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大陸に最も近い日本最前線へ 長崎県対馬海峡の旅その3

2016年08月31日

朝、舟橋さんが近くにある烏帽子岳展望台へと連れて行ってくれた。
複雑に入り組むリアス式海岸と幾重に連なる山々は対馬ならではの絶景である。条件が重なればここから韓国の影を望むこともできるそうだ。

「でも、最近はすっかり見えづらくなっちゃいましたね」
原因は大陸から風に乗ってやってくる黄砂とPM2.5の微粒子。対馬の人々にとってこれらは決して遠い海の向こうの話ではなくて喫緊の問題なのだ。大陸の矢面に立つとはこういう側面もある。

対馬の北の果て比田勝地区へは二通りの行き方がある。一つは昨日走った国道382号を北上する道、もう一つは少し引き返したところから海岸沿いの県道を走る道だ。舟橋さんや、つたやのお母さんに話を聞いてみると、どうやらメインルートの国道は山々を突っ切るように延びているので、島を走っている感覚には乏しいらしい。景色を楽しむなら県道の方がおすすめとのことだ。道幅もそれ程変わらず、それなのに交通量も少ない。僕はこの裏街道を行くことにした。

途中まで舟橋さんが車で伴走してくれ、僕の走行写真を撮ってくれた。セルフポートレートは普段、撮ろう撮ろうと思っていても結局手間で撮り損ねていることが多いので心遣いが嬉しい。でも、いつも僕が坂道を必死で登っている先で待ち構えているあたり、この男はけっこう意地が悪いような…。いや、きっとそれは気のせいで、それだけ僕らは打ち解けたということにしておこう。

「比田勝まで? 昨日も見たよ!」
休憩中、ガスの配達をしているおじさんに声を掛けられた。島の縦貫路が二つしかなく、経済の中心が南の厳原と北の比田勝に分かれている対馬では、往来する車は案外同じ車ばかりのようだ。
そんな道を真っ赤なスーツケースを曳いた折りたたみ自転車で走っていれば当然目立つ。でも僕にしてみればそれを狙って真っ赤なスーツケースを選んだ節があるから、作戦通りでもあった。自転車は移動手段であると同時にコミュニケーションの手段でもある。こんな風に島人の意識に食い込んでいけるのがこの自転車の良いところだ。

山を切り拓いたような場所に建つ小さな商業施設で舟橋さんとお別れすることになった。対馬に到着した時から、今の今まで気にかけてくれて本当に有り難い限りだった。
「またいつでも来てくださいね」
僕にとっての記憶に残る土地というのは、目を引くような景勝地や豪華絢爛な夕ご飯にありついた時以上に、その場所に住む人とどれだけ触れ合うことができたかに大きく左右されていると思う。人を通じて土地を感じ、その場所を知っていく、そんなプロセスが土地の記憶を僕に形成してくれる。
「また近いうちに。でも次は、もうちょっと季節を選んで来ますね」

舟橋さんと握手を交わし別れると、すぐにトンネルに差し掛かった。すると、暗闇の向こうから軽トラックが猛然と僕の方に突っ込んできた。ピィーっと勢い良くクラクションを鳴らしながら突撃してきた車の運転手はさっきのガス屋のおじさんだった。
「頑張って!気をつけてー!!」。
こんな狭いトンネルの中でそんな運転をしていたら、いつか事故に合ってしまうぞと余計な心配をしながらも僕は、そのストレートに突き刺さるおじさんの応援に気合を注入されたような気持ちになった。
対馬のたった2本しかない縦貫路。それは走れば走るほど、この島の素顔に迫ることのできる道なのだった。

ところが、そんな意気揚々とした気持ちになって15分も経たない時だった。

バキン!
次に現れたトンネルの中で激しい金属音が鳴ると、ペダルが空回りするようになった。チェーンでも外れてしまったのだろうか? トンネルを抜けるまでは自転車の惰力に任せて進むことにして、トンネルを出たところで確認してみると…
なんとチェーンが切れていた。
「ウソだろ!?」
世界一周の旅でもチェーンが切れたことはなかったのに、こんなところで…。しかも比較的新しいチェーンなのに切れてしまうなんて、いったい対馬の山道はどれだけ険しいというのだ。

そんな理由もあったから、まさかチェーンが切れるとは思ってもおらず、今回はチェーンを繋ぐ工具は持ってきていなかった。しかもここは日本の果ての幹線道路から外れた裏街道。自転車屋なんてまず存在しない。かといって押して比田勝港まで行くにも残り30kmも山道が残っている。抜き差しならない大ピンチが突然降って湧いてきたのだった。

「どうしよう」
悩んだ挙げ句、来た道を引き返すことにした。舟橋さんの話によれば、この先には民家はあっても商店の類はほとんどないと言っていたし、それならばさっき通り過ぎた集落の方が可能性があるように思えた。

キックボードの要領で自転車を蹴り押して2kmほど戻ると、小さな自動車整備工場を発見した。
そこを訪ね、情けない顔で「チェーンが切れちゃって…」と事情を話した。おじさんは直せるとは答えずに何だか進まない表情を浮かべているように見えたが、そそくさと工場の奥の引出しを開けるとチェーンカッターを取り出した。
「おぉ!これなら!」
工具はバイク用のもので、自転車用とは少し勝手が違っていたけれど、炎天下の下、おじさんはあれこれ工夫してなんとかチェーンを繋いでくれた。よかった、自転車が復活した!

