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サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その4

2016年12月21日

大東諸島3日目の本日は、フェリーで隣の北大東島へと渡る予定だった。
那覇と大東諸島を結ぶ定期航路は航空路線と同じく北大東島を先に周る「北先行」と、南大東島を先に周る「南先行」が数日おきに運行されている。
この日の便は北先行で、まず始めにフェリーは北大東島に寄り、その後南大東島に入港し、再び北大東島に戻り、一晩停泊する。そして翌日、再び南大東島に立ち寄って那覇へと戻るルートとなっている。
隣り合う島同士でさえ、人や物の行き来をこの定期船に頼らなくてはならない状況が、このわかりづらい航路を産んでしまっているのだが、このダイヤをうまく利用すれば那覇に戻るついでに北大東島に一泊することができる。
大東航路は年間70航海程度と運行回数も少ないので、このややこしい時刻表とにらめっこして、周遊順序を計画することが大東諸島を訪れる旅人の始めの一歩となる。

そして定期船「だいとう」には旅人を惹きつけてやまない、とっておきの仕掛けがあった。
先に記したように大東諸島は珊瑚礁が堆積してできた島で、険しい岩礁に囲まれていて、潮の流れも速いためフェリーを接岸させることができない。そこで編み出されたのがコンテナ型の入れ物に乗客を乗せ、それをそのままクレーンで吊り上げフェリーに乗せるという力技である。
例えるならば、人間UFOキャッチャーとでも言うべきだろうか。こんなユニークな乗船方法は聞いたことがなかったし、そんじょそこらのテーマパークのアトラクションよりもよっぽど魅惑的で、実はずっと心待ちにしていたのだった。僕のようにこれをやりたいがために大東諸島にやってくる旅人は少なくないという。

「2泊以上してくれた人にはいつも渡してるんですよ」
朝、宿代の精算をしようとすると、おばさんが大東寿司を持たせてくれた。一泊2,500円の安宿だったし、まさかこんなお土産を頂けるとは思ってなかったので素直に嬉しい。
「3泊目からは一泊2,000円になるので、次はもっとゆっくりしていってくださいね」
なんだか去るのが惜しい宿だった。

フェリーの出航は16時だったので、まだ時間はあったけれど、先に切符を買っておかなければならなかったので西港の切符売り場へと向かった。
ところが、港は閑散としていて何だか少し様子がおかしかった。時間で言えばフェリーが入港して荷物の積み下ろしをしている頃のはずなのに、肝心のフェリーがどこに見当たらない。嫌な予感がしていた。
ここで今日の便が運休になる可能性があることを知らされた。聞けば、まだ北大東島にも入港できていないそうだった。今日の天気も引き続き風の凪いだ快晴だったから実感に乏しいけれど、海がかなり荒れているそうだった。
ひとまず切符を購入して、とりあえず様子見…というところで、間もなくフェリーの運休が決定。北大東島には渡れなくなってしまった。

北大東島に行けないことはもちろん残念だったけれど、それ以上に僕の頭にあったのは人間UFOキャッチャーのことだ。せっかく大東諸島くんだりまで来たにも関わらず、人間UFOキャッチャーを体験せずして、すごすごと帰るのは有り得なかった。何としてでも吊られたい!

係員の話では、フェリーの入港さえできれば明日、直接那覇へ戻る便として振替えになるということだったので、希望を持って島にもう一泊することにした。ここまで来たのだから飛行機で帰る選択肢はない。
「それじゃあ明日もお寿司持ってきましょうねー」
一度挨拶もして、お土産ももらっていただけに、もう一泊させて下さいとお願いするのは、ちょっとだけ決まりが悪かったけれど、そう言ってもらえてホッとした。

明けて翌日は、快晴続きだった南大東島もついにどんよりとした曇り空に覆われてしまっていた。風も強く、サトウキビ畑がざわついている。
天候で言えば確実に昨日より悪化していただけに不安がよぎったけれど、正午前に役場から電話が来て、時間を繰り上げて出航するとの知らせを受けた。
すぐに荷物をまとめて港へ向かう。
「おぉ、あれか!」
昨日は見かけなかったフェリーが波止場に繋留されていて、手前ではオレンジのクレーンが長いアームを空に向かって伸ばして待機していた。脇には水色の鉄柵で囲われたコンテナが置かれていた。

