地には牛たちが放牧されていた。畜産は島の基幹産業の一つ。僕に気づいた彼らは草を食むのをやめて、鉄条網越しに僕を見つめていた。

冬とは思えない陽気な気候の下、ところどころでビロウの葉が青々と茂っている。本土とは明らかに異なる南国の島の景観だけれど、厳密に言えば悪石島と南の小宝島の間に走る深い海峡を境界線として、温帯と亜熱帯の生物相に分かれるそうだ。例えば猛毒で知られるハブは小宝島には出没しても、悪石島には生息していないという。生物の分布を見てもトカラ列島は大和と琉球を橋渡ししていることが分かる。

道の突き当りまで行ったところで、来た道を引き返した。予想通り、激坂が僕を苦しめる。左右に振れながら少しずつ高度を稼いでいると、牛を管理する牧場関係者数名が道端で作業をしていた。
「こ、こんにちは」
息継ぎの切れ間に何とか挨拶を絞り出す。この坂道をフラフラになりながら、しかもスーツケースを牽いた自転車で上ってきたのだから、可笑しく見えたのだろう。「フハッ、フハハハハハ」と大笑いされてしまった。確かに我ながら滑稽な姿だと思う。きっと自分が思っている以上にひどい顔もしていたのだと思う。
「頑張れー」
彼らの前を通り過ぎたあと、後ろから声援が飛んでくる。しかし、この坂だったから振り返る余裕は全くなかった。空元気もいいところで「お、おーっ」と返事をするのが精一杯だった。

一時間ぶりに戻った集落は相変わらず神隠しにあったように誰も見かけない。外来者である僕に気付いた犬の鳴き声だけがどこかから聞こえてくるだけだ。 もう一度、村外れの出張所へ立ち寄って、明日のフェリーが予定通り入港しそうだということを確認してチケットを購入する。チケットはフェリーの中でも購入できるけれど、島の出張所で買うと島の収入になる仕組みなんだそうだ。今回は民宿が満室だったためのやむを得ずのキャンプとは言え、中之島にしてもこの悪石島にしてもほとんどお金を使っていない。僕が少しでも島にお金を落としていくには、こうしてフェリーのチケットを島の出張所で購入することぐらいだった。

キャンプ場に戻ったあとは、着替えを持って湯泊温泉の内風呂へ。まだ早い時間というのもあってまだ誰もいない。島民の皆さんには申し訳ないなぁと思うも、一番風呂にほくそ笑みながら熱々の湯船に浸かった。

風呂から上がる頃には日も暮れだしていて、沖合には見事な夕日がかかっていた。その手前にオイルタンカーと思しき巨大な船が見える。片や辺境に浮かぶのどかな小島、片や産油国と消費国とを年中忙しなく行き来する船。海を隔てて全く異なる時間の流れが並行して存在している。悪石島を始めとするトカラの島々はあっちからはどんな風に映っているのだろう、そんなことを考えながら夕日と船を見送った。

翌朝、島内放送で鹿児島行きのフェリーとしまが無事、一つ前の小宝島を出港したことが流れた。最近の島旅では船の欠航に見舞われて予定が狂うことが度々あったし、実は連日の欠航で島そのものに渡れなかったこともあったので、放送を聞いておおいに安堵する。持ち込んだ4日分の食料もちょうど底を尽きかけていた。
テントを畳んで、港へ。海の向こう側にフェリーとしまの影が見えたときほど、ホッとした瞬間はなかった。これでようやく鹿児島への道が開かれた。

湾内に入ったフェリーが巧みに旋回し、港に横付けされる。タラップがかかると、下船客、乗船客、作業員、出迎えの島民などが入り乱れて途端に賑やかになる。この日の船は翌週から天気が崩れそうということもあってか、ほぼ満席。雑魚寝の二等客室は約80cm幅のマットレス以外、自分のスペースはない混雑具合だった。