「何年も使ってない工具だったから、ちゃんと動くか心配だったけど直って良かったよ」
チェーンの油で手を真っ黒にしたおじさんは汗を拭いながらこの時になって初めて笑った。
「昨日も厳原の方で走ってるのを見かけたし、比田勝まで行くんでしょう? ここで直せなかったらと思うとちょっと緊張しちゃったよぉ」
最初におじさんが険しい顔をしていた理由はこれだったのだ。
隣で一緒に一部始終を眺めていた奥さんも「良かったねぇ」とパチパチ拍手して喜んでくれた。
そればかりか最後には「お代はつけとくから。また来てくれたときでいいよ」と言われてしまった。恩に着ます。ありがとうございます。
ここでも僕は島の人たちに見られていた。チェーン切れのアクシデントはともかく、島人の意識に食い込んだ自転車が旅を進めてくれる、人を結びつけてくれる。僕はこういう旅がしたかったのだった。気がつけば僕にとって対馬はもうすでに随分と記憶に残る島になっている。

おじさんと奥さんに見送られて、再び走り出す。
さっきのトンネルを抜けた先の道端には地蔵様が四体祀られていた。
「そうか、これは地蔵様が見守られていたのかもしれないなぁ」
立ち止まり、何気なく来た道を振り返ると、トンネルの名前が書かれた看板が掲げられていた。「地蔵峠トンネル」という名前だった。
そこから先の道は話通り何もない小さな漁村続きだったので、もう少し先でチェーンが切れていたら、本当に身動きがとれなかったことだろう。その先を案じた地蔵様が敢えてあそこでチェーンを切ってくれたのかもしれない。いや、切ってくれたに違いない。

長閑な空気の漂う裏街道を走り抜け、比田勝港まで残り10kmを切ったあたりで風を感じるようになった。連なる山々に妨げられて動きの少なかった空気が、僅かに海の爽やかさを含み、それから湿度が飛ばされているのを感じた。もうすぐ開けた海に出る、島の先まであと少しだ。

比田勝港に到着したのは午後6時過ぎのことだった。順調、とは行かなかったけれど、充実した旅だった。

港近くのゲストハウスに投宿すると、案内してくれた従業員は韓国人だったし、開いた宿帳に書かれた名前もほとんどがハングル文字だった。シャワーを浴びてあたりを散歩に出かけると、僕と同じように夕涼みの散歩に出歩いているのは韓国人観光客ばかりである。ハングル文字の看板や広告は厳原に比べても格段に増え、日本語よりも目立つ。

景色や建物の形は間違いなく日本のものだったけれど、韓国の影は間違いなく強まっている。対馬はグラデーションの島だと僕は言ったけれど、対馬の島内にもグラデーションが存在していたのだ。

路地を少し入ったところにある食堂に寄った。冷やし中華を頼むと「はいよ、冷麺ね」とおじいさんは復唱した。
「まるで韓国みたいですね」
「この辺じゃ、冷やし中華のことを冷麺って言うんだよ。そういう兄ちゃんは韓国から来たのかい?」
「いいえ、福島から来ました」
「ふ、福島っ!? これまた遠いところから来たなぁ」
ここに暮らす人々にとって東北は韓国よりもずっと遠い異国の地なのだ。
テレビに流れるローカルニュースでは明日の天気予報が流れていた。それをぼんやりと見ていたお客さんがボヤいた。
「まったくこんなところで長崎の天気をやっても意味がないよなぁ」

翌日は早起きして、北の外れにある展望台へと自転車を走らせた。韓国式の建物からは釜山の街並みを見通すことができる。
しかし、前の日の烏帽子岳展望台と同じように空にはもやがかかり、分厚い雲も停滞していてよく分からない。

その代わりに足元に見える小さな島から甲高いラッパの音が響いていた。釜山の街は見えないとしても、ここが日本の最果てであり、国防の最前線であるということを感じさせる自衛隊駐屯地から聞こえるラッパの音だった。

船に乗るために比田勝に戻り、港のそばで自転車をスーツケースへと仕舞った。スーツケースパッキングというのはお得なもので、自転車を仕舞ってしまえば手荷物扱いとなるため、自転車料金を別で取られることがないのだ。
ところが今回ばかりはいつもと勝手が違っていた。チケットを購入するときのことだ。
「お客様はそのスーツケースに自転車をお入れなさってますよね?自転車は折りたたみであっても別途1000円徴収しています」
あちゃあ、すぐそこで梱包していたから自転車を見られていたか。でもまぁルールはルールだからきちんと支払うか、とお金を払いながらも、旅の最後で少しけちがついたような気分でもあった。

