幻想自転車道でぐるりと一周 韓国済州島の旅その3
済州島三日目のこの日は、これまでで一番体調がよかった。日差しは相変わらず殺人的で暑さに慣れたわけではなかったけれど、この気候下での水分の取り方や休憩のタイミングの勘所がようやく分かってきたというか、少しは消耗を抑えながら走れるようになっていた。昨日まではほとんど冷麺しか受け付けていなかった食事も、他の料理を食べられるぐらいまで回復していた。
今朝、出発した西帰浦(ソギポ)は、ちょうど島一周の中間地点。なんとか島一周の目処がついたこともあって、ペダルを踏み込む足はいつもより力がみなぎっていた。
が、好事魔多し。
いつだってそう事はうまく運ばないのが僕の旅である。
海岸線沿いに現れたやや傾斜のきつい坂道を登ろうと立ち漕ぎ態勢に入った時、「バッキーン!」と大きな金属音が響いた。数日前にも耳にした聞き覚えのある音。対馬で直してもらったチェーンが再び破断してしまったのだ。今回もまた周りには何にもないところで。対馬での修理は応急処置だったとはいえ、何もこんなところで切れることはないだろう。どうやら旅の神様はこうやって僕にいたずらをするのが好きみたいだ。
「そっちがそういうつもりなら、こっちはそれに抗ってやる!」
半ば開き直った僕はキックボードの要領で地面を蹴って進むことにした。勢いに任せて思い切り蹴ると時速20km以上のスピードが出た。
「おぉ!けっこう出るじゃん!」
ゴールの済州島まで残り100kmを切っている。あとは坂らしい坂もないはずだから、もうこれで押し切ってやる!
「うぉぉー!」
と鼻息荒く走り出した僕だったが、30分後には汗だくになってがっくりとうなだれていた。
小径車は抵抗が大きいのですぐにスピードが落ちてしまう。スピードを維持するにはひたすら地面を蹴り続けるしかなく、あっという間にバテてしまった。まさかこんなことになるとは思っていなかったから飲み物も既に空っぽだった。
なによりアスファルトからの輻射熱がとてつもなく強烈だ。サドルに跨っていたときよりも10数センチ低いだけなのに全然違う。やっぱりこの状態で走るには無理があった。というか、いつの間にかこの旅で一番キツい状況に陥っているじゃないか。
息も絶え絶えでやっと到着した小さな町のコンビニに駆け込み、スポーツドリンクを買ってその場で一気に飲んだ。味がどうこうというよりも、キンキンに冷えた液体が喉を通る感触だけで生き返ったような思いだった。うまい。
人心地がついたところで自転車屋がないか尋ねてみると、店員やその場に居合わせたお客が知恵を持ち寄って、一枚の地図を書いてくれた。縮尺もアバウトでシンプルな手書きの地図ながら、それは自転車屋へ至るための必要なランドマークが欠かさず記されたパーフェクトな地図だった。
ただ、こう言っては失礼かもしれないが、教えられた自転車屋は年季の入った自転車や廃材が転がるガラクタ屋のような店構えだった。現れた店主もつっけんどんで、僕が切れたチェーンを渡すと、何も言わずポイッと床に放り投げた。そんな態度を見て、こりゃあ訪ねる店を間違えたかな、と心の中で苦虫を噛み潰した。
しかし店主の親父さんの腕前はなかなかのものだった。チェーンカッターも使わず、ハンマーとその辺に落ちていた釘で曲がったチェーン部分を切り離して、チェーンリンクを取り付けてチェーンを元通りに繋いだ。自転車屋の前に釘がバラバラと転がっているのはどういうことなのだとツッコミどころはあるにせよ、親父さんの仕事は惚れ惚れするぐらい手際が良かった。
ただ、問題は修理代金だ。チェーンリンクもつけてもらってしまっているし、親父さんのぶっきらぼうな態度も気になる。なにせここまで親父さんは一言も僕と口を聞いてくれていないのだ。徹底的な愛国者主義なのかもしれない。外国人の僕に足元を見た金額をふっかけてきたらどうしよう?
