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江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その4~

2016年06月22日

石巻から奥松島最大の島・宮古島へは約25kmとちょうどいい距離だったので自走していくことにした。沖縄の先島諸島にも宮古島という同じ漢字の島があるが、こちらでは「みやとじま」と読む。
以前は、川に流された砂が堆積し、本土と陸続きだった陸繋島だが、1960年代に砂州開削工事により本土と分離し、今は橋で繋がれている。
島に入ってすぐにある大高森の風景は松島四大観の一つ「壮観」と呼ばれていて、山頂からは文字通りの壮大な眺望が広がっている。

壮観の景色を作り上げているのは、昨日まで旅していた浦戸諸島だ。寒風沢島や野々島が見え、朴島の菜の花畑もはっきりと認めることができた。氷河期の時代には、宮古島も浦戸諸島も一つの島だったそうだが、縄文時代の頃に海水が流れ込み、海面が上昇した結果、独立した島になったという。

大高森から下りて、浦戸諸島が見えた方に自転車を走らせてみると、鰐ヶ渕水道に出た。対岸は寒風沢島である。一昨日の僕は、向こう側に立っていた。しかし僅か80mの水道で区切られた島と島の間に航路は存在せず、松島湾をぐるりと回り込んで塩釜から船に乗らなければ向こうには渡れない。だから僕は、手の届きそうなところにある浦戸の島々に親しみを覚えつつも、そこは気軽には行けない遠い場所のように感じた。

かつては地続きだった島々も、浦戸諸島と宮古島では様子が全く異なっている。一番の違いは走っている車だろう。あっちでは軽トラック以外ほとんど見かけなかったけれど、こっちでは乗用車からミニバン、大型トラックと何でもござれだ。少しだが、飲食店や商店も見かける。僅かだけれど、あちらとこちらを分かつ決定的な違い。かたちの上では島であっても、本土から橋によって人やモノが不自由なく行き来する宮古島は、僕の気持ちの捉え方としては島ではないように感じた。島にはやはり、一本筋の通った孤高さが欲しいのだ。

島はあちこちで護岸工事が行われ、浜という浜がコンクリートで隔てられようとしていた。東部にある室浜地区の浜辺には、この島出身の若宮丸漂流民・太十郎(多十郎)の墓があると手元の古い地図には印されていたが、その場所も今ではコンクリートで埋まってしまっていた。

室浜地区の外れの見通しのよい丘の上に、「儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑」が立ててあった。
オロシヤとはロシアのことを指し示す言葉だ。むかしの大和言葉には漢語やヨーロッパ諸語からの借用語を除いて、語頭にRで始まる単語は存在せず、オロシヤと表記したのだそう(少し話は逸れるが、言語的に近い関係にあるモンゴル語でもロシアのことをオロスと呼ぶ。中国の内モンゴルや東北地方に住むロシア系少数民族もオロス族といい、満州語から取ったとされているが、満州語も語頭にRがつかない傾向がある)。

記念碑を訪れる人はほとんどいないのか、小径は草がぼうぼうに生え、奥の竹林に至ってはほぼ密林のようだった。記念碑が作成された年は昭和61年と刻まれている。それ以前にここに記念碑があったのかは定かではなかったけれど、寒風沢島での宿の親父さんの話を振り返ってみれば、恐らく若宮丸漂流民に焦点があたったのはここ十数年来の話で、以前は何もなかったと推測される。
日本人初となった漂流民たちの世界一周はほとんど評価されていない。彼らより少し先の時代に同じようにロシアに漂流し、帰国の許可を得るためにサンクトペテルブルグとシベリアを往復した伊勢国の大黒屋光太夫がいるが、彼とこの漂流民の間では評価のされ方が全く異なっている。それは船頭だった光太夫が漢字の読み書きができるのに加え、現地での記録を克明に残し、記憶力にも優れていたからとされている。水主であった漂流民たちは感じの読み書きが不得意で記録に乏しく、両者に接した大槻玄沢によって教養に欠けると評されてしまったのだ。

13年に及ぶ漂流生活を続けて帰国できたのは津太夫、太十郎、儀兵衛、左平の僅かに四名。彼らが幸せに帰国できたかというと、そうではなかった。
ロシア側も単なる親切で漂流民を送り届けたのではなく彼らを利用して、江戸幕府との通商が真の目的だった。鎖国を続ける日本にとっても漂流民はやっかいな存在だったのである。結局、彼らは長崎の沖合で半年も停滞を強いられ、その間に太十郎は突然、剃刀で舌を切り自殺未遂を起こした。一命は取り留めたものの、以後満足に言葉を話すことができなくなったそうだ。望み続けていた故国に厄介者扱いをされてしまったのだから、乱心するのも無理はないだろう。
記念碑に記された昭和61年とは漂流民が帰国して約180年後のことだ。松島の複雑な海岸線が終わり、遥かなる太平洋を一望できる場所に立っている。
なんとも言えない違和感をあった。それは長い間、忘れ去られた彼らが突然、島おこしの一環として担ぎ挙げられたような違和感だ。海に流されて計らずしも世界一周をすることになり、疎まれるように帰国した太十郎や儀兵衛がこれ以上海を望んだだろうかと思ってしまう。海にも時代にも翻弄された漂流民だったから、そっと静かな場所に記念碑をおいてあげてもいいのではないだろうか。

