日本の真ん中に浮かぶ島々巡り 三河湾・伊勢湾の旅その4
絶え間なく波に揉まれる船も答志島の沖合に近づくと、ぴたりと揺れが収まった。昨日ここを通った時も同じだったけれど、対岸の菅島とが合わさり波や風をぴたりとせき止めていたのだった。
こういうとき島の力強さを思い知らされる。島の存在を表現する言葉として「浮かぶ」を僕は使いがちだけれど、実際には島はそこに「鎮座」しているのだ。海面上に見えているものは、どっしりと居座る巨大な陸塊のほんの一部にしか過ぎないことに改めて気づく。
和具港で下船した僕はさっそく自転車を組み立てた。神島での一件があったから、自転車にまたがるのはなんだかとても久しぶりのように感じる。
答志島は人口2578人、周囲26.3kmでこの辺りでは一番大きな島。今回の旅で訪れた島々と同じように主な産業は漁業で、次いで観光業が盛んである。
今いる和具地区の他に北に答志地区、西に桃取地区の合計三集落が島にはあって、桃取からも鳥羽行の船が出ているとのことだったので、この島は一周コースではなくて横断コースで巡ってみようと計画を立てた。
そしてその前に、まずは腹ごしらえをしようということで、最大の集落である答志地区へと向かった。
ところが、最大の集落と言っても、それはあくまで島で規模感でのことであって、賑やかな商店街や飲み屋街が連なっているというわけでは当然無い。食堂探しはまたもや難航し、僕は二日連続で昼食難民となってしまった。
港沿いのメインストリートは数百メートルでトンネルにぶつかり、トンネルの向こうでは集落は途切れている。
来た道を引き返し、今度は路地の中をさまよった。他の島と同様、相変わらず細い路地裏が続いたけれど、規則正しい真っ直ぐな道が多く、迷い込む、という感覚はさほど感じさせない路地裏だった。
古い家並が続く答志地区の小路でクリーム色の真新しい建物が目を引いた。「寝屋子交流の館」と書いてある。寝屋子とは15歳を迎えた男子数名を寝屋親と呼ばれる里親が預かり、結婚をするまで共同生活をすることで、義兄弟の縁を結んだ男子たちが生涯に渡り助け合うための相互扶助制度である。以前は神島など近隣でも見られた制度だったそうだが、今ではこの答志地区に残るのみである。
「にいちゃん、何売っとんの?」
路地の徘徊を続けていると、コンクリートブロックの縁に座り込んで井戸端会議をしていたおばさん四人に話しかけられた。自転車の後ろにつけたスーツケースを見て、物売りだと思ったらしい。「ここに折り畳み自転車が入るんですよ」と教えてあげると彼女たちは「面白いものがあるんやなぁ」「なんや売り子かと思ったわー」と大盛り上がりだ。それにしても物言いがストレートで小気味がいい。彼女たちの朗らかさにつられて「お母さんたちも乗っていきますか?」とおどけてみたら、一層大きな笑い声が通りに響き渡った。
「お腹空いちゃって。なにか食べられる場所はないですか?」
食堂の場所を尋ねると彼女たちは会議を始め、「○○はやってないし、△△ならやってるやろ。ええか、兄ちゃん。ここ真っ直ぐ行って二つ目を左に曲がって、あとはその辺の人に聞けば分かる」という詳細かつ、テキトーな情報を教えてくれた。
教えに従って、真っすぐ行って二つ目を左に曲がると、港に面した通りに戻ってきてしまった。ここはさっき通ったはずだったけど 。尋ねられるような「その辺の人」はどこにもいない。けれど、誰かに聞くまでもなくお店はすぐに見つかった。小さな店構えだったから見落としていたようだ。とにかく、なんとかお昼ご飯にありつけそうだ。
カウンター席とテーブル席が二つだけのうちの一つに腰掛け、きつねうどんを注文した。海鮮もの以外のメニューもいくつかあるようにここは観光客向けというよりも、地元向けの定食屋のようだ。おばあさんに娘さん、そして孫娘と思われる三人で営業していた。
「あの自転車でまわっとるん?」
食事を終えた先客を外まで見送ったおばあさんが、店内に戻ってくると僕に声をかけてくれた。
「そうなんです。さっき神島から来て、これから桃取まで走って鳥羽に行こうと思ってて」
会話を聞いていた娘さんが調理場でうどんを茹でながら言う。
「自転車で桃取まで行くなんてけったいやなぁ。途中でイノシシに遭わんようになぁ」
「イ、イノシシ!?」
聞けばここ数年、答志島はイノシシ被害が増加しているらしい。もともと山の中にいたそうだが、最近は食べ物を求めて集落まで下りてくることが増えたそうだ。近所の人は来客かと思って玄関を開けたらイノシシがいて突進された、なんて話を教えてくれた。ここから桃取地区へ至る道がそのイノシシの住処ということだ。
「山の中にちょうど展望台があって見晴らしがええよ。イノシシが出るもんで、私は行ったことないんやけど。アハハハ」
娘さんに悪気はないのだろうけれど、その道はこれから僕が通らなければならない自分事である。あぁ聞かなければよかった
、まさかこんなところで身の引き締まる気持ちになるとは思ってもいなかった。
腹ごなしを済ませて、いよいよ島横断へと走り出す。
答志地区を出てすぐにこの島の神様が祀られているという八幡神社を通りがかった。写真を撮り忘れてしまったのだが、答志島の家々には「八」の字を丸で囲ったマルハチ印が至るところに書かれている、これは八幡神社に由来する家内安全、豊漁祈願を祈るしるしなのだそうだ。
和具地区の浜辺を横切ると、道は上り坂になり、ぐねぐねとした山岳道路に変わっていった。見通しの効かない森が両脇に広がり、確かにいつイノシシが出てもおかしくない雰囲気である。
「出るなよ、出るなよ
」
道路端から少し離れて自転車を漕ぐ。この坂道だ、イノシシに出くわしたらすぐにUターンして下ろう。頭でシミュレーションをしながら上る。角度のキツいカーブを曲がった時だ。
「うわっー!!」
とうとうイノシシが出た!