程なくして乗船時間がやってきた。僕以外は韓国人しか見当たらない列に並び、自分の番を待っていると、さっきチケットを売ってくれたお姉さんが列の整理にあたっていた。僕と目が合った彼女は少し申し訳なさそうな顔をしてこう言った。
「実は昨日、車を運転していたら、スーツケースを曳いて自転車に乗っているところを見ちゃったんです。だから…」
なるほどなぁ、そういうことか。
そういうことなら仕方がない、きっとこれは有名税みたいなものだ。赤いスーツケースは島の素顔に触れるには最適な乗り物だ。でもまぁ、知られ過ぎると、たまにはこういうこともある。とはいえそれも決して悪くはないな、このスーツケース自転車は普段、もらい過ぎなくらいに色々なものを島からもらっているのだから。
そう思いながら僕は、スーツケースを船へと転がしたのだった。

(次週からは韓国の島の旅をお送りします)

大陸に最も近い日本最前線へ 長崎県対馬海峡の旅その2

2016年08月24日

カーテンを開けると、真夏の太陽は既に高いところに昇ってギラギラと照っていた。まだ朝の7時だというのに、今日は昨日にも勝る暑い一日になりそうだった。
対馬にはお昼のフェリーで渡る予定だ。手早く朝食をいただいた後は、気ままに島を散策しながら港を目指すことにした。

朝の筒城浜海水浴場は人気がなくほとんどプライベートビーチだった。意外に、といったら失礼なのかもしれないけれど海は澄んだミルキーブルーをしている。昨日の船にあれだけたくさんの観光客が乗っていた理由が分かる気がする。福岡近隣の人にとって壱岐島は沖縄よりもずっと手軽に行けるビーチリゾートなのだろう。

それから昨日は駆け足で走り抜けてしまった原の辻遺跡近辺をもう一度訪ねてみた。夕焼けに染まる田園も素晴らしかったけれど、一面に緑の絨毯を敷き詰めた日中も圧巻だった。
秋には色合いを黄金に変えてこれまた見事そうである。

海に田園に、それから太陽に、壱岐島の彩りはシンプルだけど眩しいくらいに鮮やかだ。

ドコドコドコドコ…
島を一周し、郷ノ浦港へと戻る坂を下っていると何やら只ならぬ重低音が響いてきた。それから何十人もの声が重なった野太い声。一体何事だと音のする方へ行ってみると、そこではド派手な神輿が3基、水でびしょ濡れの法被と鉢巻を巻いた男たちによって担がれていた。

「よぉかぃた、よぉかぃた!よぉかぃた、よぉかぃた!」
勇ましい掛け声が郷ノ浦地区に轟く。参加者は男だけで、一体何のお祭りだろう。
「壱岐の山笠だよ」
交通整理にあたっていたお巡りさんが教えてくれた。山笠、といえば博多の祭りのはずだけれど、こんな分派も存在していたのか。博多山笠はテレビで見たことしかなかったけれど、こっちの山笠も負けず劣らず熱気がすごい。今年で279年目の伝統を誇る壱岐島最大のお祭りらしい。ちなみに掛け声は「よく担いだ」の意味だそうで、ちゃんと担げ、ということなのだろう。実際にこれだけ大きくて更に人が乗っている山笠は相当に重たそうだ。

せっかくのお祭りだったのでしばらく見学をしていきたかったけれど、そろそろ船の時間だった。
山笠の人混みを抜け出し、港へ戻ると観光案内所のおじさんに再会した。
「男岳神社に行ってきましたよ!でもそこで日が暮れかけちゃって、大変でした」
おじさんは「そうでしたか」と笑って話を聞いてくれた。そうだ、こういう会話がしたかったのだ。諦めないで神社に行ってよかったと改めて思う。
「壱岐は見どころがたくさんありますね。一日半じゃあ全く足りませんでした」
「またいつでも来てください。お待ちしてますよ」
各地の島を訪れる度に、再訪しなくちゃいけない場所がどんどん増えていくな、そんな嬉しい悲鳴を心の中で叫びながら、やがてやってきたフェリーきずなに乗り込み、壱岐島を後にした。

対馬の玄関口・厳原港に着いて真っ先に目についたのは、海に向かってどっしりと座り込んだ巨大な岩塊だった。
「すごっ…!」
下蒲刈島の朝鮮通信使博物館で見た絵と一緒だと思った。あそこに展示されていた図画もまた、この岩とそっくりな屏風のようにそそり立つ岩山が描かれていたのだ。島の約90%が300~500mの山地に覆われ、島の可住地面積は10.8%、耕地面積率に至っては僅かに1.2%しかない超が付く山岳列島。セットで見られることも多い壱岐島とは対極の性格を持つのが対馬なのだ。そのシンボルとも言えるような岩塊が目の前に鎮座していた。

「伊藤さん、ようこそ!」
港前で自転車を組み立てていると、不意に声をかけられた。ギョッとして振り返ると長身に縁メガネをかけた僕と同年代の男性が立っていた。
この島の観光協会に勤める舟橋さんだった。