室浜地区の入口へ戻ってくると、「多十郎墓地後」と書かれた看板を発見した。探していたお墓はここにあったのか、看板を眺めていると「門前地区の観音寺に移転」との案内文が添えられている。別な場所に移ったようだ。僕はそのお寺を訪ねてみることにした。
多十郎の墓は境内に入ってすぐのところに祀られていた。もう200年も風雨にさらされてきたはずだったが、戒名が読めるぐらいはっきり文字が残っている。隣には思いがけず儀兵衛の墓もあった。一緒に立つ真新しい墓石には「日本最初の世界一周者の墓碑」の説明書きがある。なんだか大先輩に挨拶に来ているような気分になった。

そこへ寺の住職がやって来た。
「こんな山の奥までよくお越しになりましたねぇ」
「太十郎のお墓がここにあると知ったものですから。浜辺にあると思ったらここにあったんですね」
「三回移転したんですよ」
聞けばどうやらやはり最初に訪ねた浜辺から、地区の入口に移り、そしてここに移転してきたのだという。
「儀兵衛のお墓もあるとは思いませんでした」
「太十郎一人では寂しいでしょうから私が立てたお墓なんですよ、ほら」
そう言って儀兵衛の墓石の裏に刻まれた平成の年号を示してみせた。
「以前、学芸員の方も訪ねてきましてね、年号を入れておかないと、いつか本物のお墓と間違える可能性があるから入れてくださいって言われたので彫ったんです」
住職は笑ってみせた。さっき訪れた記念碑には違和感を抱いた僕だったけれど、住職の穏やかな笑みをみて安心した。ここからはもう海は見えない。ここならば彼らも安らかに眠ることができるだろう。
それから「たまにお墓参りに来る人もいるんですか?」と尋ねてみると、返ってきた答えに僕は驚いてしまった。
「ええ、いますよ。この間はロシアからも来たんですよ」
「えっ、それって…」
「若宮丸漂流民の子孫だそうです」
四名しか帰国できなかった漂流民だが、他の全員が道半ばで力尽きたわけではなく、キリスト教に改宗し、ロシアに残った者も多くいる。数年滞在したイルクーツクでは帰国を諦めない者と改宗を決意した者で派閥も分かれたのだという。特に改宗組の中でロシア語の才能があった善六とは激しく仲違いをし、彼は漂流民を日本に送り届けるロシア船にも通訳として同行したが諍いは深まる一方だったという。
それだけに事後200年以上が経過した後に、子孫が墓参りにやって来ていたことは、時代に流され続けてきた漂流民に対する僕の複雑な胸のつかえの一つが取れたような気がした。

帰り道、少し時間があったので大森山の近くにある縄文村資料館に立ち寄ってみた。宮古島には縄文時代の貝塚が多数残っていて、多数の遺物が出土している。資料館は縄文時代に関する資料の展示が主だったが、二階へと続く階段の陰にあたる場所にひっそりと場違いなものが展示されていた。
太十郎がアレクサンドル一世から賜ったロシア製の羅紗だった。衣服としての機能をなさないほどにボロボロの羅紗だったが、異国のものと分かるディティールはしっかりと残っている。200年前の空気がそこに押し留められている、そんな気配が立ち込めていた。

改めて強調するが、多くの人が存在に気付かないような隅に展示されているのである。実際に僕も一度は気付かずに素通りしていた。どうして、こんな日陰のような場所に照明もあてずに…と思っていたら、説明書きに「退色を避けるため」と書いてあった。しかし、この扱いこそが結局は漂流民に対する世間の評価なのだと思い知らされた気がした。
歴史にたらればは無用なのかもしれないけれど、もし江戸幕府がロシアの通商に応じていたら、黒船襲来よりもずっと早くに歴史は動き、ひいては今の世界地図すらも変わっていたかもしれない。漂流民は歴史の表舞台に出ていたかもしれないのだ。そう思うとこの羅紗果てしないロマンが詰まっているように感じながらも、現実の評価とが一致しないことにもやもやしたものを感じながら宮古島の旅を締めくくり、松島湾の旅を終えることにした。

(次週からは東海地方の島の旅をお送りします)

江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その3~

2016年06月15日

ザザザザザザザザ…。翌朝は屋根を叩く雨音で目が覚めた。窓の外を見やるとかなりの雨脚で、自転車を漕ぐにはちょっと厳しそうだ。
ただ、僕には今日中に行かなければならない場所があるわけではない。先の予定が詰まっている旅ならば無理をしてでも出発しなければならないが、雨が止まなければここに連泊したってよいのだ。予定は未定で過ごす旅が気楽で好きだ。