乗客はよく見ると、前日の船で見かけた人もちらほら乗っていた。奄美大島の方に買い物かなにかで出かけた帰りなのだろう。トカラ列島に住む人々にとってフェリーとしまはそれだけ身近な買い物の足でもある。
嬉しい再会もあった。
「あっ、自転車のお兄ちゃん!」
フェリーが中之島に立ち寄った時、乗り込んできた乗客の中には中之島で出会った小学生の姉弟たちがいた。そして、島で何度かすれ違って挨拶を交わした男性や女性も続けて乗り込んできて、ぺこりとお辞儀をしてくれた。そうか、あの子たちのお父さんお母さんはこの人達だったのか。日常の足として使われるフェリーだからこそ、島の人間関係も見えてくるのだった。
「ねぇ、お母さん、カップラーメン食べたい!」
「それ食べたら、鹿児島で美味しいもの食べられなくなっちゃうけどいいの?」 週末はクリスマスだ。本土に出て、お祝いをするのだろう。聞こえてくる親子の会話にささやかな幸せをお裾分けしてもらった気分になった。

12時間の船旅を経て20時過ぎにフェリーは鹿児島港に到着した。港近くの安宿に投宿し、身軽になった体で夜の市内を少し散歩した。どこもかしこも人工的な明かりが灯り、車がひっきりなしに往来して、お金を出せば食べ物も不自由なく手に入る。今朝までいたトカラ列島とのギャップに不思議な違和感を覚える。亜熱帯の欠片はもう見当たらず、すっかり本土に帰ってきた。

宿から5分ほど歩いたところには十島村役場がある。なぜ鹿児島市内にトカラ列島を管轄する役場があるのかというと、南北に長く点在する島々なので有事の際に対応を取りやすくするためだそうだ。
その村役場の近くに朝日通りという大通りが延びていて、突き当りには薩摩の英傑・西郷隆盛の巨像が立っている。

この朝日通りこそが、沖縄・那覇の国際通りから続く国道58号線の最終地点である。厳密に言えばトカラ列島に国道58号線は通っていないけれど、僕の心の中では、トカラ列島を経由して沖縄、奄美、本土を結べたことによって海で隔てられた大和と琉球を繋ぐことができたような満足感があった。
それだけじゃなくて、僕は以前の北海道の礼文島までを旅していたから、日本の北から南までを海路で繋ぐことができたのも今回の旅だった。
「汽船も亦道路なり」
中之島に立つ石碑の言葉がしみじみと、数日前よりもずっと深みを増して理解できるような気がしているのだった。

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「風のしまたび」は連載を終了し、新ブログ「旅の徒然雑記帳」がスタートしました。

大和と琉球を結ぶ国道58号線 鹿児島県トカラ列島の旅その3

2017年02月15日

午前4時半頃、パラ…パラ…と微かにテントを叩く音で目を覚ました。ファスナーを開けて外に顔を出すと、まだ真っ暗な港には雨の気配が漂っていた。前日のそれよりももっと濃厚な湿気ったにおい。一気に来そうだ。
今日は朝のフェリーで次の島に渡る予定だったので、時間は少し早いがテントの撤収に取り掛かる。手早くテントを片付けて港の東屋に避難すると、同じタイミングで本格的に雨が中之島に降り出した。
ふぅぅ、間一髪。
しかし、雨の降り方が凄まじい。東屋は幅5メートル程度の屋根で覆われていたけれど、横からお構い無しで雨が入り込んでくる。並の台風を遥かに上回る雨脚。本土とは違う亜熱帯を感じさせる雨の降り方だった。

フェリーが運行されるかどうか、不安がよぎるが、フェリーは順調に口之島を出港して中之島を目指していることが村内放送で流れた。
ホッと胸を撫で下ろして、朝食のパンをかじっていると、続々と島民たちが集まりだしてきた。道ですれ違った人、温泉で一緒だった人、役場出張員の人…みんな見かけたことのある顔ばかりだ。Kさん家族もいた。Kさんたちは僕と同じ船で奄美大島の方に用事で出かけるそうだ。
午前7時。予定よりも一時間遅れでフェリーとしまが入港。闇と雨を蹴散らしてやってくる船灯がなんとも心強かった。