実は先日、福岡に住む友人に今度対馬に行くことを伝えたら、「それなら友達がいるよ!」と紹介されていたのが舟橋さんだったのだ。僕と福岡の友人は世界旅で出会った仲で、友人と舟橋さんは昔の仕事仲間かつ、同じ時期に世界旅をしていた間柄だった。
その舟橋さんとは今晩彼の住む対馬中部の豊玉地区で会う予定だったのだが、仕事の隙を見つけて一足先に会いに来てくれたようだった。

「きっと話も合うと思うから」と言ってくれていた友人の言葉通り、舟橋さんとは初対面という感覚がなかった。
「なかなか対馬まで来てくれる人って少ないから。会えて嬉しいです」
気取らない柔らかな当たりの良さが、元旅人ならではだなと思った。
しかしまぁ、日本で二十数年暮らしていて交わることのなかった二人が、世界旅をキーワードにこの日本の辺境とも呼べる場所で出会ったのだ。彼を紹介してくれた福岡の友人とはケニアで知り合った。アフリカの縁が地球を一周してここに繋がっていることはなかなかに面白い。やっぱり旅はしておくものだな、とつくづく思った。 ちなみに福岡の宿のある建物に入っていた、よりあい処対馬は彼の勤め先の出張所とのことだった。やっぱり世間は狭い。

ただ、それにしても…

「ちょーっと、暑すぎじゃないっすかねぇ」
ちょっとどころの話ではない。対馬は壱岐島を遥かに上回るとんでもない暑さだった。舟橋さん曰く「今日は今年一番」とのことだ。山だらけだから風が流れず湿度が停滞し、空気が重い。立っているだけで体力を奪われる殺人的暑さだ。厳原には僕らを除いて人っ子一人歩いていない。前回の瀬戸内海旅は雨に泣かされただけに晴れは有り難いのだけど、加減ってものがあるだろう…。

「お昼ご飯食べました?」
舟橋さんが誘ってくれた。船の中で簡単な昼食は摂っていたのだけど、この暑さだ。今から走り出すのは自殺行為に近い。エアコンの効いた場所で少し様子を見ようと、近くにある名物ハンバーガー屋へと連れて行ってくれた。

「対馬バーガー」は照り焼き系の甘いソースに対馬名産のひじきやイカが入ったハンバーガーだ。ひじきにイカと聞いた当初は眉唾モノだったけれど、食べてみるとハンバーガーにイカの歯ごたえは新鮮だったし、ほんのり口に広がるひじきの風味も面白い。

(ニオイにつられてカメラを構える前に食べてしまったので、写真は舟橋さんの勤める対馬観光物産協会より写真をお借りしました)

このお店は対馬に2店舗を構えるだけでなく、この春には釜山にも新店をオープンしたそうだ。島外初出店は福岡でもなければ長崎でもなく、韓国とは。さすがは大陸に最も近い島だ。
店長のキヨさんもユーモラスだ。
「こんな暑い時によく自転車で対馬走ろうと思いましたねぇ!」
と僕をからかうけれど、本当は対馬に観光客を呼び込もうと精力的に活動をしている人物なのである。ハンバーガー事業だけでなく、この秋には対馬ボーダーアイランドフェスティバルを主催する中心メンバーでもある。この音楽フェスティバルには日本のアーティストのみならず、韓国からもミュージシャンを呼んで行われる日韓合同イベントでもあるそうだ。
対馬は年間20万人以上の外国人観光客が訪れる日本有数の国際スポットだ。対馬から日本に出入国する外国人は成田や関空といった日本の代表的な玄関口に続いてなんと第9位。そのほとんどが韓国人のため、島の観光と韓国人観光客は今や切っても切り離せない関係なのだ。
対馬バーガーを食べている間も韓国からの若者が三人お店にやってきていた。片手に持ったスマホではモンスター探しゲームをやっている。韓国では地図データが国によって統制されているため、この手のゲームで遊ぶことはできない。釜山からちょっくらゲームをしに船で渡ってきたのだろうか?
日本の辺境の先に繋がっている大陸。対馬は興味深い場所だ。

結局、午後4時半までキヨさんのお店で涼ませてもらった後、重い腰を上げることにした。とろけるような日差しは弱まったような、変わってないような、よく分からない感じだったけれど、今日もこれから山だらけの道を40km漕がなければならない。もし走り切れないようであれば舟橋さんが仕事帰りに車で拾ってくれるというので昨日よりはだいぶ気が楽だ。とはいえ、そんな僕の以前の旅を知っている彼にそんな情けない姿を見せられない気もするけれど。

「対馬の人間は運転が荒いけん、気をつけて!」
そう忠告を受けていた通り、島を南北に結ぶ国道382号線沿いは結構スリリングだった。交通量も多く、みんな相当飛ばす。路肩は狭すぎてスーツケースを牽いた自転車は走れないので、片側一車線の車道に出なければならない。その僅か50cm隣をビュンビュンとスピードを落とさず抜き去っていく車。その運転っぷりはなんだか日本というよりは、もう韓国に近い大陸のパワフルさを彷彿とさせた。