朝ご飯をいただいた後、気晴らしに辺りを散策に出かけた。「子宝に恵まれるように」と白粉と口紅を塗った化粧地蔵や六地蔵を見て周っていたらあっという間に桟橋に戻って来てしまった。やはり小さな島なのである。

海岸線を、昨日は行っていない方に歩いてみると堤防が窪んで海水に浸っているところがあった。震災の影響でこの島は地盤沈下が起こったのだという。

桟橋に引き返し、船の待合室に貼られた掲示物をしげしげと眺めていたら興味深いものを発見した。島の周辺地図に小さく記されていた「津田夫生誕の地」という文字。島で全く見かけなかった、日本人で初めて世界一周した男の足跡がようやくこのプレハブ小屋で発見したのである。しかし、その場所を見て「あれっ」と思った。そこは昨日も通っていたが津波の被害で何もなかったはずだ。だが、地図には祠の絵が描かれている。
見落としていたか…とその場所へ行ってみたが、そこにはやはり何もなかった。
朝ご飯の時、宿の親父さんは「津田夫の名前は、最近よぐ聞ぐようになったげど、津田夫のものは何もねぇよ」と言っていたので、元々何も無かったのかもしれない。鎖国していた時代背景を考えてみれば、彼は自身の体験を周囲に話すことは許されなかっただろうし、疎まれていた可能性もある。そういう時代だったのだ。
しかし、普通の住宅も含めて何もないのだ。昨日の晩の女将さんの話によれば、寒風沢集落を襲った津波は向かいの野々島に一度ぶつかったものがだったから、あっちに比べれば被害は少なかった、らしい。だから残った建物もあったそうだが、けれどとても住める状態ではなかったので取り壊されてしまったのだそうだ。
津波は、ここにあったかもしれない先人の足跡や今ここで暮らす生活の足跡もろともすべて飲み込んでしまったのだ。

宿に戻る頃には、雨は降ったり止んだりするようになっていた。恐らく時期に止むだろう。これならば自転車も漕げるだろうと、行けるところまで行ってみることにした。

まずは対岸の野々島へ。この島へも無料の渡し船を利用できる。親父さんと女将さんが桟橋まで来て見送ってくれた。
野々島と寒風沢島の距離は100mぐらいだろうか。お別れとも言えないような距離のお別れだったが、間には寒風沢水道が流れている。だからなのか、船を下りた時は別な島にやって来たという気持ちが湧いてきたし、外川屋は見える距離にあったけれど、簡単には戻れない遠い場所に感じた。

島の見どころの一つになっているツバキが弧を描く照葉樹のトンネルは、この雨で落ちたものも多く、残念ながら見頃はもう過ぎ去っていた。昨日であれば、この道もまた違った印象を受けたことだろう。

野々島の西海岸あたりへとやって来ると、小山のあちこちに横穴の洞穴群が出現する。地元では「ほらあな」から転じて「ぼら」と呼ばれる横穴は、誰がどんな目的で掘ったのかは分かっていない。鎌倉時代末期に野々島を拠点に各国と密貿易し、巨万の富を築いた内海正左衛門が財産を隠したとも言われている。今では地元の人の農作業用具置場だったり、倉庫代わりとなっているが…。

この島に隠されていたのは財だけではなくて、江戸時代には隠れキリシタンも住んでいたそう。熊野神社にはキリシタン仏が祀られている。神仏習合が見られるあたり、島ならではの緩さを感じた。
洞穴群に隠れキリシタン、というキーワードで僕はトルコのカッパドキアを思い出した。まぁあそこみたいにここの横穴に隠れキリシタンが住んでいたわけではないけれど。 そういえば離島を多数擁する長崎県も隠れキリシタンが多かったと聞くが、島というのは格好の隠れ家であり、同時に海運が中心だった時代において世界と結びつく最先端の場所であったのだろう。

野々島桟橋の近くには船の待合室を兼ねた資料館があった。ふらりと立ち寄っただけだったが、そこには思いがけず津田夫ら若宮丸漂流民の世界一周の足跡をまとめたパネルが展示してあった。

漂着した先で彼らを助けたアリュート人の風習、ロシア人商人と共に旅をしたシベリアの生活風土、サンクトペテルブルクでのアレクサンドル一世との謁見、太平洋で出会った原住民のなりなどに思わず見入ってしまった。
もっとも寒風沢島の時と同様、地元の人にとってはあまり興味をそそる話ではないようで、本棚には彼らの口述を大槻玄沢によってまとめられた「環海異聞」も二冊置いてあったが、ほとんど手に取られた様子はなく、新品同様だった。