さて、3時間半ほど船に揺られ、次にやってきたのは悪石島だ。インパクトのある名前通り、島のファサードは迫力ある断崖が訪れる者を拒むようにそびえ立っている。集落はこの崖を登った先にある。防波堤で区切られた島の内海は緑がかった色をしていた。これは海の底から温泉の成分が湧いているからだそうだ。

この島の名前に聞き覚えがある人がいるかもしれない。悪石島は2009年7月に皆既日食が世界で最も長く見られる場所として、注目を浴びた。島の人口の数倍の観光客が突如としてやって来たにも関わらず、当日は暴風雨に見舞われ、皆既日食そのものを見ることができなかったというニュースを記憶している人もいるかもしれない。

港には中之島同様、島民の多くが集まっていて、フェリーの着岸を今か今かと待ちわびていた。この頃には雨脚も弱まっていて、沖合のすぐのところまで青い空が戻ってきていた。この島でも宿が取れずに、キャンプの予定だっただけに一安心。作業をしていた役場出張員のおじさんを見つけて来島の報告をする。
「あぁ、やっぱり来たのか。どこにテントを張ってもいいけど、午後4時まで出張所はやってるから、それまでに申し込み用紙を書きに来てくれよ」
ぶっきらぼうに言い放つおじさんは、いかにも僕のイメージする鹿児島男児っぽかった。かぶっていた作業用ヘルメットの額部分には悪石島の「悪」の文字が刻印されていて、無骨でかっこいい。

荷物の積み降ろしが終わったフェリーとしまが悪石島を離れる。船室からKさん家族が出てきて僕に大きく手を振ってくれた。
「また中之島に遊びに来てねー!」
「はい、必ず!」
旅人である僕が島に残って見送って、島の住人が僕に見送られる。いつもとは逆のあべこべな構図は不思議な感じがしたけれど、見送る側の気持ちも少しは分かったような気がして悪い気はしなかった。

フェリーが去り、作業を終えた島民たちも集落に戻ると港の賑わいはたちまち霧散し、閑散とした雰囲気を取り戻す。
そんな落ち着き払った空気の港の波止場に、異様な存在感を放つイラストが描かれている。片手に杖をつき、体全体にビロウ樹の葉をまとった仮面神ボゼ。流行りのゆるキャラというわけでもなく、この島に代々伝わる土着神である。

ボゼは毎年旧盆の最終日に現れ、集落を駆け回るという。ボゼマラと呼ばれる杖で女子供を追い回し、杖についた赤土をつけて回る。赤土には悪霊祓いの効果があるとされ、また杖は男根を模したものでもあるので、女性は子宝にも恵まれる。ひとしきり集落を回り、死霊を追い払ったボゼはテラと呼ばれる島の聖地に戻り、跡形もなく消える。そのため、ボゼ祭りは悪石島を代表する奇祭であっても旧盆の時期でなければ、島にボゼの影を見つけることは難しい。僕も結局、この島でボゼに関わるものを見かけたのはこのイラストが最初で最後だった。

港で自転車を組み立てた後は、まずは近くの海岸沿いにある湯泊公園にテントを張りに向かった。湯泊公園は無料のキャンプ場にもなっているのだ。

悪石島は、温泉の島でもある。その温泉の多くが湯泊公園周辺に集中している。海に面した露天風呂の湯泊温泉に、海中から熱泉が湧き、海水と混じり合う海中温泉、地熱で温められた砂に入浴する(それとも入砂?)砂蒸し温泉と、ロケーション抜群でバリエーションも豊富だ。ボゼは楽しめなくても、温泉は楽しむことができるだろう。そう思ってやって来た。