かなり危険に思える対馬サイクリングだがサイクリストは多い。そのほとんどは韓国人サイクリストだ。釜山から北の比田勝港に入港し、対馬を縦断して厳原港まで走るのがポピュラーなようで、びっくりするぐらいたくさんの韓国人サイクリストとすれ違った。比田勝から厳原までは90km程度だから乗り込んでいる人ならば日帰りもできるし、一泊二日なら観光を織り込むこともできる。韓国人にとって「週末旅行で走り切れる異国の島」として存在しているのがこの対馬なのだ。
最も酷暑のこの日に見かけたサイクリストたちは皆一様にくたびれ果てていて、頭を垂れながらトボトボとペダルを回す姿が印象的だった。気温に加えてアップダウンがエンドレスの国道382はこの時期、酷道382号線であった。いや、彼らだけじゃなく、僕にとってもそうだから笑い事じゃない。

空港を過ぎたあたりから道は一層険しさを増した。真っ赤なアーチのかかった万関橋の手前に広場があったのでそこで休憩することにした。
対馬はこの万関橋のかかる海峡を境に南北に分かれていて、北側を上(かみ)、南側を下(しも)と呼ぶが、ここは人工的に掘削された運河である。南北に長い島なので、ここに運河を通すことで海上交通の円滑化を図った。時代は帝国主義を強めていった明治時代後半。主に軍船のための海路だった。

今では島の見どころの一つとなった万関橋にも韓国人観光客はひっきりなしにやって来ていた。広場に設置された看板や公衆トイレにもハングル語が溢れ、ともすればここは韓国かと勘違いしそうな様子だった。

おぼろげながら対馬の正体が見えてきたような気がする。おそらく対馬はグラデーションの島なのだ。日本でありながら韓国のようにも見える。韓国のように思うところがありながらも日本である。
僕はかつて世界一周の旅から帰って来るとき、釜山から福岡へのフェリーを使ったけれど、一晩寝て、起きたらすとんと韓国から日本へ切り替わってしまったことに僅かな違和感があったことを覚えている。その間を繋ぐ役目を果たすのが、対馬なのではないか。
爆発的に韓国人観光客が増えだしたのは、ここ数年のことらしいが古来より大陸への出口であり、入口でもあったこの島は混じり合いの場所だったのだ。
それはあちこちで見かける韓国人観光客やハングル語もそうだったし、彼らなくしては考えられない島の経済もそうだ。かなり荒い車の運転もそうかもしれない。好むと好まざるとにも関わらず、お互いの意識が向き合う場所だった。
海によって遮断されていると感じていた日本にもあった外界と混じり合う場所。対馬海峡の旅を始めようと思った理由の「大陸のにおい」ってこういうことなんじゃないかと思った。

対馬中部の豊玉地区に着いたのは午後7時半だった。予約を入れておいたこのあたり唯一の宿つたやホテルに投宿し、仕事を終えて帰ってきた舟橋さんと合流する。つたやホテルの息子さんが最近オープンさせたという近くの居酒屋に連れて行ってくれた。

午前は壱岐島、午後は対馬と今日もなかなかハードな走行だったので、ビールを一杯飲んだだけであっという間に酔っ払ってしまった。

じっくり話してみると、僕らには共通の知り合いが他にもたくさんいることが分かった。
「Uさんところとは、チリのイキケですっけ? あの北部の街のところ。あの宿でたまたま知り合って…」
「Tくんとは僕、ナミビアで会ったんですよ。誕生日どころか生まれた年も同じだったからすぐ意気投合しちゃって!」
さも当然のように話が盛り上がっていたけれど、よくよく考えたらチリだ、ナミビアだと話の規模感が少しおかしな話だったかもしれない。でも、いいのだ。そんなギャップが楽しい。
「インドはちょっと心が折れちゃいましたよ。だって毎朝テント開けたら50人ぐらいに囲まれてるんですもん」
「あっはっは。気持ち分かるなぁ、それ」
国境の島に相応しいグローバルな話題を酒の肴に、夜はふけていくのだった。
はて、一昨日の深酒の反省はどこへ行ったのやら…。

(次週に続く。長崎県対馬海峡の旅は全3回を予定しています)

大陸に最も近い日本最前線へ 長崎県対馬海峡の旅その1

2016年08月17日

とてつもなく安いチケットを手に入れてしまった。
インターネットでたまたま見つけた成田から佐賀への空の便がたったの1100円だ。家から成田空港へ向かうバスの方が高いくらいだから、この値段で飛行機に乗れるなんて信じ難い話だったけれど、四の五の言う前に飛びついてしまった。まだ目的地も決まっていないのに。
チケットを買った後、地図を広げて次の島を考えてみると、佐賀空港から福岡まではそれほど距離が離れていないことが分かった。福岡まで出れば博多港から壱岐島、対馬への船が出ているはずだ。
前回の瀬戸内海の旅で下蒲刈島の朝鮮通信使博物館を訪れていた僕は、大陸に最も近いこの島々におおいに興味があった。日本の果て、それは言い換えれば日本の最前線である。歴史的にも大陸からの中継地として存在したこの二島には、他の島にはない「大陸のにおい」みたいなものを感じられるんじゃないか、そう思った。それに対馬は南北で約100kmと、島のサイズ感も自転車にとってかなり走りごたえがありそうだ。
「よしっ、決めた!」
目的と行き方の順序が逆な気もするけれど、とにかく今回は対馬海峡の旅と行こうじゃないか。

