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日本の真ん中に浮かぶ島々巡り 三河湾・伊勢湾の旅その4
絶え間なく波に揉まれる船も答志島の沖合に近づくと、ぴたりと揺れが収まった。昨日ここを通った時も同じだったけれど、対岸の菅島とが合わさり波や風をぴたりとせき止めていたのだった。
こういうとき島の力強さを思い知らされる。島の存在を表現する言葉として「浮かぶ」を僕は使いがちだけれど、実際には島はそこに「鎮座」しているのだ。海面上に見えているものは、どっしりと居座る巨大な陸塊のほんの一部にしか過ぎないことに改めて気づく。
和具港で下船した僕はさっそく自転車を組み立てた。神島での一件があったから、自転車にまたがるのはなんだかとても久しぶりのように感じる。
答志島は人口2578人、周囲26.3kmでこの辺りでは一番大きな島。今回の旅で訪れた島々と同じように主な産業は漁業で、次いで観光業が盛んである。
今いる和具地区の他に北に答志地区、西に桃取地区の合計三集落が島にはあって、桃取からも鳥羽行の船が出ているとのことだったので、この島は一周コースではなくて横断コースで巡ってみようと計画を立てた。
そしてその前に、まずは腹ごしらえをしようということで、最大の集落である答志地区へと向かった。
ところが、最大の集落と言っても、それはあくまで島で規模感でのことであって、賑やかな商店街や飲み屋街が連なっているというわけでは当然無い。食堂探しはまたもや難航し、僕は二日連続で昼食難民となってしまった。
港沿いのメインストリートは数百メートルでトンネルにぶつかり、トンネルの向こうでは集落は途切れている。
来た道を引き返し、今度は路地の中をさまよった。他の島と同様、相変わらず細い路地裏が続いたけれど、規則正しい真っ直ぐな道が多く、迷い込む、という感覚はさほど感じさせない路地裏だった。
古い家並が続く答志地区の小路でクリーム色の真新しい建物が目を引いた。「寝屋子交流の館」と書いてある。寝屋子とは15歳を迎えた男子数名を寝屋親と呼ばれる里親が預かり、結婚をするまで共同生活をすることで、義兄弟の縁を結んだ男子たちが生涯に渡り助け合うための相互扶助制度である。以前は神島など近隣でも見られた制度だったそうだが、今ではこの答志地区に残るのみである。
「にいちゃん、何売っとんの?」
路地の徘徊を続けていると、コンクリートブロックの縁に座り込んで井戸端会議をしていたおばさん四人に話しかけられた。自転車の後ろにつけたスーツケースを見て、物売りだと思ったらしい。「ここに折り畳み自転車が入るんですよ」と教えてあげると彼女たちは「面白いものがあるんやなぁ」「なんや売り子かと思ったわー」と大盛り上がりだ。それにしても物言いがストレートで小気味がいい。彼女たちの朗らかさにつられて「お母さんたちも乗っていきますか?」とおどけてみたら、一層大きな笑い声が通りに響き渡った。
「お腹空いちゃって。なにか食べられる場所はないですか?」
食堂の場所を尋ねると彼女たちは会議を始め、「○○はやってないし、△△ならやってるやろ。ええか、兄ちゃん。ここ真っ直ぐ行って二つ目を左に曲がって、あとはその辺の人に聞けば分かる」という詳細かつ、テキトーな情報を教えてくれた。
教えに従って、真っすぐ行って二つ目を左に曲がると、港に面した通りに戻ってきてしまった。ここはさっき通ったはずだったけど 。尋ねられるような「その辺の人」はどこにもいない。けれど、誰かに聞くまでもなくお店はすぐに見つかった。小さな店構えだったから見落としていたようだ。とにかく、なんとかお昼ご飯にありつけそうだ。