ところが冬場は露天風呂に温泉を引かないのか、湯泊温泉の湯船は空っぽだった。海中温泉は今朝の大雨のせいか海が荒れていて、危険そうだ。公園内にある砂蒸し風呂も、数日前から始まった護岸工事の資材置き場になっていて入り口が塞がれてしまっている。かろうじて入れそうなのが湯泊温泉の内風呂だけという有様だった。
「他の島に行った方がいいと思いますがねぇ」
数日前にキャンプの電話申請をしたときに出張員のおじさんが言っていたセリフが脳裏に浮かんだ。僕はせっかくなので、と無理を言ってキャンプの申請を通させてもらったのだけれど、なるほど、こういうことだったかと苦笑してしまった。

公園内は地面もぐちゃぐちゃにぬかるんでいて、頭上ではクレーン車が稼働中だったので、公園を少し出たところにある窪みにテントを張る。
要らない荷物はテントにデポして、軽量化して島を走り出すことにした。

断崖に囲まれた悪石島はお世辞にも自転車向きの島とは言えない。絶壁に沿って急登が延々と続いているのが見える。

「どんなアスリートでも、上まで押さないでこれる人はいないですよ」
たまたま通りがかった軽トラックの青年がそう言うので、かえって僕の負けず嫌い根性に火が灯り、押してたまるか! と立ち漕ぎをはさみながら一漕ぎ一漕ぎ上りすすめる。

12月だというのにびっしりと汗をかいて辿り着いた上集落の最初の建物が役場出張所だった。キャンプの申請用紙を記入しに中に入ると、出張所のおじさんは「自転車で登ってきたのか!?」と驚いていた。

するとおじさんは何やらダンボールをがさごそとあさり始めて、何か筒状に丸まったものを手渡してきた。写真家の石川直樹が撮り歩いたトカラ列島のカレンダーだった。
「さっきの船で届いたんだ。本当は島民にしか配ってないんだけど特別にやるよ」
なんで? どうしてカレンダーを?
その唐突さ加減に僕は一瞬戸惑ったけれど、有難く受け取ることにした。これはきっと坂を自転車で上ってきたことへのおじさんからの敢闘賞なのだろう。
ボゼ祭りの季節でもない、温泉も満喫できない、時期外れにやってきた悪石島だったけれど、こんな風に島民との触れ合いがあれば、この島も十分に楽しむことができそうだなと思った。

(次週に続く。鹿児島県トカラ列島の旅は全4回を予定しています)

大和と琉球を結ぶ国道58号線 鹿児島県トカラ列島の旅その2

2017年02月01日

「ヤギ汁が残ってるから、よかったらどうですか?」
ヨットの旅人たちを見送った後、居合わせた家族が誘ってくれた。昨日、彼らと一緒に捕まえたヤギがまだ少し残っているとのことだった。もちろん断る理由なんて無いので、お相伴に預かることに。車で住まいのある日之出地区まで連れて行ってくれた。
このKさん家族は中国地方のとある島の出身で、中之島に魅せられて移住をしてきたそうだ。今時、インターネット通販を利用すれば買い物もしやすくなったし、物流の役目も果たすフェリーとしまの就航率も昔に比べればずっと良いから、仕事さえ見つかれば移住のハードルは思っているよりも高くはないよ、と教えてくれた。
それにしても、島から島へ、だ。長らく島暮らしをしてきた人間にとっては、やっぱり島のサイズ感が落ち着くのだろう。
移住するにあたっての四方山話を聞きながら、野性味が口の中で溢れるヤギ汁をすすった。

Kさん家にお邪魔した後は、テントに戻り、タオルを持って10分程のところにある東区温泉へ。
港から一番近い西区温泉は夜間の利用ができないけれど、こちらは24時間利用可能。簡素な作りながら、湯心地は上々で、キャンプの前に体をポカポカにできる。