梅雨明け直後の博多はピーカン照りの青空が広がっていた。ここで一泊して翌朝のフェリーでまずは壱岐島に行く。今晩は寝るだけだから、なるべく安くて港に近いところと予約を入れた安宿に向かうと、宿の入っている建物の一階には思いがけず対馬市の出張所とアンテナショップが入っていた。
周りにもたくさんビルや建物があるにも関わらずこんなところで、適当に決めた行き先と適当に決めた宿が重なるなんて。
どういうわけか旅ではこういう偶然がときどき起こる。そして偶然が起こった時ほど面白い旅になりやすい。
「こりゃあ、呼ばれてるな」
まだ島に行ってもいないのに今回の旅が必ずや良い旅になる、そんな確信めいたものを感じて僕はなんだか嬉しくなった。

翌日の博多港は小中学生の夏休み最初の週末を迎えて大混雑をしていた。壱岐・対馬行きのフェリーを待つ人々は海水浴客の他に釣り竿やクーラーボックスを抱えた客も多い。
「壱岐島は8年ぶりっちゃけん」
「バリ楽しみ!」
浮足立った喧騒の中からそんな会話が聞こえてくる。福岡の人にとっては壱岐も対馬も身近な島々のようで、日本の最前線だなんて鼻息荒くしているのは僕ぐらいなものだった。
いや、その僕は鼻息荒くどころか、気息奄々でぐったりとしていた。立っているのがやっとなくらい頭がクラクラとする。理由を書くのがくだらない気もするけれど、前夜の深酒が原因である。
旅の自転車仲間が博多のタイレストランで働いていた。せっかく博多まで来たので、そこに顔を出した僕は「0時には帰る」と宣言したにも関わらず、それが1時になり、2時になり、宿に戻ったのは結局朝の4時前だったのだ。
せっかく旅の前から順調な流れが来ていたというのに、結局は自分のせいで旅のスタートとしては過去最低の体調になってしまった。タイのシンハービールを片手に調子よく語り込んでいた昨晩の、いやほんの数時間前の自分を呪う。まったく、自分の刹那主義に今まで何度後悔したことだろう。嗚呼…。

国内線フェリーターミナルの向かいにはカメリアラインの船が停泊していた。自転車世界一周の旅から帰ってきた時に乗った船だ。あれからたった8ヶ月で、まさかまた自転車を持ってこの港から船に乗るとは思わなかった。ただ、今はそんな感慨よりも…
「ど、どこか横になるところ…」
定刻通り出発した定期船ちくし号は、二等部屋の座敷の隅に倒れこんだ息も絶え絶えの僕を壱岐島へと運んでいくのであった。

「間もなく壱岐島、郷ノ浦に入港いたします」
甲高い船内アナウンスでハッと目が覚めた。2時間ちょっとの睡眠だったが、頭からだいぶ重たいものが無くなっている。これなら何とか走れそうだ。それに壱岐島はそれ程大きくないはずだから、サクッと島を周って今日は早めに休めもう。なんていったって明日からは日本離島番付でいえば大関級に大きい対馬が待ち構えているのだから。

乗船していた客の大半は壱岐島で僕と同じように下船した。港は一時、ここは新宿か? と思うようなラッシュに揉まれたけれど、出口で彼らを待つ民宿の送迎バスに乗り込むとあっという間に消え去ってしまった。残ったのは突き刺すような太陽光線と、この暑さでも元気なセミの声だけ。そこにポツンと僕だけが取り残された。

「珍しい自転車ですねぇ」
自転車を組み立てていると、港の中からおじさんが出てきて声をかけてくれた。観光案内所の人のようだ。
「えぇ、ここは暑いですね。ところでこの島の地図ってありますか?」
「ありますよ」とおじさんは親切にも自転車用や車用など何種類もの地図を持ってきてくれ、地図を見ながら景色のいいルートや見どころを教えてくれた。
と、ここで何気なくおじさんに島の大きさを尋ねた時、驚愕の事実が発覚する。
「島を一周しようと思っているんですけど、だいたい30kmぐらいですかねぇ?」
「このあいだ島を一周するウルトラマラソンがありましたが、その時の島一周コースは100km近くありましたよ」
「…えぇっと…まじっすか?」

小さいと思っていた壱岐島だったが、それは北にある対馬が巨大すぎるから小振りに見えるだけであって、実際にはなかなか大きな島だったのだ。
100kmといえば世界一周の時、僕が一日をかけて走る距離の目安だったが、時刻はすでに13時過ぎである。海岸線に沿って島を一周するつもりはないけれど、それでも一周70km~80kmはあるだろう。今日は4分の3周地点にある民宿に泊まる予定だ。早めに走りを切り上げて、今夜はゆっくり休もうと思っていた計画は脆くも崩れたではないか。というか出し抜けに島旅始まって以来の史上最大の戦いを突きつけられた気分である。行き当たりばったりで行き先を決めると、やっぱりこういうところでボロが出る。
「は、走らなきゃいけないんだよな…」
今度は別な意味で頭がクラクラとしてきた。

