江戸時代に世界一周をした男を訪ねて ~宮城県 松島湾の旅 その4~
石巻から奥松島最大の島・宮古島へは約25kmとちょうどいい距離だったので自走していくことにした。沖縄の先島諸島にも宮古島という同じ漢字の島があるが、こちらでは「みやとじま」と読む。
以前は、川に流された砂が堆積し、本土と陸続きだった陸繋島だが、1960年代に砂州開削工事により本土と分離し、今は橋で繋がれている。
島に入ってすぐにある大高森の風景は松島四大観の一つ「壮観」と呼ばれていて、山頂からは文字通りの壮大な眺望が広がっている。
壮観の景色を作り上げているのは、昨日まで旅していた浦戸諸島だ。寒風沢島や野々島が見え、朴島の菜の花畑もはっきりと認めることができた。氷河期の時代には、宮古島も浦戸諸島も一つの島だったそうだが、縄文時代の頃に海水が流れ込み、海面が上昇した結果、独立した島になったという。
大高森から下りて、浦戸諸島が見えた方に自転車を走らせてみると、鰐ヶ渕水道に出た。対岸は寒風沢島である。一昨日の僕は、向こう側に立っていた。しかし僅か80mの水道で区切られた島と島の間に航路は存在せず、松島湾をぐるりと回り込んで塩釜から船に乗らなければ向こうには渡れない。だから僕は、手の届きそうなところにある浦戸の島々に親しみを覚えつつも、そこは気軽には行けない遠い場所のように感じた。
かつては地続きだった島々も、浦戸諸島と宮古島では様子が全く異なっている。一番の違いは走っている車だろう。あっちでは軽トラック以外ほとんど見かけなかったけれど、こっちでは乗用車からミニバン、大型トラックと何でもござれだ。少しだが、飲食店や商店も見かける。僅かだけれど、あちらとこちらを分かつ決定的な違い。かたちの上では島であっても、本土から橋によって人やモノが不自由なく行き来する宮古島は、僕の気持ちの捉え方としては島ではないように感じた。島にはやはり、一本筋の通った孤高さが欲しいのだ。
島はあちこちで護岸工事が行われ、浜という浜がコンクリートで隔てられようとしていた。東部にある室浜地区の浜辺には、この島出身の若宮丸漂流民・太十郎(多十郎)の墓があると手元の古い地図には印されていたが、その場所も今ではコンクリートで埋まってしまっていた。
室浜地区の外れの見通しのよい丘の上に、「儀兵衛・多十郎オロシヤ漂流記念碑」が立ててあった。
オロシヤとはロシアのことを指し示す言葉だ。むかしの大和言葉には漢語やヨーロッパ諸語からの借用語を除いて、語頭にRで始まる単語は存在せず、オロシヤと表記したのだそう(少し話は逸れるが、言語的に近い関係にあるモンゴル語でもロシアのことをオロスと呼ぶ。中国の内モンゴルや東北地方に住むロシア系少数民族もオロス族といい、満州語から取ったとされているが、満州語も語頭にRがつかない傾向がある)。
記念碑を訪れる人はほとんどいないのか、小径は草がぼうぼうに生え、奥の竹林に至ってはほぼ密林のようだった。記念碑が作成された年は昭和61年と刻まれている。それ以前にここに記念碑があったのかは定かではなかったけれど、寒風沢島での宿の親父さんの話を振り返ってみれば、恐らく若宮丸漂流民に焦点があたったのはここ十数年来の話で、以前は何もなかったと推測される。
日本人初となった漂流民たちの世界一周はほとんど評価されていない。彼らより少し先の時代に同じようにロシアに漂流し、帰国の許可を得るためにサンクトペテルブルグとシベリアを往復した伊勢国の大黒屋光太夫がいるが、彼とこの漂流民の間では評価のされ方が全く異なっている。それは船頭だった光太夫が漢字の読み書きができるのに加え、現地での記録を克明に残し、記憶力にも優れていたからとされている。水主であった漂流民たちは感じの読み書きが不得意で記録に乏しく、両者に接した大槻玄沢によって教養に欠けると評されてしまったのだ。
13年に及ぶ漂流生活を続けて帰国できたのは津太夫、太十郎、儀兵衛、左平の僅かに四名。彼らが幸せに帰国できたかというと、そうではなかった。
ロシア側も単なる親切で漂流民を送り届けたのではなく彼らを利用して、江戸幕府との通商が真の目的だった。鎖国を続ける日本にとっても漂流民はやっかいな存在だったのである。結局、彼らは長崎の沖合で半年も停滞を強いられ、その間に太十郎は突然、剃刀で舌を切り自殺未遂を起こした。一命は取り留めたものの、以後満足に言葉を話すことができなくなったそうだ。望み続けていた故国に厄介者扱いをされてしまったのだから、乱心するのも無理はないだろう。