野々島から浦戸諸島最後の島、桂島へ。 石浜集落には場違いに思える外観の立派な郵便局があった。石浜集落の外れには明治の初めに回漕業や、オットセイやラッコの狩猟で財をなした白石廣造邸跡が残っているが、彼がお金のやり取りをするにあたってこの郵便局を誘致したと言われる。今ではなんとATMもあるようだ。しかし、島でお金を使えるようなところは他の島同様、自動販売機ぐらいなことは浦戸諸島が世界と繋がる最先端から、今では世界に取り残されかけた僻地へと変わっていった時代の流れを物語る。

この頃になると再び雨が降り出してきた。なかなか天気が読めないものである。雨に急かされるようにして島のもう一つの集落である桂島集落を目指した。

通りがかった砂浜はかつてアサリ取りがさかんで、まさに今の時期は多くの潮干狩り客で賑わったそうだが、今では波に捻じ曲げられた欄干と、倒された柱が目立つ寂し気なビーチになってしまっていた。

桂島集落の桟橋に到着したのは14時15分頃だった。これで一通り浦戸諸島を周ったことになる。この後の予定は決めていなかったが、旅の最後には宮古島を周るつもりだったので、今日中に宮古島へ渡って、明日ゆっくり周ることにした。ちょうどあと15分ほどで本土へと戻る定期船がやってくる。
自転車のハンドルとサドルを外して、折り畳んでスーツケースへしまう。5分とかからず仕舞えてしまうから、交通機関に乗り遅れる心配もない。トレーラーを外さないでおけば、交通機関を下りた瞬間にすぐ自転車と接続して走り出せる。なんて便利な乗り物だろう。僕はどこにでも行けてしまう魔法を使えるような気分になった。
ところが、誤算だったのは宮古島の宿が空いてないと言われたことだ。どこへ電話をしても「ない」と即答。そりゃあゴールデンウィーク真っ只中に予約もなしで旅している僕が悪いのかもしれないし、もしかしたら一人のために部屋を用意して、夕食を準備するのは割に合わないと断られたのかもしれない。いずれにせよ、どこにでも行ける魔法を手に入れたとしても、僕のような行き当たりばったりの旅は日本ではなかなか難しいのであった。
困ったなぁと悩んだ末に、石巻に行くことにした。もともと石巻にも宮古島の帰りに寄るつもりだったので順番を変更したのだ。幸いにもビジネスホテルなら部屋が空いているとのことだった。そんなわけで島を旅するはずの「島旅」は二日目にしてあっさりと挫けてしまったわけだが、そこはご容赦いただきたい。ただ、どこにでも行ける魔法が使えるからこそ、やっぱりこんな風に行き当たりばったりができてしまう。どっちもどっちというわけだ。

昨年復旧した石巻線に乗って石巻へ。こっちの雨はさらにどしゃ降りだった。
傘を差して、スーツケースを曳きながら、駅から10分ほどの禅昌寺へやって来た。寺の参道脇に雨に濡れて黒く染まった碑石が立っている。この碑石こそが僕が石巻にやってきた理由である。
若宮丸遭難供養碑。漂流から七年が経ち、船員はみな死んだのだろうと考えた船主が立てた供養碑だ。実際は船員たちのほとんどがイルクーツクで生きていたわけだが、その当時は誰もそんなこと考えはしなかっただろう。海の向こうに外国があると知っていたとしても、まだまだ遠いパラレルワールドだったのだから、みんな死亡したと考えるのはごく自然の成り行きだと思う。ただし、この碑もいつしか寺の石橋の土台として使われる様になり、平成元年に発見されるまでやはり日の目を見ることはなかったようだ。

ビジネスホテルはいかにも震災特需で作られた感のある急ごしらえの建物だった。見た目は綺麗に整っているように見えるが、壁は薄く、簡素な作りであった。値段が値段だけに文句は言えないのだけれど、島だったらこれも受け入れられたかもしれないなぁと思う。ここには無数の選択肢がありすぎる。従業員は丁寧だったけれど、それ以上もそれ以下もない。すれ違う客とは目が合っても挨拶はない。急速に帰ってくる消費社会。何とも言えない錯誤感を抱きながらベッドへと潜った。
明日こそは宮戸島へ。宮戸島にも若宮丸漂流民の足跡が残っている。

(次週に続く。松島湾の旅は全四回を予定しています)

江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その2~

2016年06月08日

「なんだ、自転車で来たのがぁ」
民宿・外川屋の親父さんはよく日に焼けていて渋みのある、いかにも海の男と行った風体だった。そんな親父さんが開口一番に自転車に興味を示したのだから、僕としては海の男を自転車で釣り上げた気分でおかしい。
サドルに跨って「高いんだべ?」と聞いてくる。
「軽トラ買えちゃうかもですね」と茶化すと親父さんはニヤリと笑った。あっという間に打ち解け完了である。