郷ノ浦でうにめしの昼ご飯を食べたあと本格的に島を走り出した。
おじさんは「平坦な島ですから、走りやすいはずですよ」と言っていたし、船から見えた島の影もそれほど山がちな地形には見えなかったけれど、自転車で走ってみると島の印象は随分違った。
猛烈な坂道は確かに少ないけれど、緩く長い坂道がダラダラと繰り返される。島の規模感が実際には小島ではなくて、緩やかで大きな広がりを持つ島だったから平坦に見えるだけだったのだ。20インチの自転車だからそれが余計に強く感じる(そして既に満身創痍の体調だということもおおいに関係ある)

そればかりかこれほどまでに大陸や本土のような土地の広がりを感じる島がこれまであっただろうか?
海岸沿いのなだらかな丘陵に沿って段々の棚田が連なり、内陸に目を向ければこの時期は田畑の緑が鮮やかに土地を染め上げている。険しい山がないから、海のミネラルが風に乗って島中に満遍なく行き届いてこの豊かな島を作り上げているのだろう。ペダルを回すのをやめて少し立ち止まってみると、清々しい風が柔らかく通り抜けた。
後で分かったことだが壱岐は長崎県でも2番目に大きな穀倉地を持つのだそうだ。さらに調べてみると耕地面積率は48.1%で日本平均の12.1%と比べてみても飛び抜けている。

島を取り囲む対馬海流からはイカやタイなどの海産物も豊富に採れる。それにここで育てられる壱岐牛は神戸牛や松阪牛といったブランド牛の元牛である。ついでに言うなら温泉だってある。
なんというか土地の持つポテンシャルが圧倒的なのだ。どこにも頼らず自給自足が可能な島。そんな島は多いようで実はけっこう限られる。
壱岐島には中国の魏志倭人伝に登場する一支国(いきこく)がかつて存在し、島の中心部には原の辻(はるのつじ)遺跡という王都の跡地が発見されているが、そんな王国が繁栄したのもなるほどと頷ける。実際に魏志倭人伝には「田地あり」と当時の記述がある。ただし、農耕技術がまだ発達していなかった当時は「田を耕せどなお食足らず」とも書かれているけれど。

一時間ほど走ると、不意に右手から冷涼な風が流れているのを感じて立ち止まった。巨大な横穴が四角く繰り抜かれている。奥は真っ暗で何も見えない。
入口の脇に1mを優に上回る弾頭が二つ置かれていた。一つは戦艦大和のもの、もう一つはここにあった黒崎砲台のものだそうだ。この巨大な弾頭が発射されることは一度もなかったそうだが、飛距離35kmを誇る巨大な弾頭は戦時下において周辺海域を牽制する大きな役目を果たしたのだという。今でこそのどかで懐かしい風景が広がる壱岐島に、いかめしい弾頭が存在する事実は、この場所がかつては死守すべき日本の生命線だったことを物語る。やはりここは日本の最前線だった。

横穴から吹き抜ける涼し気な風を浴びて休憩していると、若い男が二人現れた。こちらと目を合わせるわけこともなく手に持ったスマホを眺めながら会話をしていた。
「どう?」
「うん、たぶんこの辺」
どうやらちょうど前日から配信されたばかりのモンスターを捕まえるスマホゲームをやっているらしい。そういえば船から降りる時もけっこうな人がスマホをかざしてモンスター探しをしていた。なんでも壱岐島にはレアなモンスターがいるとかなんとか。最新のゲームが瞬時にこんな日本の果てまでをあまねく覆う、現代の情報テクノロジーの破壊力は末恐ろしい。
「けっ、こんなところに来てまでもゲームかよ」
僕の存在すら眼中にない二人に強い反発のようなものを覚えて、僕は砲台跡を去った。リアルを大事にしようぜ、リアルをよぉ…。

ところがそこからすぐ先のところで僕はぶったまげてしまった。なんとゲームをやらない僕の前にも巨大なモンスターが現れたのだ。
半島から出張ったところにそばだつ岩肌むき出しの山。その形は海を向いてそっぽを向く猿の姿にそっくりだったのだ。
「自然の造形だけでこんなに本物みたいな岩があるなんて…、ちょっと考えられないわ」
僕はすかさずカメラを取り出し、バシャバシャと猿岩の写真を撮った。撮りながら、あれっと思った。スマホ越しかファインダー越しかが違うだけで、僕も結局レンズ越しに現実世界を覗いているではないか。そんな自分に苦笑した。そしてあろうことかこんな言葉を心の中でつぶやいたのだから。
「壱岐の怪物サルイワー、ゲットだぜ!」

