各国・各地で 風のしまたび

江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その2~

2016年06月08日

「なんだ、自転車で来たのがぁ」
民宿・外川屋の親父さんはよく日に焼けていて渋みのある、いかにも海の男と行った風体だった。そんな親父さんが開口一番に自転車に興味を示したのだから、僕としては海の男を自転車で釣り上げた気分でおかしい。
サドルに跨って「高いんだべ?」と聞いてくる。
「軽トラ買えちゃうかもですね」と茶化すと親父さんはニヤリと笑った。あっという間に打ち解け完了である。

「どうぞどうぞ、わざわざ来てくれてありがとうございます」
人の良さそうな女将さんがお茶を入れてくれた。電話で受けた印象通りの人だ。こたつに入 ってお茶請けにとカラシナのお浸しを食べながら、一緒にテレビを見た。
なんだかまるで近所の家にちょっと遊びに来ましたといったかんじである。でもこういう素朴な宿は、土地の顔が素直に現れてくるから僕は好きだ。いい方にも悪い方にも振れることがあるが、どんな宿なんだろうと純粋な期待感が湧く。それは旅の大きな楽しみの一つである。だからお仕着せのサービスを与えられるだけで、あとは何にも期待できないような大きなホテルよりも、旅をするときは断然こっちがいい。

「お昼は食べたの?」女将さんに尋ねられた。
「えぇ、まぁ。食堂もないって聞いたので仙台で食べてきました。10時くらいですけど」「10時って、それお昼じゃないべさ。少し赤飯あっからちょっと待ってけさ」と台所へと行ってしまった。おぉ、早速嬉しい事件が発生だ。ありがとうございます。
親父さんがつぶやいた。
「うぢはほれ、母ちゃんがあんなだがらよ、お客さんにはけっこう評判いいんだぞ」
うんうん、そうだろうなぁ、僕もそう思う。宿選びは間違ってなかった、島旅の出だしは上々だぞと思った。

これから朴島(ほおじま)の方に行ってみようかと思っていると話すと、親父さんに「自転車なんかいんねぞ、超ちいせぇんだがら」と一蹴されてしまった。
「超ちいせぇ」という今時の言い回しが耳に残った。ずいぶん若い言葉遣いである。おそらく民宿という場所柄、島外からの客とたくさん話をするからだろう。外の影響を感じさせる。親父さんの言葉は、この宿が島と本土を結ぶ交差点であることを強く窺わせた。
そして僕は「超ちいさくても写真も撮りたいし、とりあえず持っていきます」と親父さんの忠告にまるで耳を傾けない程すでにこの宿に馴染んでいたのであった。

浦戸諸島最奥部の有人島・朴島へは、この寒風沢島から無料の渡し船が出ている。携帯電話で呼び出すと、野々島の待機所から迎えに来てくれる。船はこの渡し船の他に定期船もあるが、有料の上に一日7、8本と便も限られる。営業時間内ならいつでも来てくれる渡し船と比べてどちらが使いやすいかは明白だろう。それでいて無料だというのだから、太っ腹というか商売っ気がないというか。本来は島民の足になるものなのだろうけれど、僕のような旅行者にも開放されているのは有り難いことだし、嬉しいことである。
やってきた渡し船は10人も乗ればいっぱいになりそうな小さな船だったけれど、折り畳み自転車ならば小さく畳んで簡単に載せることができた。

五分ほど航海した先の海には竹竿が組まれ、数十枚の帆立が紐で結ばれていた。これは種牡蠣の養殖場。水中を浮遊するカキの幼生をこの帆立の貝殻に着床させ、稚貝を育てる。平均水深3mの浅く穏やかな海を持つ松島湾は種牡蠣の養殖にぴったりの環境なのだそうだ。間もなく到着した朴島の港には、養殖に使う大量の貝殻が積まれていた。

「超ちいせぇんだがら」と親父さんが言っていた通り、朴島は走り出して2分で道が途切れてしまう程小さな島だった。けれど、この島を探索してみると、寒風沢島とも全く異なる朴島らしさがあちこちに見られて興味深かった。

中心部にある小高い丘にはこの時期、菜の花畑が満開で気持ちいい風景を演出していたのだけれど、この菜の花畑は観賞用ではなくて、伝統野菜の仙台白菜の種を取るための畑である。アブラナ科の白菜はカブやキャベツなど他のアブラナ科植物と交雑しやすい性質があり、本土では純度の高い種を採取するのが難しいのだそう。その点、海に囲まれた島では、花粉を運ぶ昆虫たちの活動が島内に限定されるので安定的に白菜の種を育てることができる。外界から切り離された「島」ならではの好例がここにあった。

また、島のあちこちで見かけるタブの森。本来、暖かい気候を好むこの木がこの地で見られるのは、この島が暖流である黒潮の影響を受ける海洋性気候で、本土よりも温暖だからである。ここから見える距離に本土があるとはいえ、島の植生もやはり本土とは異なっていた。