「どうぞどうぞ、わざわざ来てくれてありがとうございます」
人の良さそうな女将さんがお茶を入れてくれた。電話で受けた印象通りの人だ。こたつに入 ってお茶請けにとカラシナのお浸しを食べながら、一緒にテレビを見た。
なんだかまるで近所の家にちょっと遊びに来ましたといったかんじである。でもこういう素朴な宿は、土地の顔が素直に現れてくるから僕は好きだ。いい方にも悪い方にも振れることがあるが、どんな宿なんだろうと純粋な期待感が湧く。それは旅の大きな楽しみの一つである。だからお仕着せのサービスを与えられるだけで、あとは何にも期待できないような大きなホテルよりも、旅をするときは断然こっちがいい。

「お昼は食べたの?」女将さんに尋ねられた。
「えぇ、まぁ。食堂もないって聞いたので仙台で食べてきました。10時くらいですけど」「10時って、それお昼じゃないべさ。少し赤飯あっからちょっと待ってけさ」と台所へと行ってしまった。おぉ、早速嬉しい事件が発生だ。ありがとうございます。
親父さんがつぶやいた。
「うぢはほれ、母ちゃんがあんなだがらよ、お客さんにはけっこう評判いいんだぞ」
うんうん、そうだろうなぁ、僕もそう思う。宿選びは間違ってなかった、島旅の出だしは上々だぞと思った。

これから朴島(ほおじま)の方に行ってみようかと思っていると話すと、親父さんに「自転車なんかいんねぞ、超ちいせぇんだがら」と一蹴されてしまった。
「超ちいせぇ」という今時の言い回しが耳に残った。ずいぶん若い言葉遣いである。おそらく民宿という場所柄、島外からの客とたくさん話をするからだろう。外の影響を感じさせる。親父さんの言葉は、この宿が島と本土を結ぶ交差点であることを強く窺わせた。
そして僕は「超ちいさくても写真も撮りたいし、とりあえず持っていきます」と親父さんの忠告にまるで耳を傾けない程すでにこの宿に馴染んでいたのであった。

浦戸諸島最奥部の有人島・朴島へは、この寒風沢島から無料の渡し船が出ている。携帯電話で呼び出すと、野々島の待機所から迎えに来てくれる。船はこの渡し船の他に定期船もあるが、有料の上に一日7、8本と便も限られる。営業時間内ならいつでも来てくれる渡し船と比べてどちらが使いやすいかは明白だろう。それでいて無料だというのだから、太っ腹というか商売っ気がないというか。本来は島民の足になるものなのだろうけれど、僕のような旅行者にも開放されているのは有り難いことだし、嬉しいことである。
やってきた渡し船は10人も乗ればいっぱいになりそうな小さな船だったけれど、折り畳み自転車ならば小さく畳んで簡単に載せることができた。

五分ほど航海した先の海には竹竿が組まれ、数十枚の帆立が紐で結ばれていた。これは種牡蠣の養殖場。水中を浮遊するカキの幼生をこの帆立の貝殻に着床させ、稚貝を育てる。平均水深3mの浅く穏やかな海を持つ松島湾は種牡蠣の養殖にぴったりの環境なのだそうだ。間もなく到着した朴島の港には、養殖に使う大量の貝殻が積まれていた。

「超ちいせぇんだがら」と親父さんが言っていた通り、朴島は走り出して2分で道が途切れてしまう程小さな島だった。けれど、この島を探索してみると、寒風沢島とも全く異なる朴島らしさがあちこちに見られて興味深かった。

中心部にある小高い丘にはこの時期、菜の花畑が満開で気持ちいい風景を演出していたのだけれど、この菜の花畑は観賞用ではなくて、伝統野菜の仙台白菜の種を取るための畑である。アブラナ科の白菜はカブやキャベツなど他のアブラナ科植物と交雑しやすい性質があり、本土では純度の高い種を採取するのが難しいのだそう。その点、海に囲まれた島では、花粉を運ぶ昆虫たちの活動が島内に限定されるので安定的に白菜の種を育てることができる。外界から切り離された「島」ならではの好例がここにあった。

また、島のあちこちで見かけるタブの森。本来、暖かい気候を好むこの木がこの地で見られるのは、この島が暖流である黒潮の影響を受ける海洋性気候で、本土よりも温暖だからである。ここから見える距離に本土があるとはいえ、島の植生もやはり本土とは異なっていた。

それにここは、島の名前の由来からして面白い言い伝えが残っているのだ。その昔、仙台藩の軍用金が隠されたという宝島伝説がここにはあって、宝島(ほうじま)と呼んでいたのだが、宝を隠すために「宝」を「朴」にあて変えたとも言われている。他にも鳳凰が棲んでいたから鳳島、あるいは平安時代に通信用の烽火(のろし)をあげたから烽島といった、名前にちなんだ言い伝えが残っている。ウソかマコトか分からない謎めいた昔話に思いを馳せられるのも島のいいところなのである。