記念碑に記された昭和61年とは漂流民が帰国して約180年後のことだ。松島の複雑な海岸線が終わり、遥かなる太平洋を一望できる場所に立っている。
なんとも言えない違和感をあった。それは長い間、忘れ去られた彼らが突然、島おこしの一環として担ぎ挙げられたような違和感だ。海に流されて計らずしも世界一周をすることになり、疎まれるように帰国した太十郎や儀兵衛がこれ以上海を望んだだろうかと思ってしまう。海にも時代にも翻弄された漂流民だったから、そっと静かな場所に記念碑をおいてあげてもいいのではないだろうか。
室浜地区の入口へ戻ってくると、「多十郎墓地後」と書かれた看板を発見した。探していたお墓はここにあったのか、看板を眺めていると「門前地区の観音寺に移転」との案内文が添えられている。別な場所に移ったようだ。僕はそのお寺を訪ねてみることにした。
多十郎の墓は境内に入ってすぐのところに祀られていた。もう200年も風雨にさらされてきたはずだったが、戒名が読めるぐらいはっきり文字が残っている。隣には思いがけず儀兵衛の墓もあった。一緒に立つ真新しい墓石には「日本最初の世界一周者の墓碑」の説明書きがある。なんだか大先輩に挨拶に来ているような気分になった。
そこへ寺の住職がやって来た。
「こんな山の奥までよくお越しになりましたねぇ」
「太十郎のお墓がここにあると知ったものですから。浜辺にあると思ったらここにあったんですね」
「三回移転したんですよ」
聞けばどうやらやはり最初に訪ねた浜辺から、地区の入口に移り、そしてここに移転してきたのだという。
「儀兵衛のお墓もあるとは思いませんでした」
「太十郎一人では寂しいでしょうから私が立てたお墓なんですよ、ほら」
そう言って儀兵衛の墓石の裏に刻まれた平成の年号を示してみせた。
「以前、学芸員の方も訪ねてきましてね、年号を入れておかないと、いつか本物のお墓と間違える可能性があるから入れてくださいって言われたので彫ったんです」
住職は笑ってみせた。さっき訪れた記念碑には違和感を抱いた僕だったけれど、住職の穏やかな笑みをみて安心した。ここからはもう海は見えない。ここならば彼らも安らかに眠ることができるだろう。
それから「たまにお墓参りに来る人もいるんですか?」と尋ねてみると、返ってきた答えに僕は驚いてしまった。
「ええ、いますよ。この間はロシアからも来たんですよ」
「えっ、それって
」
「若宮丸漂流民の子孫だそうです」
四名しか帰国できなかった漂流民だが、他の全員が道半ばで力尽きたわけではなく、キリスト教に改宗し、ロシアに残った者も多くいる。数年滞在したイルクーツクでは帰国を諦めない者と改宗を決意した者で派閥も分かれたのだという。特に改宗組の中でロシア語の才能があった善六とは激しく仲違いをし、彼は漂流民を日本に送り届けるロシア船にも通訳として同行したが諍いは深まる一方だったという。
それだけに事後200年以上が経過した後に、子孫が墓参りにやって来ていたことは、時代に流され続けてきた漂流民に対する僕の複雑な胸のつかえの一つが取れたような気がした。
帰り道、少し時間があったので大森山の近くにある縄文村資料館に立ち寄ってみた。宮古島には縄文時代の貝塚が多数残っていて、多数の遺物が出土している。資料館は縄文時代に関する資料の展示が主だったが、二階へと続く階段の陰にあたる場所にひっそりと場違いなものが展示されていた。
太十郎がアレクサンドル一世から賜ったロシア製の羅紗だった。衣服としての機能をなさないほどにボロボロの羅紗だったが、異国のものと分かるディティールはしっかりと残っている。200年前の空気がそこに押し留められている、そんな気配が立ち込めていた。
改めて強調するが、多くの人が存在に気付かないような隅に展示されているのである。実際に僕も一度は気付かずに素通りしていた。どうして、こんな日陰のような場所に照明もあてずに
と思っていたら、説明書きに「退色を避けるため」と書いてあった。しかし、この扱いこそが結局は漂流民に対する世間の評価なのだと思い知らされた気がした。
歴史にたらればは無用なのかもしれないけれど、もし江戸幕府がロシアの通商に応じていたら、黒船襲来よりもずっと早くに歴史は動き、ひいては今の世界地図すらも変わっていたかもしれない。漂流民は歴史の表舞台に出ていたかもしれないのだ。そう思うとこの羅紗果てしないロマンが詰まっているように感じながらも、現実の評価とが一致しないことにもやもやしたものを感じながら宮古島の旅を締めくくり、松島湾の旅を終えることにした。
(次週からは東海地方の島の旅をお送りします)