中之島では温泉があるために、内風呂を持つ家は少ないという。夕食を終えた人たちがパラパラと湯船に浸かりに来ていた。
宮崎から工事のためにやって来ているという男性と少し話をした。もう2ヶ月近く島で仕事をしていて、あと3ヶ月程滞在予定だという。年頃の男性だったから、娯楽のない島での休日は退屈で仕方ないだろうなと余計な心配をしていたのだけど、彼は「実は釣りが趣味なんで…」と顔を綻ばせた。太公望に心配は無用というわけか。
「ここは良いところですねぇ」
肩までお湯に浸かった男性が、しみじみと、心の底からの気持ちを吐き出すように呟いた。

体の芯まで温まって、鼻歌交じりでテントへと戻る帰り道には、無数の星がきらめいていた。チカッと流れ星が光る。
確かに良いところだなぁ、と僕もそう思った。

一転して翌朝は空に不穏な空気が漂っていた。
あぁ、これは降るかなぁ、なんて空を見つめているうちに雨粒がテントにパラパラ落ち出した。
窮屈なテントなので、村役場出張所の方へ避難。
「この島の雨も雷も、本土とは比べ物にならないですよ。台風が来た時なんかは風も波もそれはもうすごいんです」
雨宿りをしていると出張員の方が教えてくれた。これまでも黒潮の海に取り囲まれた島をいくつか旅してきただけに、剥き出しの自然の怖さは十分に想像ができる。

一時間程待つと、幸いにも雨も止んだので島を走りに行くことに。日之出地区を通って島の反対側を目指した。
日之出地区はその名の通り、日之出を真っ先に拝める高台部に位置している。昨日、Kさん家族に連れて行ってもらっているので、既に知っていたけれど、そこへ至る道はとてつもない激坂つづら折りの連続。一気に標高230m程まで上らなければならない。
中之島では集落ごとに住民の出身地域が分かれていて、海岸沿いの西地区には昔からの住人が、東地区には奄美からの移住者が、日之出地区にはその他の地域の移住者が多いそうだ。この地区を開拓した人々には頭が下がる。

自転車のギアを一番軽くして一漕ぎ一漕ぎ上り進めていくと、「頑張れー!」と島の人が運転する車が声をかけていってくれる。島人たちに受け入れてもらえているんだ、そんなことが単純に嬉しくて僕の馬力になる。

激坂を登りきると、視界が開けた。御岳の緩やかな裾野ではトカラウマが優雅に牧草を食んでいる。

トカラウマは県の天然記念物に指定されている西洋種の影響を受けていない在来種。自転車で目の前を通るとウマたちが一斉に駆け寄ってきて、鉄柵から顔を覗かせた。この島は人も馬もとても人懐こい。

ちなみに昨日のヨットの見送りにも来ていたトカラウマ牧場の管理者は、ホンジュラス人と日本人の夫婦だ。この小さな島には国内のみならず、世界中から様々な人たちがやって来ている。きっとそれもこの島の持つ大らかな性格に依るところがあるのだろう。

さらに自転車を奥へと進めると、次第に人気のない地域へと変わっていく。眼下には僅かばかりの海岸が延びている。

この辺りにも道路も敷かれ、畑もちらほらと点在しているけれど、そこはヤギの住処。道のあちらこちらにヤギの糞と足跡が残っている。耳を澄ますと道沿いの笹ヤブがざわついている。笹ヤブに目を凝らしてみると、やっぱりいた。突然現れた自転車の珍客から逃げようとするヤギと目が合った。
彼らからすれば、数日前に仲間が獲って食われてしまったばかりだ。どのヤギも僕を認知した瞬間、必死で逃げる。お尻を振って小走りで走る姿が申し訳なく思いつつも可愛い。

南東部に立つヤルセ灯台を過ぎて、しばらく行くと道が亜熱帯の森に阻まれて途切れた。ここが恐らく最奥部。眺望は冴えないけれど、ここでランチを食べて、引き返すことにした。