一時間ほどで島を周り尽し、そろそろ渡し船が終わる時間だったので、寒風沢島へ戻ろうと船に電話をかけた。すると「今?」と歯切れの悪い対応をされてしまったのだが、すぐにその理由が分かった。
種牡蠣の養殖場の向こうから小さな船と、中型の船がこちらにやってくるのが見えた。定期船も同じ時間だったのだ。もちろん定期船も寒風沢島へ行く。あちゃあ、悪いことをしてしまったな、と渡し船のおじさんにぺこりと頭を下げて乗り込んだ。
おじさんには申し訳なかったが、だがしかし、自由に利用できる渡し船と、定刻通りきちんと運航される定期船が、同じ航路で就航されている不器用さがここはやっぱり島だと物語るのである。そんなことを「まぁいいか」と迎えに来てくれた優しいおじさんの運転する、小さなチャーター船に揺られながら思った。

「釣らねぇど、晩飯のおかずはねぇがらなぁ」
夕食までまだ時間があり、少し持て余していたところで親父さんに釣りに誘われた。おかずはないなんて冗談だろうが、親父さんにはっぱをかけられながら、糸を垂れる。
工事の作業員も引き上げ、定期船も終わった夕方の海はとても静かだった。ちゃぷちゃぷとかろうじて打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
するとすぐに「ぴくっ」とアタリがあった。おかずがかかった。ところが魚影が水面に見えたところでうまく逃げられてしまった。悔しがる僕の様子を見て「逃がした魚は大きかった、なんてこどになんねどいいんだげどなぁ」と親父さんはからかった。

「釣れてますか?」
しばらくすると若い男が二人と、おじさんが一人やってきた。同じ宿の客だそうだ。彼らも時間を持て余してしまったらしい。桟橋の上で男五人が糸を垂れた。
竿先を眺めながら世間話をした。彼らは東京で働く大阪と高知の人間だそうだ。若い二人は僕と同い年だった。ちょうど宿の親父さんの弟が連休ということで島に帰省していていたのだが、彼の同僚だと言っていた。
娯楽もなく、船も終わったこの島で、島外の人間が行ける場所はこの桟橋ぐらいしかないのかもしれない。取り留めのない世間話をしながら、島という共同体で明日までの時間を一緒に過ごす。あたりには昼間よりも強い閉鎖感が降りてきているのが分かる。けれど居心地は案外悪くない。この不思議な閉鎖感があるから、ふだん触れ合うきっかけがない人間と話すきっかけが生まれる。それもなかなかいいじゃないか。

しかし、みんなでせっせと竿を振るも水面はいつまで経っても穏やかなままだった。ときどき根掛かりして海藻がひっかかる程度である。結局この日の釣果は、若い男が日暮れ前に釣り上げた、ちいさなちいさなアイナメが一匹だった。
「やーっぱし逃がした魚は大きがったなぁ」
ドッとした笑い声が静まり返った水面に吸い込まれた。

しかし「今晩のおかず」が釣れなかったにも関わらず、夕飯は素晴らしかった。茎わかめやナマコにシラウオ、マグロ、アイナメにフグ、それにエビやタラの芽の天ぷらなど海のもの中心にご馳走が並んだ。僕一人分で、である。聞けばマグロを除いて全部寒風沢島産だそうだ。お米や海苔のみそ汁もそう。

お腹いっぱいの晩餐を堪能し、ビールを飲んでいると、親父さんがさっき本土で弟が買ってきてくれたという週刊誌を見せてくれた。開かれて渡されたページには「連休の島旅特集」という企画で寒風沢島のこの宿のことが紹介されていた。懇意の間柄の、たびたび遊びにくるというライターが書いたものだそうだ。
そこには「米も野菜も魚も全て自給出来る豊かな寒風沢島は鎖国して独立すら可能な島」といった風に書かれていた。
独立したら、島では作っていないこのビールは輸入価格になってしまうじゃないか!と僕は密かに心配したが、でも、そうだなぁと確かに僕も思う。
だって「今晩のおかず」がなくても、夕食はあんなにも豪勢だったのだから。

(次週に続く。松島湾の旅は全四回を予定しています)

江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その1~

2016年06月01日

ターコイズブルーや群青の海、穏やかにさざめく波の音、あるいは寂寥とした断崖に佇む灯台。「島」から連想する情景は人それぞれにあることだろう。もしかしたら、ひどい船酔いにも関わらず脱出不可能な船内で、ただただ横になるしか出来ない時に低くうなる「ドドド…」というエンジン音が思い出される人もいるかもしれない。…まぁこれは僕のことだけれど。
しかし、海も波も灯台も、それに船酔いも、それらはあくまで「島」をイメージさせる数ある手掛かりの一つにしか過ぎないと思う。
じゃあ何が島を島たらしめているのだろうか。
そこが「島」であるかどうかを分ける大きな境目とは、「外界から切り離された遊離感や隔絶感」なのではないか。今では橋や埋め立てよって物理的にも大陸や本土と繋がる島も増えてきた。それによって生活様式や伝統、植生なども変わってしまい、島であって島でないようなところもあるだろう。
だからこそ、個人の感覚に依るとはいえ、あちら側とこちら側に分け隔てられているという感覚の有無が「島」という存在を際立たせるのではないか。
今回の島旅は、始めからそれを強く感じさせるものとなった。