それにここは、島の名前の由来からして面白い言い伝えが残っているのだ。その昔、仙台藩の軍用金が隠されたという宝島伝説がここにはあって、宝島(ほうじま)と呼んでいたのだが、宝を隠すために「宝」を「朴」にあて変えたとも言われている。他にも鳳凰が棲んでいたから鳳島、あるいは平安時代に通信用の烽火(のろし)をあげたから烽島といった、名前にちなんだ言い伝えが残っている。ウソかマコトか分からない謎めいた昔話に思いを馳せられるのも島のいいところなのである。

一時間ほどで島を周り尽し、そろそろ渡し船が終わる時間だったので、寒風沢島へ戻ろうと船に電話をかけた。すると「今?」と歯切れの悪い対応をされてしまったのだが、すぐにその理由が分かった。
種牡蠣の養殖場の向こうから小さな船と、中型の船がこちらにやってくるのが見えた。定期船も同じ時間だったのだ。もちろん定期船も寒風沢島へ行く。あちゃあ、悪いことをしてしまったな、と渡し船のおじさんにぺこりと頭を下げて乗り込んだ。
おじさんには申し訳なかったが、だがしかし、自由に利用できる渡し船と、定刻通りきちんと運航される定期船が、同じ航路で就航されている不器用さがここはやっぱり島だと物語るのである。そんなことを「まぁいいか」と迎えに来てくれた優しいおじさんの運転する、小さなチャーター船に揺られながら思った。

「釣らねぇど、晩飯のおかずはねぇがらなぁ」
夕食までまだ時間があり、少し持て余していたところで親父さんに釣りに誘われた。おかずはないなんて冗談だろうが、親父さんにはっぱをかけられながら、糸を垂れる。
工事の作業員も引き上げ、定期船も終わった夕方の海はとても静かだった。ちゃぷちゃぷとかろうじて打ち寄せる波の音だけが聞こえる。
するとすぐに「ぴくっ」とアタリがあった。おかずがかかった。ところが魚影が水面に見えたところでうまく逃げられてしまった。悔しがる僕の様子を見て「逃がした魚は大きかった、なんてこどになんねどいいんだげどなぁ」と親父さんはからかった。

「釣れてますか?」
しばらくすると若い男が二人と、おじさんが一人やってきた。同じ宿の客だそうだ。彼らも時間を持て余してしまったらしい。桟橋の上で男五人が糸を垂れた。
竿先を眺めながら世間話をした。彼らは東京で働く大阪と高知の人間だそうだ。若い二人は僕と同い年だった。ちょうど宿の親父さんの弟が連休ということで島に帰省していていたのだが、彼の同僚だと言っていた。
娯楽もなく、船も終わったこの島で、島外の人間が行ける場所はこの桟橋ぐらいしかないのかもしれない。取り留めのない世間話をしながら、島という共同体で明日までの時間を一緒に過ごす。あたりには昼間よりも強い閉鎖感が降りてきているのが分かる。けれど居心地は案外悪くない。この不思議な閉鎖感があるから、ふだん触れ合うきっかけがない人間と話すきっかけが生まれる。それもなかなかいいじゃないか。

しかし、みんなでせっせと竿を振るも水面はいつまで経っても穏やかなままだった。ときどき根掛かりして海藻がひっかかる程度である。結局この日の釣果は、若い男が日暮れ前に釣り上げた、ちいさなちいさなアイナメが一匹だった。
「やーっぱし逃がした魚は大きがったなぁ」
ドッとした笑い声が静まり返った水面に吸い込まれた。

しかし「今晩のおかず」が釣れなかったにも関わらず、夕飯は素晴らしかった。茎わかめやナマコにシラウオ、マグロ、アイナメにフグ、それにエビやタラの芽の天ぷらなど海のもの中心にご馳走が並んだ。僕一人分で、である。聞けばマグロを除いて全部寒風沢島産だそうだ。お米や海苔のみそ汁もそう。

お腹いっぱいの晩餐を堪能し、ビールを飲んでいると、親父さんがさっき本土で弟が買ってきてくれたという週刊誌を見せてくれた。開かれて渡されたページには「連休の島旅特集」という企画で寒風沢島のこの宿のことが紹介されていた。懇意の間柄の、たびたび遊びにくるというライターが書いたものだそうだ。
そこには「米も野菜も魚も全て自給出来る豊かな寒風沢島は鎖国して独立すら可能な島」といった風に書かれていた。
独立したら、島では作っていないこのビールは輸入価格になってしまうじゃないか!と僕は密かに心配したが、でも、そうだなぁと確かに僕も思う。
だって「今晩のおかず」がなくても、夕食はあんなにも豪勢だったのだから。

(次週に続く。松島湾の旅は全四回を予定しています)

  • プロフィール 元無印良品の店舗スタッフ

最新の記事一覧

カテゴリー一覧