再びヤギを驚かせてしまいつつ、七ツ山海岸や底なし沼といった場所に寄り道をして、テントのある港まで戻った。

今日こそは午後に御岳に登ろうと思っていたけれど、朝方の雨宿りが響いて今回も断念。明日の船で島を離れる予定だったし、火口の景色は絶景との噂だったので悔しい。

サイクリングでかいた汗を流すために、今日はテントから近い方の西区温泉へ。
「今日はあの自転車でどこまで行ったの?」
なんて世間話を後からきたおじさんにされながら、肩を並べて湯船に浸かる。住民が誰でも利用できる温泉が憩いの場としてあるなんてやっぱりいいな。

早い時間帯の入浴だったため、温泉の湯温がかなり熱く火照った体を覚ますために、夕方の海岸沿いを散歩して歩いた。集落に数件ある民宿の前を通った時、昨日温泉で一緒だった工事の男性と再会した。
「散歩ですか? 今日も温泉で待ってますよぉ」
男性は何の気なしに言った言葉だろうとは思うけれど、「もうお風呂には入っちゃいました」なんて野暮なことは僕には言えず、「あ、あとで行きます」と答えてしまうのだった。

(次回に続く。鹿児島県トカラ列島の旅は全4回を予定しています。)

大和と琉球を結ぶ国道58号線 鹿児島県トカラ列島の旅その1

2017年01月18日

トカラ列島は秘島好きにはよく知られた島だ。海賊キッドの財宝伝説が残る宝島、1960年代にヒッピーコミューン"バンヤン・アシュラマ"が築かれた諏訪之瀬島、戦後の密貿易の中継地となった口之島など個性的な島が多い。
けれど、秘島好きでなければ、島への起点となる奄美大島・名瀬地区の人たちにさえ、いまいちよく知られていないのも事実。
「トカラ列島行きってここから船が出てるんですか?」
「いやぁ、名前は聞いたことあるんですけど、行ったことはないですねぇ」
「そこって何があるんですか?」
こんな調子である。奄美大島と屋久島という圧倒的知名度を誇る島々の間に挟まれたトカラ列島の影は驚くほどに薄い。
だいたいトカラ列島行きのフェリーだけは、鹿児島航路や沖縄航路、周辺の離島航路が発着する名瀬新港からでなく、町外れから深夜3時にひっそりと出港するのだ。周辺には待合室も、切符売り場もない。これでは地元民にすら知られていないのも無理はない。これが今から僕が向かおうとしているトカラ列島の立ち位置である。

トカラ列島は鹿児島郡十島村に属する七つの有人島の総称だ。南北160kmに延びる島々は日本一長い村でもある。もともとその名の通り、鹿児島本土にも近い硫黄島、黒島、竹島を含む10の有人島から成る村だったが、戦後、北緯30度線を基準にアメリカ軍によって南北に分断された。昔は"じっとうそん"、今は"としまむら"。十島村という名前はその当時の名残である。

トカラ列島のアクセスは、週2回鹿児島と奄美大島を往復する村営船としまのみ。仮に七島全てを制覇しようとすれば、それだけで相当の時間を要してしまう。それにやはり天候が崩れると欠航も多い。
そんなアクセスの難しさだけでも旅心をくすぐるには十分だったけれど、僕がここを訪れてみようと思った理由は他にも二つあった。
これまでも東京都の青ヶ島や沖縄県の南大東島など、アクセスが困難で時間もかかる孤島や秘島を旅してきた。けれど、それらの島々ですら、お金とタイミングさえ合えば今の時代ヘリコプターや飛行機が就航している。トカラ列島にはそれも存在しない。人の移動や、物流の全てを完全に船に頼るトカラ列島は純然たる島の性格を持ち合わせているのではないか、そんな予感がしたからだ。
もう一つ。那覇の国際通りの外れから出ている国道58号線は、海を越えてこの奄美大島を通り、種子島、そして鹿児島市へと続いている。いわば琉球文化と大和文化を結ぶ海道だ。間に点在するトカラの島々を巡って鹿児島へ辿り着くことができれば、それらの移ろいを体で感じ取れるかもしれないと思ったのだ。