宮城県の松島湾に浮かぶ浦戸諸島の寒風沢島に島旅の第一歩を定めることにした。江戸へ向かう廻米船の港として栄え、幕末には日本初の西洋式軍艦が建造された寒風沢島には、あれこれ歴史があるようだったが、僕が最も興味を惹かれたことは、この島が日本人で初めて世界一周を果たした津太夫という人物の出身だったことだ。それは本人が望んだわけではなくて、船の漂流により、図らずしも達成されたという一面があったが、僕自身も世界を旅してきたこともあり、これから日本の島々を旅する一歩目として、この島は興味深く思えた。近くには他の船乗りの出身の島もあるので、ここを起点に近隣の島々を巡りつつ、彼らの辿った歴史も紹介していきたいと思う。

もう既にゴールデンウィークが始まっていたこともあり、初日ぐらいは宿を予約しようと島に二軒ある民宿のうちの一軒に電話をかけた。
「はい、もしもし」
「外川屋さんですか?」
「はい、そうですよ」
「部屋の空きを教えてもらいたいのですが、明日は空いてますか? 大人一名です」
「あぁ、はいはい、空いてますよ。いつでもいいので来てくださいね」
ここでいきなりガチャンと電話が切られそうになった。
「あの!えっと、名前と電話番号お伝えした方がいいですよね?」
「あぁ、そういえばそうですねぇ。じゃあお願いします」
「伊藤篤史と申します。電話番号は090…」
「はいはい、伊藤さんね。お待ちしてますからいつでもどうぞ」
「………」
あまりにもアッサリと事が進み過ぎて調子の狂うやり取りであった。まるで商売じみた感じがしなくて、むしろ親戚の家に行く前の電話のようだ。たぶん電話番号なんてメモも取っていないだろう。連休なのに混んでいないのだろうか?
しばらくポカンとなった僕だったが、だが次第に気持ちが高揚し出した。
電話口から伝わってきた、こちらとは全く違う雰囲気や時間の流れ。
そう。島に行く前から、島が始まっていたのだった。

松島湾の玄関口、マリンゲート塩釜は大型連休が始まったこともあって、観光客で賑わっていた。桟橋に停泊する二隻の松島湾遊覧船。その奥に停まる一艘の船。僕の向かう浦戸諸島行きのものだ。船の単位が変わったのは二隻の船と比べて、あまりにも生活感のある小さな船だったからである。

定刻通りに船は出発し、大小の島々が沖合に浮かぶ松島の海を進んだ。僕を除いて地元民しか乗っていない船は、海苔養殖の竹棒が無数に浮かぶ海の花道を進み、桂島、野々島、もう一度桂島に寄って、寒風沢島へと到着。寒風沢島で下りたのは僕だけで、ほとんどは桂島と野々島で下りていた。

待合室でスーツケースを広げ、自転車を組み立てていると、おじいさんがやって来た。
「パンクがい?」
「あ、いや今これから自転車でこの島を走ろうと思ってるんです」
僕は内心、やっぱり自転車を持ってきてよかったと思った。世界旅でもそうだったが、自転車は外の人間を示す格好のアイコンになる。すると、自転車をきっかけに会話が生まれる。自転車は移動の手段のみならず、コミュニケーションのツールとしても有用だということを身に染みて感じていたからだ。車も存在しない小さな島にだって自転車ならば持ち込める。旅のツールとして言う事なしの存在なのである。
組み上がった自転車の後ろにスーツケースを取り付けると、おじいさんは「はぁぁ」と感嘆の声を漏らし、「便利だない」と言って静かに笑っていた。僕は「出だしは順調」と心の中でガッツポーズをした。

予約した民宿は桟橋の目の前にある。「いつでもどうぞ」と言われていたけれど、まだ12時という時間もあり、妙な遠慮が生まれてしまい、先に島を一周してからチェックインすることにした。
民宿の前には自動販売機があった。ここと、その先にあったもう一つの自動販売機だけが、スーパーも商店もない島に存在するたった二つの「消費社会」である。僕は自動販売機に背を向けて島を走り出した。

穏やかにたゆたう松島の海。その様子からは想像がつかないが、この島も2011年の震災で津波による被害を受けた。特に被害が酷かったのが桟橋から南の地域で、このあたりの建物は跡形もなく消え、瓦礫だけが高く積まれていた。アスファルトは剥がれ、捻じ曲げられたカーブミラーは海の方を向いている。