カウンター席とテーブル席が二つだけのうちの一つに腰掛け、きつねうどんを注文した。海鮮もの以外のメニューもいくつかあるようにここは観光客向けというよりも、地元向けの定食屋のようだ。おばあさんに娘さん、そして孫娘と思われる三人で営業していた。
「あの自転車でまわっとるん?」
食事を終えた先客を外まで見送ったおばあさんが、店内に戻ってくると僕に声をかけてくれた。
「そうなんです。さっき神島から来て、これから桃取まで走って鳥羽に行こうと思ってて」
会話を聞いていた娘さんが調理場でうどんを茹でながら言う。
「自転車で桃取まで行くなんてけったいやなぁ。途中でイノシシに遭わんようになぁ」
「イ、イノシシ!?」
聞けばここ数年、答志島はイノシシ被害が増加しているらしい。もともと山の中にいたそうだが、最近は食べ物を求めて集落まで下りてくることが増えたそうだ。近所の人は来客かと思って玄関を開けたらイノシシがいて突進された、なんて話を教えてくれた。ここから桃取地区へ至る道がそのイノシシの住処ということだ。
「山の中にちょうど展望台があって見晴らしがええよ。イノシシが出るもんで、私は行ったことないんやけど。アハハハ」
娘さんに悪気はないのだろうけれど、その道はこれから僕が通らなければならない自分事である。あぁ聞かなければよかった
、まさかこんなところで身の引き締まる気持ちになるとは思ってもいなかった。
腹ごなしを済ませて、いよいよ島横断へと走り出す。
答志地区を出てすぐにこの島の神様が祀られているという八幡神社を通りがかった。写真を撮り忘れてしまったのだが、答志島の家々には「八」の字を丸で囲ったマルハチ印が至るところに書かれている、これは八幡神社に由来する家内安全、豊漁祈願を祈るしるしなのだそうだ。
和具地区の浜辺を横切ると、道は上り坂になり、ぐねぐねとした山岳道路に変わっていった。見通しの効かない森が両脇に広がり、確かにいつイノシシが出てもおかしくない雰囲気である。
「出るなよ、出るなよ
」
道路端から少し離れて自転車を漕ぐ。この坂道だ、イノシシに出くわしたらすぐにUターンして下ろう。頭でシミュレーションをしながら上る。角度のキツいカーブを曲がった時だ。
「うわっー!!」
とうとうイノシシが出た!
というわけではなかったのだが、代わりに軽トラックがすごい勢いで曲がってきた。ブゥーン! と風切り音を立てて、僕のスレスレを横切って行く。続けてもう一台、二台と車が猛スピードで走り去っていった。
「あ、危ねー」
危うく轢かれかけるところだった
。
山がちな地形の答志島において、島を貫通させる縦貫トンネルが目下建設されているが、今のところ桃取地区と和具・答志地区を結ぶ道路はこの道しかない。答志島スカイラインなんて大層な名前がついているが、ただの山道である。山道とはいえ島唯一の縦貫道だから交通量が多いのは当たり前で、ここで気をつけなければならないのはイノシシだけではなかったのだ。
というよりも。
「交通事故のほうが遥かに怖いわ!」
そういうわけで僕は大人しく道路端を走ることにした。
山道の途中、「レイフィールド」と書かれた看板があり、小径が森の中に延びていた。食堂で教えてもらった展望台はここのことだろうか? 少し立ち寄ってみることにした。
三、四分ほど森の中を歩くと開けた場所に出て、そこにデッキハウスがあった。まだ木材の匂いが残る、完成して間もないと思われるそこからは伊勢湾の島々や志摩半島が一望できた。反対側に目をやれば神島や伊良湖岬まではっきり見通せる。
デッキハウスには「太陽の道と答志島」という題名の説明書きがあった。解説によると答志島は二つの太陽の道(レイライン)が交わる場所なのだそうだ。