壱岐島の最北部、勝本に到着したのは夕方5時過ぎだった。時間も時間なのにこれで今日の行程はやっと折り返し地点である。ここから小舟ですぐのところに沖ノ島という絶景ビーチがあり、観光案内所のおじさんにも勧められていたが、立ち寄る余裕も体力もなさそうだった。暑さのピークは過ぎていたけれど、この時間でもなお汗が体中から止めど無く噴き出している。
「はぁ、はぁ、はぁ…」
思えば帰国以来50km以上の長距離ツーリングはほぼしたことがなかったし、運動不足もいいところだったのだ。一応、自転車で世界一周をした経験があるつもりだけれど、今では壱岐島一周でこのザマだ。時間の経過とは残酷だ。

あとはもうどこにも寄らずに最短距離で宿を目指そうと思っていたのだが、途中で「男岳神社」の看板が目に入った。ここはおじさんに一番のおすすめと言われていた場所である。神社のある男岳山全域が御神体であり、以前は入山すら禁止されていたそうで、山頂の神社には数百の石猿が奉納されているという。
「まぁ、猿岩は見たわけだし、ここはもういいかな」
と、ここもパスしようと思った。標高は低いといえど山を登るのも億劫だ。
ところが、ここを熱心に勧めてくれたおじさんの顔が浮かんでいつまでも離れなかった。きっと明日の船に乗る時も港でおじさんに会うだろう。その時僕は「いやぁ壱岐島は大きくて、おすすめの場所にはどこにも寄れませんでしたよぉ」なんてヘラヘラ笑いながら言い訳するのだろうか? それは嫌だな、と思った。ほんの僅かな時間だったとはいえ、この島の人間と関わったリアルな瞬間だ。それを大切にするのがそれこそリアルじゃないのか?
「…ええい、日暮れなんてもう知るかっ!」
僕は踵を返して、男岳神社の方面へとハンドルを切った。

海抜168mの男岳山の山頂に立つ神社にたどり着いたのは午後6時のことだった。夏の盛りの西日本はまだまだ明るかったけれど、日差しは確実に夕日の色を含んでいて、持ってあと一時間半というところだろう。
鳥居の手前では見猿、言わ猿、聞か猿の3匹が僕を迎えてくれた。

境内では社の裏手を囲うように、噂通り数百の石猿と数体の石牛が収められていた。これほどの猿が置かれているのは猿田彦命を祀る神社に由来しての事らしい。一方で、何故かキリスト教のマリア像と思われる石像もあった。像に刻印された日付は平成二年。明治時代以後、一般の人々にも入山が許されるようになり、少しずつかつての厳格さが失われ神仏習合が進んだ結果かもしれない。とはいえそれがマリア像というのは長崎県らしいといえば、らしい。

鳥居の隣に展望台があったので登ってみた。そこは壱岐島北部を一挙に見渡すことができる絶景地点だった。遠くに芦辺地区の集落が見える。僕の目指す石田地区は遥か向こうでここからは見えなかった。
でも、この展望台に立って、昼間よりもぐっと柔らかくなった夕風に身を預けていると、いつのまにか焦りはもう消えていた。二日酔いで朝からずっと受け身な姿勢だったところから、やっと抜け出せた不思議な満足感があった。夢中で走ったことで体の不純物がようやく全部排出され、心地よい疲労感は心持ちを軽くさせた。
「やけくそでも何でも、自分から動けばやっぱり変わるじゃん」
旅の流れを手放すのも引き寄せるのもやっぱり自分次第だったのだ。

宿のある石田地区に近い原の辻遺跡に差し掛かったのは日も完全に暮れかかった午後7時半前だった。このあたりは特に平野が目立ち、広大な田んぼが広がっている。平地が多いということは空が広いということだ。沈みそうでしぶとく粘る夕日がとてつもなく綺麗でいちいち立ち止まってしまう。かつてここに王国を築いた弥生人たちは、こんなにも贅沢な夕暮れを毎日過ごしていたというのか。少し羨ましくもあった。

「お待ちしてましたよぉ」
日が完全に落ちきると同時に民宿ひとみに到着した。今日の走行は結局53km。昼ご飯を食べて走り出したのが午後2時過ぎだったから、僕にとっては上々の記録である。 真っ先にひとっ風呂を浴びて、食堂に降りると、女将さんが見た目にも豪華絢爛な晩ご飯を用意してくれていた。魚はもちろん、お米から野菜まで全部壱岐島で採れたものだという。
苦戦はしたけれど、島を自転車で走って、この島のポテンシャルを肌で感じていた僕にとって願ってもないご馳走である。
食べきれない量かと思ったけれど、日中体を使っていただけに箸が進む。その食べ方は味わって食べるというよりも、胃袋にかき込むような体育会系の食べ方だったけれど美味かった。そして食後にかぶりついたスイカの瑞々しさったらなかった。
汗をかいて土地を感じて、体を使った分、土地のものを食らって前に進んでいく。自転車旅はやっぱりシンプルでいいなぁ。
でもその前に。日頃の不摂生も改めよう、そうしたらこんなに大変な思いもしなくて済むのだからと人生で何度目か分からない反省に浸る僕であった。

(次週に続く。長崎県対馬海峡の旅は全3回を予定しています)