フェリーとしまの乗客は工事作業員に、各島の住人、そして若干名の観光客と僕という僻地に行くときのお馴染みのメンバー構成で、定刻通りに名瀬港を出発した。まずはトカラ列島の中心であり、最大の島である中之島を目指す。

宝島、小宝島、悪石島、諏訪之瀬島の順に寄港を繰り返し、中之島に到着したのは午後1時前だった。時刻表では午前11時5分到着のダイヤが組まれているけれど、各島での荷物の積み下ろしの関係もあるから、時間はあってないようなものだった。
島の正面にはトカラ富士の別名を持つ列島最高峰979mの御岳(おたけ)が悠然と構えていた。フェリーが定刻通り到着していれば、登りに行こうと思っていたけれど、この時間帯ではちょっと難しそうだ。

この日は日曜日ということもあって、港には島の子供たちも集まっていてけっこうな賑わいを見せていた。
「おかえりー!」
「また来てくださいねぇ」
再会や別れの言葉が聞こえてくる一方で、素早く船内に入り込んで自動販売機でビールを買い込む姿もあった。島に商店は一軒しかなく、営業時間も変則的なので、船がやって来たらこうして買い出しをするのだ。フェリーとしまは交通手段であり、移動する商店でもある。

活況を呈す輪の中で明らかに日本人ではない金髪の人影もあった。今時、田舎でも外国人を見かけるのは珍しくないけれど、こんな離島にまで足を延ばしているなんて。
「すみません、彼らも旅行者なんですか?」
近くにいた女性に尋ねてみた。
「そうなんです、何日か前にヨットでやって来たんですよ」
「よ、ヨット!?」
それはいったいどういうことなのだと女性に質問する前に、外国人の彼らは僕がよそ者だと気が付いたらしく、彼らの方から声をかけてきた。
イタリアとフランスの若者だった。
話を聞いてみれば彼らは他のメンバーと共にニュージーランドから遥々一年半をかけてやって来たそうだ。パプアニューギニアやフィリピン、台湾、沖縄の島々を巡って、ここまで北上してきたらしい。
すごい。そんなことってできるんだ。
僕はこのトカラ列島に、琉球と大和を結ぶ海の道をテーマとしてやって来たわけだけれど、それを軽々と超えるスケール感で海の道を体現している彼らに深い感銘を受けたし、シンパシーも感じた。
以前、僕は中米のパナマから南米のコロンビアへ、ヨットに乗って渡ったことがあって、ヨットのスピード感を知っていただけに衝撃は大きかった。太平洋の波の厳しさはカリブ海の比ではないだろうことも想像できた。
聞きたいことは山ほどあったのだが、彼らは夕方には出発してしまうらしい。僕は僕でまずは村役場の中之島出張所に出向かなければならなかったので、出発前にはヨットに見送りに行く約束をして一旦彼らと別れた。

自転車を組み立てて、出張所へ。ここでキャンプの申請をした。
僻地に来るとお約束のようなもので、島の宿は工事関係者の予約で埋まってしまっていた。島にはキャンプ場があったけれど、集落から離れている上に、手入れがされなくなって久しく、使える状態ではないという。その代わりにと提案してくれたのが、港近くの原っぱでのキャンプだった。当然、水周りの設備は無いけれど、出張所もそれほど遠くなく、24時間開放されているので、そこのトイレを使えばいいという。平穏な島だからこそ成り立つ村公認の野宿。おまけに近くには温泉もあるので、至れり尽くせりの野宿だ。