一つ。答志島の位置する北緯三十四度三十二分線上には、東は神島の八代神社から、西は淡路島の伊勢久留麻神社までが一直線に並び、間には天照大御神に仕えた斎王の住まい斎宮跡を始めとして相当数の太陽信仰の遺跡や神社が存在しているらしい。そして春分・秋分の日はこの線上に太陽が上り、沈む。
二つ。太陽神の天照大神を祀った伊勢神宮と、古くから信仰の山であった富士山に直線を引くと、その線もまた答志島を通り、また、夏至と冬至の日の入り日の出の方向と重なるのだそうだ。
二つの太陽の道が交わる答志島。真相のほどは解明されていない眉唾物の伝説ではあるが、しかしこれで確かに分かったことがあった。
それは、神島は伊勢国を擁する三重県側に連なる正当な理由があるということ。神島の八代神社では毎年元旦にゲーター祭という神事がある。グミの枝を丸めて作った輪を竹で空高く突き上げるこの祭りの輪は、太陽を模したものである。神島は間違いなく太陽信仰の文化や歴史を受け継いでいるのだ。
伝統の中に秘められた深い土地と土地の繋がり。神島は明治の廃藩置県以前も鳥羽藩の領土であり、古くからずっと志摩半島の方向を向いていた。そこには納得できる理由があった。
今回の旅の中で度々感じていた、なぜ愛知県の鼻先に位置する神島が三重県だったのか、という疑問がここで氷解した。
再び自転車に跨がり、山道を登って行くと頂上に差し掛かり、それから緩い下り坂が桃取地区まで続いていった。時代に取り残された漁師町といった風の桃取地区は、うらぶれた雰囲気でこの陽気に関わらず閑散としていた。港で鳥羽行の船の時間を確認すると、あと三十分。自転車を梱包するのにちょうどいい空き時間だった。
ここまでやって来れば鳥羽はもう目の前である。
年季の入った定期船に揺られると間もなく、佐田浜港に到着。これで今回の三河湾・伊勢湾の旅は終了である。一時はどうなることかと思ったけれど、なんとか無事周ってこられた。
しかし、安堵したのもつかの間、船を降りるときにまたもやトラブルが起きてしまった。
昨夕、一度鳥羽にやってきた時に僕は鳥羽~神島間の島々を自由に行き来できる周遊チケットを買っていたのだけれど、チケット回収のお兄さんによれば答志島発の船でも桃取港からの船だけは適用外なのだそうだ。僕は昔から詰めが甘い。
ところが、仕方がないから、というか当たり前なのだから差額を支払おうとすると、「今回は仕方がないんで。また次乗るときはちゃんとチケット買ってくださいね」と見逃してくれた。
僕のような旅行者の「次」がいつになるのか、そんなことは彼も百も承知だっただろうけれど、そこは彼の優しさだと思いありがたく受け取ることにした。ともかくありがとう。
鳥羽駅から名古屋駅までは快速電車で二時間の道のりだ。
今時、券売機もないという珍しいから駅から電車に乗り込み、腰を下ろすと僕はもう一度改めて、なんとか周ってこられたと自分に言い聞かせた。ぐったりと心地よい疲れが体を湧き上がってくる。
乗り込んだ車両のそこが有料の指定席だと分かったのは車掌が通りがかったときだ。「すみません、間違えてました!」と僕は慌てて隣の車両へと移動した。やっぱり、詰めが甘いのかもしれない。
(次週からは瀬戸内海の島の旅をお送りします)
日本の真ん中に浮かぶ島々巡り 三河湾・伊勢湾の旅その3
「風が強いから今日の神島行きの船は運休だよ!」
伊良湖港に降り立った僕は船員にそう聞かされ、慌てふためいた。神島では宿をもう予約してあるのだ。どうしよう? 伊良湖にはいくつか宿があるはずだから、寝る場所に困るということはないのだが
。
一昨日したWとの会話が頭に浮かぶ。
「わたしの新婚旅行では伊良湖ビューホテルに泊まったんだ。よかったら泊まってみて!」
あの時の会話に言霊でも宿ったのだろうか? 目と鼻の先にある神島を、今晩僕は丘の上に建つ絶好のオーシャンビューのホテルから眺めなくてはいけないのだろうか?