というわけではなかったのだが、代わりに軽トラックがすごい勢いで曲がってきた。ブゥーン! と風切り音を立てて、僕のスレスレを横切って行く。続けてもう一台、二台と車が猛スピードで走り去っていった。
「あ、危ねー」
危うく轢かれかけるところだった
。
山がちな地形の答志島において、島を貫通させる縦貫トンネルが目下建設されているが、今のところ桃取地区と和具・答志地区を結ぶ道路はこの道しかない。答志島スカイラインなんて大層な名前がついているが、ただの山道である。山道とはいえ島唯一の縦貫道だから交通量が多いのは当たり前で、ここで気をつけなければならないのはイノシシだけではなかったのだ。
というよりも。
「交通事故のほうが遥かに怖いわ!」
そういうわけで僕は大人しく道路端を走ることにした。
山道の途中、「レイフィールド」と書かれた看板があり、小径が森の中に延びていた。食堂で教えてもらった展望台はここのことだろうか? 少し立ち寄ってみることにした。
三、四分ほど森の中を歩くと開けた場所に出て、そこにデッキハウスがあった。まだ木材の匂いが残る、完成して間もないと思われるそこからは伊勢湾の島々や志摩半島が一望できた。反対側に目をやれば神島や伊良湖岬まではっきり見通せる。
デッキハウスには「太陽の道と答志島」という題名の説明書きがあった。解説によると答志島は二つの太陽の道(レイライン)が交わる場所なのだそうだ。
一つ。答志島の位置する北緯三十四度三十二分線上には、東は神島の八代神社から、西は淡路島の伊勢久留麻神社までが一直線に並び、間には天照大御神に仕えた斎王の住まい斎宮跡を始めとして相当数の太陽信仰の遺跡や神社が存在しているらしい。そして春分・秋分の日はこの線上に太陽が上り、沈む。
二つ。太陽神の天照大神を祀った伊勢神宮と、古くから信仰の山であった富士山に直線を引くと、その線もまた答志島を通り、また、夏至と冬至の日の入り日の出の方向と重なるのだそうだ。
二つの太陽の道が交わる答志島。真相のほどは解明されていない眉唾物の伝説ではあるが、しかしこれで確かに分かったことがあった。
それは、神島は伊勢国を擁する三重県側に連なる正当な理由があるということ。神島の八代神社では毎年元旦にゲーター祭という神事がある。グミの枝を丸めて作った輪を竹で空高く突き上げるこの祭りの輪は、太陽を模したものである。神島は間違いなく太陽信仰の文化や歴史を受け継いでいるのだ。
伝統の中に秘められた深い土地と土地の繋がり。神島は明治の廃藩置県以前も鳥羽藩の領土であり、古くからずっと志摩半島の方向を向いていた。そこには納得できる理由があった。
今回の旅の中で度々感じていた、なぜ愛知県の鼻先に位置する神島が三重県だったのか、という疑問がここで氷解した。
再び自転車に跨がり、山道を登って行くと頂上に差し掛かり、それから緩い下り坂が桃取地区まで続いていった。時代に取り残された漁師町といった風の桃取地区は、うらぶれた雰囲気でこの陽気に関わらず閑散としていた。港で鳥羽行の船の時間を確認すると、あと三十分。自転車を梱包するのにちょうどいい空き時間だった。
ここまでやって来れば鳥羽はもう目の前である。
年季の入った定期船に揺られると間もなく、佐田浜港に到着。これで今回の三河湾・伊勢湾の旅は終了である。一時はどうなることかと思ったけれど、なんとか無事周ってこられた。
しかし、安堵したのもつかの間、船を降りるときにまたもやトラブルが起きてしまった。
昨夕、一度鳥羽にやってきた時に僕は鳥羽~神島間の島々を自由に行き来できる周遊チケットを買っていたのだけれど、チケット回収のお兄さんによれば答志島発の船でも桃取港からの船だけは適用外なのだそうだ。僕は昔から詰めが甘い。
ところが、仕方がないから、というか当たり前なのだから差額を支払おうとすると、「今回は仕方がないんで。また次乗るときはちゃんとチケット買ってくださいね」と見逃してくれた。
僕のような旅行者の「次」がいつになるのか、そんなことは彼も百も承知だっただろうけれど、そこは彼の優しさだと思いありがたく受け取ることにした。ともかくありがとう。
鳥羽駅から名古屋駅までは快速電車で二時間の道のりだ。
今時、券売機もないという珍しいから駅から電車に乗り込み、腰を下ろすと僕はもう一度改めて、なんとか周ってこられたと自分に言い聞かせた。ぐったりと心地よい疲れが体を湧き上がってくる。
乗り込んだ車両のそこが有料の指定席だと分かったのは車掌が通りがかったときだ。「すみません、間違えてました!」と僕は慌てて隣の車両へと移動した。やっぱり、詰めが甘いのかもしれない。
(次週からは瀬戸内海の島の旅をお送りします)