テントを張り終えた後は、再び出張所の方へ。
出張所の隣には小さな石碑が立っているのだが、それは今回、トカラ列島を旅するにあたってどうしても見ておきたいものだった。そこにはこう書かれている。
「汽船も亦(また)道路なり」
僕はフェリーでこの島にやって来たし、数日後にはまたフェリーに乗って次の島を目指す。海には道があることはこれまでも書いてきたけれど、海の道とは船そのものだったのだ。船以外に交通手段のないトカラ列島にこの石碑があるからこそ、この言葉は力強く訴えるものがあった。それにヨットの彼らに出会ったことにも、この石碑が持つ不思議な因縁をどこか感じてしまう。

それから、海に沿って自転車を走らせた。島には3つの集落があって、そのうち西集落と東集落が港に近い場所に位置している。
「こんにちは!どこへ行くんですか?」
小学生の女の子が元気に挨拶をしてくれた。
「乗せてー!」
間髪入れず、弟と思われる男の子が自転車の後ろに付けたトレーラーに跨ってくる。
僕が島外の人間だと分かっているにも関わらずの警戒心の無さに僕は嬉しくなった。
彼女たちと戯れていると、軽バンが通りがかった。よそ者が子供たちにちょっかいを出して苦い顔をされてしまうかな、と思ったら、その様子を見てニコニコ笑いながら行ってしまった。それだけで僕はこの島が良い島だと確信をした。

あてもなく自転車でぶらぶらと走っていると、前方に裸足でペタペタと歩く欧米人が現れた。彼はさっきの二人が言っていた他のメンバーで、リーダー格のトムというイギリス人だった。
少し立ち話をすると、今からヨットの方に戻るところだったので、彼についていってヨットの中を見せてもらうことにした。
ヨットは想像よりもずっと小さかった。キッチンやソーラーパネル、寝具など必要なものは揃っているが、しかしこれであの太平洋を越えてきたのかと思ってしまうほど小さくて頼りない。それでも大きなトラブルは起きなかったそうだ。

もともと出発当初は他のヨットもいた30人超の大きなグループだったらしい。途中で他のヨットはルートが変わったり、メンバーが入れ替わったりして、今は先の二人に、日本人と台湾人の女子を加えた五人組で旅をしているとのこと。日本に入国してもうすぐ3ヶ月。早く鹿児島に着いて滞在の延長手続きをしなきゃ、不法滞在になってしまうよと笑っていた。
旅の四方山話に耳を傾けていると、他のメンバーがぞろぞろと戻ってきた。商店が機能しているとは思い難い島なのに、島人から野菜や食料を仕入れていた。
その脇でイタリアの男の子が何かの皮をなめしていた。野生化した島のヤギの皮だそうだ。昨日、島の人間と一緒に獲ったものらしい。ということは肉は…?彼はお腹をポンっと叩いてみせた。彼らのたくましさに脱帽してしまった。

夕方になると、島の人間も彼らを見送りに続々とやってきた。島人たちとの記念撮影も終えてさぁ出発…かと思いきや、雑談をしていたり、夕ご飯を作り出したりと至ってマイペースで出発する気配がない。風がないから船が出せないそうだった。風がないだけでと思うかもしれないけれど、一時代前の帆船の時代は風待ちが当たり前だったのだ。
とっぷりと日が暮れて、もう今日は出発しないんじゃないか、と思い始めた頃、急にヨットが慌ただしくなった。風が吹き出したらしい。途端に出航体制が整うと、あっという間に離島。彼らは真っ黒に染まりつつある北の海に消えていった。
動力を持つ船が一般的な現代で、風まかせを地で行くヨットの旅はなかなか大変そうだけれど、今では滅多にできない贅沢な旅にも思えた。 今夜は屋久島へと海の道を刻んでいくという彼らの航海の無事を祈った。

(次週へ続く。鹿児島県トカラ列島の旅は全4回を予定しています)