「鳥羽から神島へ行く船もないんでしょうか!?」
船員に訊ねた。もともとの予定では明日、神島から伊勢湾を横断して鳥羽方面の島に渡る予定だった。つまり鳥羽へ移動すれば、神島への航路があるはずなのだ。
「あるかもしれないけど、今から行って間に合うかは分からんよ。それにもし鳥羽に行くなら、あと5分でフェリーが出ちゃうよ!」
港を回り込んだ反対側に鳥羽行きのカーフェリーが停泊していた。ドドド
とエンジン音が轟いていて出港が近い。船があるかどうかを調べる時間はなさそうだ。
鳥羽に渡ったとしても神島行きの船があるかは分からない。しかし、ここにいても状況は変わらないのだと、僕は焦燥感に駆られるようにフェリー乗り場へと走った。
こういう大荷物を抱えた時に限って二階にある空気の読めないチケット売場でチケットを買い、息も絶え絶えで船に乗り込むと、同時にタラップがあがった。
ガラガラの船室の一角に席を取ると、息を整える間もなくすぐに船の時間を携帯電話で調べた。
「
あった!」
なんとか神島行きの最終便に乗り換えできそうだった。ホッと一息といきたいところだったが、しかしまだ油断はできない。車やトラックも乗るこの大型フェリーでさえ、強風で波打つ伊良湖水道ではよく揺れていた。「頼むから乗り換えの船もちゃんと出港してくれよ
」そう祈りながらまずは窓の向こうに映る神島を見送った。
鳥羽市営定期船・中之郷乗り場は見落としてしまいそうなくらい小さな乗り場だった。
今しがた乗ってきた伊勢湾フェリーの港とは雲泥の差である。それに運賃は、来た道を戻るだけにも関わらず730円と半額以下だ。これはとんでもないボロ船がやってくるんじゃないか
と不安になったのだが、現れた定期船しおさい号は、平成28年3月の札が貼られた、まだ船内に新車のニオイが漂うピカピカの船だった。
「これなら神島まで行くだろう!」
やっと僕は胸をなで下ろすことができた。
定刻通りに出発した船は佐田浜港に立ち寄った後、神島へと向けて進んだ。あれだけ揺れていた波も落ち着いている。夕方になって風が凪いだのだろうかと思っていたのだが、答志島・菅島に囲まれた水道を抜けた途端に八の字を描くように揺れ出した。やはりこの辺りの潮流は年中激しいようだ。篠島から伊良湖へ渡った船も含めて今日は二時間近くこの海にもみくちゃにされっぱなしだ。流石に酔ってしまった。
黄昏時も迫る頃、やっと神島へ到着した。思いがけず苦労して辿り着いた島だったから、なんだかこの島に足を踏み入れるだけで感慨深い。
桟橋を出ると「三島文学潮騒の地」の文字が書かれた真新しい碑が僕を出迎えてくれた。定期船の名前もそうだったが、この島は三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった場所である。昭和29年に発表され、日米でベストセラーになり、五回に渡って映画化もされた。集落には三島由紀夫が取材のために滞在した家や物語に登場する洗濯場など見どころがあちこちにある。
予約していた山海荘へ向かって歩き出すと、集落の密度と立体感に圧倒された。狭小な路地裏と幾多に張り巡らせられた階段が組み合わさって、島に張り付くように密集している。見上げるその先々にも段々に家が連なっていて、ここではとうとう原付バイクすらも受け付けない。
「えらい大きな荷物もってきはったんやなぁ」
山海荘への階段で必死にスーツケースを持ち上げていると、宿の勝手口から女将さんが出てきてくれた。すぐそこには愛知県の篠島や伊良湖岬があるというのに、言葉遣いはすっかり三重弁に変わっていたことに不思議な錯誤感を覚えた。
「自転車が入ってるんですよ」
「この島に自転車で走れるところなんてありまへん」
島にやって来てまだ僅か五分ほどだったが、それは既に十分身に染みていた。港に面した通り以外は階段だらけなのだから。無理して自転車で走る必要はない、この島は自分の足でゆっくり周ろうと思っていたところだった。
船が運休になってしまい伊勢湾を往復してやってきた事を話すと、「全然連絡がないもんで、どうしたもんかと思っとったんやて。そんな無理せんでもよかったんやけど」と言われてしまった。
船が運休することはたまにあることだから、その時の予約キャンセルは仕方ないらしい。あの時は焦っていて何も考えられなかったけれど、結局のところ、ここは"島"だからそういうことは織り込み済みだったのだ。僕は独り相撲をとっていただけなのかもしれない。そう思うと、伊良湖ビューホテルでのんびりと過ごすのも悪くなかったかもしれないな、やきもきして過ごした今日の午後がバカバカしかった。
無用の長物と化した自転車のスーツケースを玄関に置いて、僕は急いで外に出た。じきに日が暮れる。今日のような風の強い日の夕暮れは余計な雲が吹き飛ばされて、美しい落日が見られるはずなのだ。いい夕日スポットを見つけなければ。
四方八方に延びる階段をとりとめもなく上る。狙ったところに出るときもあれば、上った先が民家で行き止まりということもあった。でもこの変幻自在さが妙に楽しい。どんなに迷ったとしてもここは小さな島なのだ。居場所を見失うことはないから、気ままに迷いながら進んでみよう。