隅に西洋式軍艦「開成丸」造船を記念した古い石碑が立っていた。

すぐ裏手に日和山という小高い山があるので登ってみた。海に突き出たところに十二支方位石が置かれていた。その対面に縄で縛られたしばり地蔵が座っている。かつて港が栄えた頃には、この島には遊郭があって、遊女たちは船乗りたちの船出を止めるべく、地蔵に逆風祈願をしたと言われている。方位石とは本来、天候予測に使われるものだが、彼女たちはこの山に登る度、方位石の先の雲行きや風向きに一喜一憂し、荒天を地蔵に祈念していたのだろうか。眼下に見下ろす島は近年の面影すらなかったが、少しだけ往時に思いを馳せてみた。

草の生えた小径、森のにおいの濃厚な道を過ぎると、小さな神社があった。そこからは足元に砂浜を見下ろすことが出来た。

ここで島に来てから気になっていた一つの疑問が解けた。島に来てからというもの、ずっと「ゴゴゴ」という重低音が鳴り渡っていて、僕はそれを、近くを航行する船の音だと思っていた。だが、実際は砂浜で防潮堤を作る工事の音だということがこの場所に立って分かった。
手元の地図には「波静かで、のんびりと過ごせる砂浜」と書いてあったが、まるで面影はない。それにここは桟橋のあった場所とは反対側にあたる場所である。僕の知っている津波と言えば沖合から一方向に打ち寄せるものだ。しかし、360度すべてが海に囲まれる島では、全方位から津波が押し寄せる―――。その事を目の当たりにして戦慄が走った。

砂浜に沿って自転車を走らせると、田園地帯に出た。田園といっても海に面したところの大部分は暗い色をした土が一面にむき出しになっていた。塩害を受けた部分だろう。
近くで畑仕事をしているおばさんがいて、僕に話しかけてくれた。
「今はそういう自転車あんだなぃ」
やっぱり自転車が会話の入口になっている。
「そうなんですよ、船に乗るときはこのケースに仕舞えちゃうし、いいですよ」
おばさんとあれこれ少し世間話をした後、聞いてみた。
「あの、この辺りもやっぱり津波でやられちゃったんですか?」
「そうだっちゃ」
「じゃあ塩かぶっちゃったんですね」
「んだ。うぢの畑はあだらしい土持ってきてもらったんだっちゃ」
「そうですか…」
自分から訊ねておいて、二の句が継げなくなっていた。そんな僕を察したのか、おばさんは向かいの丘を指した。
「あそごの上がら見っと、綺麗だよぉ」

おばさんに教えてもらった方に僕は走り出した。こっちの方の田んぼは除塩が完了したのか、それとも地形に守られて塩害を免れたのか、問題はなさそうだ。あぜ道が一直線になっていて気持ちのよい道。

潤沢な農業用水があるわけではない寒風沢島の米作りは雨水だけで作られている。冬も田んぼの水は抜かずにそれを利用する。水面に反射する太陽がまぶしいくらいだ。至る所に防潮堤が作られ、景観が変わりつつある島に残された数少ない原風景。丘から見下ろす田園は美しかった。

そこから1kmほど行ったところが島の東外れだった。こんな島外れでも、作業員がせっせと島に津波対策を施している。
50m強ぐらいの対岸に宮古島が見える。この奥松島最大の島は後日訪れる予定なのだが、寒風沢島と宮古島には定期船がない。以前はあったようだが、今では、いったん塩釜に戻ってぐるりと松島湾を周らないと行けない島になっている。泳いでも渡れそうな鰐ヶ渕水道は海面がゆらゆらと揺れるだけで穏和そのものである。ここを津波が襲ったとはやっぱり信じ難かった。

そろそろいい時間だったので、宿に向かうことにした。一車線の細い道路では、工事車両とひっきりなしにすれ違う。右の浜も左の浜も護岸工事が行われている。
震災ではこの島の住人も3名亡くなったそうだ。今後の津波被害を無くす為にも対策は必要だろう。そう思う一方で人工的なものをズカズカと大量に作る胸のつかえのようなものも感じていた。この島での暮らしのためには仕方のないことかもしれないけれど、急速に昔からの景観が失われていく。愛着の持てる土地でなければ人はやってこない。通りすがりの僕が言う事ではないかもしれないが、長い目で見れば当座の生活のために、ここまでやる必要があるのだろうか。
僕が美しいと感じた、天水のみで作られる島の田園地帯のように、もっと上手に自然と付き合っていく方法はないものだろうか。しかし、その田園地帯も津波対策を施さなければ波のひとさらいで失われてしまう…。
答えのない問答を続けながら再び田園地帯を通りがかる。島には相変わらず工事の音が鳴り響いている。

(次週に続く。松島湾の旅は全四回を予定しています)