恐る恐る「いくらですか?」と訊いてみた。おじさんはその表情を崩すことなく「オチェンウォン」と言った。
コテンとよろけそうになった。
オチェンウォンとは5,000ウォンである。邦貨にして僅か450円。ほとんどチェーンリンクの部品代ぐらいなもので、ぼったくりどころか、とんでもない激安価格じゃないか。僕は親父さんを勘違いしていたようで、彼は単に口数少ない職人気質なのだった。
「カムサハムニダ!」と心の限りの感謝を伝えると親父さんは「アニョ」と言った。アニョは「No」という意味だから、彼風に言いかえてみれば「いいってことよ」といったところだろうか。
何だか嬉しくなった僕は写真を撮っていいか訊いてみた。親父さんは何か言ったがそれ以上の韓国語は分からない。でも多分、「一枚だけだからな」そう言ったような気がする。彼は気恥ずかしそうにポーズを取ると、僕のカメラに収まった。
それからコンビニに戻って、店員たちにも自転車が直ったことを伝えに行った。彼らもまた事の顛末を耳にして一安心したように笑ってくれた。
旅の神様は意地悪だ。僕をからかうようにあの手この手で行く手を阻んでくる。それはいつも順風満帆にスイスイ先へ進んでいるような時ばかりだ。でも、僕の苦境を空から散々笑った後には、必ず助け舟も出してくれるのが僕の旅の神様である。もしかするとそれは、単なるいたずら心だけではなくて「そんなまっしぐらにゴールを目指さないで、もう少し土地や人と関わりを持ちながら旅してみたらどうだい?」と言う神様なりの親切心なのかもしれない。
それにいつも事が一段落すると、そこに残るのは心地よい充実感だけだから、恨みつらみは一切残らない。アメとムチのさじ加減が絶妙なのだ。
一時間半振りに復活した自転車の上から浴びる浜風はとても小気味よかった。
「これだよ、これ!」
徒歩より10数センチだけ高い位置から眺める海は、さっきよりも実に青々と、輝いて見えるのだった。
島の最東部・城山(ソンサン)に到着したのは結局夕方前だった。海に突き出た城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)は10万年前の海底噴火でできあがり、火山島済州島を代表する景観の一つだ。
それだけに麓には観光客向けの町が広がっているのだが、ここで圧倒的に幅を利かせているのは韓国人ではなくて中国人だった。5台、10台では到底収まらない数の観光バスが次から次へと現れ、町の各所では餐厅(レストラン)、客桟(ゲストハウス)といった漢字があちこちに掲げられている。店員も僕を中国人だと思って片言の中国語で接客をしてきた。まぁこれは文字も言葉もほとんど分からない韓国語より、中国語の方が多少明るい僕にとっては大助かりなのだけれど。
済州島だけの訪問に関してはVISAなし渡航が認められ、上海からは1時間、北京からでも2時間半程度のフライトで済むアクセスの良さも手伝って今や年間300万人以上の中国人観光客がやって来ているそうだ。対馬が韓国人にとってふらっと行ける外国であったように、済州島は中国人にとって気軽に行ける外国なのだ。中国からの飛行機増に対応するため、2025年を目処に新たな空港も建設するそうだ。
島を八割近く周ってきて分かってきたが、中国人を見かける割合は玄関口となる北の済州市より南の西帰浦あたりで顕著だ。かなりの建物が中国人向けあるいは中国人所有の建物となっていた。それは表立って見えにくいところから中国化が徐々に進んでいるのではないだろうか、という印象さえ受けるほどだった。
同時に島の住人との軋轢も近年増えている。実際、僕が宿にチェックインしようとした時も、先にやって来ていた中国人旅行者と宿のオーナーが揉めていて、僕も仲裁に入るほどだった。外国人観光客が経済の潤いを島にもたらしつつも、文化の摩擦に揺れる。対馬でもそうだったけれど、済州島でも状況は同じだった。
一方で日本人は全く見かけない。統計上は年間5万人の渡航者がいるそうだけれど、恐らくツアー客がほとんどで僕のような自由旅行者は皆無なのだろう。初日のビッグダディゲストハウスでは三年前のオープン以来僕が二人目、昨日と今日の宿に関しては僕が初めての日本人客だと言っていた。直行便も少なく割高になるので、よほど韓国に思い入れがある人でなければ大抵、沖縄やハワイに行くのだろう。近いようで遠い外国のリゾート。それが日本人にとって済州島の今の立ち位置だった。
翌日。まだ町が眠りについている朝5時に城山日出峰に登った。その名が示す通り、この山は韓国有数の日の出スポット。僕以外にもたくさんの人が御来光を拝むべく、チラチラとヘッドランプに明かりを灯らせて遊歩道を登っていた。
夜明け前といえど、蒸し蒸しした湿度がまとわりつく噴火口の縁で日の出を待つ。対馬は今頃日の出を迎えているだろうかとか、東京はもうセミがうるさく鳴いている頃だろうかと海の向こう側に想像を巡らせているうちに、空がオレンジ色に染まり始めた。
残念ながら水平線上には雲が停滞していて、すっきりとした御来光とは行かなかったけれど、日の出から5分もすると、この旅中さんざん僕を苦しめ続けた太陽がぐんぐんと野心的に高度をあげて姿を現した。
今日も暑くて眩しい真夏の一日が始まるのだ。
そんな太陽を眺めながら僕は小さな願掛けをした。
「済州島一周まであと一日。最後くらいは何事もなくスムーズに走れますように」
いたずら好きな旅の神様だから、その願いを聞き入れてくれるかどうかは定かではないけれど。
(次週に続く。済州島一周の旅は全4回を予定しています)