民家が捌けて全景を見渡せるところがあった。さっきは見上げていた家々を今度は足元に見下ろすことができる。集落の屋根瓦が夕日色に染め上げられているところだった。
この島はイタリアのアマルフィ海岸・ポジターノの街にもよく似ている。 なんて言ってしまうとイタリア通の人たちに怒られてしまうかもしれないが、急傾斜の山に張りついて肩を寄せ合う路地の街としてはとてもよく似ていたのだ。あるいはあの時もこの時と同じように夕暮れ時に街に駆け込んだシチュエーションだったから似ていると感じたのかもしれない。
もっともレモンの産地として名高く、あちこちでレモンの果実がなっている爽やかなポジターノと比べて、こちらでは道のあちこちでタマネギが干されていたり、タコ壺が道辺に並んでいたりと生活感はだいぶ異なってはいるけれど。
島の小高いところに立つ八代神社の入口からの見晴らしがよく、ここを夕日スポットとした。西の方角から容赦なく風が吹きつけて、油断すれば吹き飛ばされそうだ。こんな有様だったから、もしかすると今日のこの日に神島にやってこれたことは幸運だったのかもしれない。伊良湖岬から僅か6km。けれど猛烈な風と潮流によって寸断された絶海の孤島のような孤高さを僕はこの島に感じていた。西の空に落ち行く真ん丸の夕日がとても美しかった。
きっと今夜は星も素晴らしいだろうから、久し振りに夜空も撮ろうかなと思っていたけれど、夕食を食べて部屋に戻るといつの間にか寝てしまっていた。気を揉むような長い一日だったのだ、仕方がないだろう。
翌朝もピーカンのすっきりとした空模様が広がった。
前の日の到着が遅れたこともあって、島を見てまわる時間の限られていた僕は朝ご飯を食べた後、さっそく散策に出かけた。
神島は今も昔も潮騒の島である。街行くあちらこちらが物語にゆかりのあるものばかりで、そこには丁寧に解説の看板も立てられている。朽ちて読めなくなっているような看板は一つもない。それだけで潮騒の物語が島の人々にとってのアイデンティティとして今も脈づいていることが窺い知れるというものだ。そして物語に登場した場所は決して架空の場所としてではなく、実利の伴う場所として島の暮らしに根づいている。
色褪せない物語の記憶の一方で、目立ったのは空き家の数々だ。
「歌島(作中の神島のこと)は人口千四百、周囲一里に充たない小島である」の書き出しで始まる小説の舞台の人口は現在500人ほど。以前は10軒あった民宿も今では山海荘だけだそうだ。島の現実は厳しい。
風にそよぐ木々の梢がざわついて、本当に神様がそこにいる気配のする八代神社を過ぎると、集落が途切れて島を一周する小道に出た。
ここまで足を伸ばす人も減っているのか、コンクリートで形作られた道は、苔がびっしりと生え、草がぼうぼうに茂っていたりとあと数年で森に飲み込まれてしまいそうな勢いである。ただ、それは実に雰囲気があって、一層この島が時代に取り残された孤島であることを演出した。
伊良湖岬を見通す高台には灯台があった。古くから海の難所として知られていた伊良湖水道の海上安全のために明治42年に設置されたもので、光は44km先まで届くのだという。
沖合には名古屋港や四日市港へと向かう大型フェリーやオイルタンカーの影が見える。この海の先は外国に繋がっている。世界中のあちこちから来た船の数々が、この小さな島の光に導かれて日本へと入ってくるという事実が不思議な感覚だった。
小道をさらに分け進んでいくと監的哨がある。先の時代のこの軍事施設も潮騒の中に登場し、とりわけ神島のハイライトのような場所である。
屋上へ出ると島の南端から水平線の向こうまでをぐるりと見通すことができた。深い海に広い空に囲まれた急峻な地形は圧倒的な孤立感である。振り返ると来た道が分からないくらい島は青々とした森に覆われ、その上を二羽の猛禽が悠々と舞っていた。この島旅のみならず、日本の島も世界の島もそれなりに回ってきたけれど、これ程までに直感的に孤島感を訴えかける場所はあっただろうか。
島唯一の小中学校が見え、そろそろ島を周回しかける頃に神島の孤島感はクライマックスを迎える。海に面したところで石灰岩の白い尖頭群が鋭く空を突き刺していた。迷いなく屹立する佇まいは堂々としていて、見惚れるほどである。狂ったように吹き続く風と波に海蝕された断崖は、この島を囲う厳しい自然環境を物語る。
その一方で足元の磯辺では、二人のばあさまがせっせと岩に張り付く1cm程の小貝採りに勤しんでいた。
「イソモンいうてな、茹でて食べるんや」
そこで生まれ育った人間ほど、その場所の「スゴさ」に気付かないものである。
学校の校庭では、この島に似つかわしくない大型の工事車両が忙しなく動いていた。開けた場所は島でこのあたりぐらいだから、緊急時のヘリポートでも作っているのだろうか? 小さな子供を連れて散歩している男性がいたので声を掛けた。
「これはねぇ、新校舎を建てているんですよ。来年完成します」
なんだか解せない思いだった。島は日本の縮図である。歯止めの利かない過疎化や少子高齢化は島ほどに如実に現れ、廃校になった学校をこれまでいくつも見てきたからだ。それなのにここでは新校舎?
「今の校舎には小学生が20人と中学生が3人通ってますね。でもこの子が小学校に上がるときの同級生は6人もいるんですよ」
なんと静かに消えていくかに思えた神島では、少しずつ若い人が戻ってきているというのだ。そのほとんどが漁業で生計を立てているのだそうで、島の産業はほとんどモノカルチャーである。日に数本しか定期航路もなく、運休もしやすい。島に高校はないから通学でさえ一苦労だが、それでもこの島がいいのだという。
「鳥羽にももう一つ家があるって家も多いですけどね、でもやっぱりここが生まれた場所だから」
それからお嫁さんはどこから? という話になった時、面白い話が聞けた。
「伊勢とか鳥羽から来る人が多いですけど、昔は篠島の方から来る人も多かったみたいですよ。この島に多い小久保って苗字はもともとあっちの苗字だったみたいです」
あっ、となった。昨日、篠島の神社に立ち寄った時に見かけた寄進者の名札には確かに小久保性が多かったのだ。篠島は、愛知と三重の境目に位置する島と僕は仮説を立てていたが、それはあながち間違いではなかったのかもしれない。
ではそれ程までに関わりの深い篠島と神島がなぜ今では二つの県に分かれてしまったのだろうか? 神島なんて鳥羽よりも渥美半島の方が近いのに。この疑問に対する一つの回答は、この後に訪れることになる答志島で明らかになる。
男性と別れ、港へと戻る道すがら、さっき磯で会ったばあさまと一緒になった。
「昨日は篠島にいたんですけど、神島はずいぶん雰囲気が違いますね」
「こっちの人は優しいやろ?」
こういう冗談の切り返しは明らかに関西ノリである。やはり昨日までの島とは受ける印象が違っている。壁を感じさせない話し方だから自然と世間話が弾む。そして「気ぃつけて帰ってなー」とあっさりと消えてゆく。何気ない会話が本当に何気なくできる、それがこの島の一つの魅力だと思う。
神島は不思議な島である。島民と話していると砕けた人柄と言葉遣いにはっきりと関西の地域にやってきたと思わせる一方で、ひとたび島を歩けばこれ程までに弧島を意識させるところはない。外周4kmにも満たない小さな島にたくさんの顔を隠している。歴史もあり、栄枯盛衰も経験した。若い人間が戻ってきているという島の数年後がどんな風になっているのか、また訪ねてみたいと素直に思った。
集落に戻ってくるとちょうど船の時間だった。宿に立ち寄り、一度も開くことなく終わったスーツケースを引き取って港へと向かう。港で船を待つ人の誰もが、この島に自転車を持ち込んだ無謀者がいるとは思ってもいないことだろう。
先に書いたように次の行き先は伊勢湾を横断した先の答志島だ。
出航した船が港を囲う防波堤の外に出ると、途端に激しく波に揺られた。神島の全景を写真に撮ろうとデッキに出ていたが、うかつに動いたら海に投げ出されてしまうほどの揺れだった。
「ここはやっぱり激しい潮流に囲まれた絶島なんだな
」
カメラを構えることなど不可能で、僕はデッキの椅子を両手でしっかり掴みながら、次第に遠くなっていく神島をただ眺めるほかなかった。
(次週に続く。三河湾・伊勢湾の旅は全四回を予定しています)