ところが、コンテナは思った以上に飾り気がなく剥き出しで、好奇心を恐怖心に変えてしまうような頼りのなさだった。このコンテナに入って、あのクレーンに吊られるのである。大丈夫だろうか…。実物を見たら激しく不安になってきた。

フェリーは波止場から7~8メートルぐらいのところに繋留されている。たった数メートル程度の隔たりとはいえ、もしワイヤーが切れでもしたら、一巻の終わりである。それに荒波に揉まれた船は前後左右に激しく揺れている。こんなところにコンテナを上手く着地させられるものなのだろうか…?

この日は沖縄本島から役場関係者と思しき人間が島の視察に来ていて、彼らのためのコンテナ宙吊りデモンストレーションが僕たち一般客に先立って行われていた。実際に宙吊りされたコンテナは見上げるほどに高いところまで吊り上げられていたのだから、さらに気後れしてしまった。

いよいよ乗船の時間がやって来る。
「一回で行きますから、詰めて乗ってくださいねー」
係員は事務的にそう言うけれど、重さによるワイヤー切れを心配する僕は内心ヒヤヒヤしていた。もっとも、不安なのは僕だけではないようで、他の乗客もハラハラした表情でクレーンの先端を見つめていた。

コンテナの入口が閉じられる。動き出したら最後、もう引き返すことはできないジェットコースターに乗り込んでしまったような気分だ。あぁ、今すぐここから逃げ出したい…。
すると突然、フワッとした感覚が全身を駆け巡って、視界がどんどん高くなっていった。
「おぉぉ-、う、浮いてる…!」
ワイヤーが引っ張られる瞬間、強い衝撃を感じるものかと思っていたけれど、そういった衝撃は何も無く、気がついたら吊られていたという感じだ。
2メートル、3メートルと高度が上がるとブオォっと強風が吹き付けて、思わず手摺りをきつく握ってしまうが、コンテナはほとんど風に揺られるわけでもなく安定してフェリーの方へと運ばれていく。頼りなさ気なコンテナの見た目と実際の安定感のギャップが不思議な感覚だった。
激しく白波を立てる海をあっさりと越えると、足元に甲板が見えた。するするとコンテナの高度が落ちていく。着地もとてもスムーズで、むしろ着地した後のフェリーの揺れの方に驚いてしまったくらいだ。
「あれ?もうおしまい…?」
時間にしてみればほんの20~30秒。けれど、その20~30秒の浮遊体験で僕はすっかりこの空飛ぶコンテナに魅了されてしまった。
「面白いっ!!」
さっきまでの不安はどこ吹く風と言った感じで、思わず「もう一回!」と言いたい気分だった。けれど、残念ながらこればかりは一回の乗船に付き一度しか体験できない。それだけに昨日の北大東島行フェリーの欠航を恨めしく思った。

フェリーに乗り込んだ後は、那覇まで約15時間の船旅だ。それなりに時間に余裕がなければなかなか乗れない航路であるし、フェリーのスケジュールも合わせなければならず、人間UFOキャッチャーを体験したい人にとっては頭の痛い問題かもしれない。でも、もし、吊られるだけのために大東諸島を訪ねるのは有りか無しかと問われたとしたら、僕は「有り」だと声を大にして言いたい。
こればかりは言葉では伝えるには限界があるし、この面白さはきっと体感しないと分からない。
たった数十秒の空飛ぶコンテナのために、遠路はるばる大東諸島へ。ちょっとでも「吊られてみたい!」と思ったならば、そんな酔狂な旅も有りじゃないかと、僕は思うのだった。

(次週からは大阪府・和歌山県の旅をお送りいたします)

サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その3

2016年12月14日

二日目の朝も快晴に恵まれた。風もほとんどなくサイクリングにはもってこいの日和。さっそく島一周に出かけることにした。
集落から島の西側にかけてはシュガートレインの廃線跡を利用した小道が延びている。両脇に植樹された木々が緑のトンネルを作っていて、木漏れ日がきらきらと注いでいた。ちょっとした幻想的雰囲気である。自然とペダルを踏み込む足取りも軽くなり、うきうきするような気持ちに浸りながら漕ぎ進んだ。

途中、塩屋海水プールに立ち寄ってみた。ここは岩礁をくり抜いて作った天然のプールだ。残念ながらこの日は潮が高く、プールは海に埋もれてしまっていた。激しく白波が立ち、ゴツゴツした岩の海岸が見える限りに続いている。絶えず波に洗われている岸壁は草木一本たりとも生えていない。
自然の厳しさを見せる波打ち際と、さっきまでの穏やかな内陸部とのギャップがすごい。平坦で広大な広がりをみせるサトウキビ畑の中にいると、ときどき忘れてしまうけれど、ここはやっぱり長年、人を拒み続けてきた絶海の島なのである。

開拓民が訪れる以前の南大東島の自然史も、開拓史と同じぐらいの魅力を持っていて面白い。
南大東島はもともと4800万年前に赤道直下のニューギニア近海で生まれた火山島だと言われている。誕生後、火山島は海中に沈下するものの、火山の頂に珊瑚礁が堆積し、数度に渡る隆起を繰り返し再び海上に現れた。珊瑚礁でできた島というのは南大東島に限らず他にも例があるが、ここは環状に珊瑚礁が形成された状態で地盤が表出した隆起環礁の島として世界でも珍しい存在となっている。

僕は島を平坦と表現したけれど、隆起環礁というのは実際には外縁部から中央部に向かって緩やかに窪んでいる。このような形であるため、本来海沿いに生育するはずのマングローブの森が内陸に取り残された形で見ることができるのも南大東島の極めて稀な特徴の一つとなっている。

誕生以来、どの大陸とも陸続きになったことがなく、フィリピン海プレートに乗って北上し、長い時間をかけて現在の海域までやってきた。隣の北大東島も同じように隆起環礁の島で、南大東島とは海の底に沈んでしまった火山島で繋がっている。いわば双子の兄弟みたいなものなのだそうだ。

島の移動は今もまだ続いていて、一年間に7センチずつ北西に進んでいる。
それを示すのが北部にあるバリバリ岩で、その名前の響き通り、大岩が真っ二つに引き裂かれて、狭いところでは幅1メートル程度の回廊となっている。

じっとりとした湿り気が滞留する回廊の奥には一本のビロウヤシが立っていた。まっすぐに光の射す方に向かって伸びていて、迷いがない。その姿はどんな過酷な状況でも決して諦めない力強さを備えていて、一見の価値があると思った。

午前中をかけて島を一周し、集落に戻って昼食を食べた後、もう一度自転車を北へ走らせた。星野洞を見学するためだ。
珊瑚礁の島である南大東島の地盤は石灰岩でできていて、地下にはあちこち鍾乳洞が形成されている。中でも最大級の大きさを誇るのが星野洞で、東洋一美しい鍾乳洞とも言われているそうだ。
そんな南大東島の目玉とも言える星野洞だけれど、受付小屋にも鍾乳洞の入口にも鍵がかかっていて誰もいなかった。絶対的な観光客数がいないので、常駐するのを止めてしまったようだ。貼り紙が貼ってあって、「電話で呼んで下さい」と書いてあった。パンフレットには「予約した方が無難」と書いてあったけれど、「予約しないと見れません」に訂正した方がいいのではないだろうか。

電話をすると15分程で係員が来てくれたのだけれど、この後の対応も"らしさ"が溢れていた。
ガイド音声の入ったタブレットとヘッドセット、懐中電灯を僕に渡した後は「それじゃあ私は他の仕事があるので…」と帰ってしまったのだ。借りた機器は見学を終えたらそこのダンボールに入れておいてください、とのことだった。この緩さが南国だなぁと思わずにはいられなくておかしい。とはいえ、これで僕も相手を気にせずゆっくりと鍾乳洞見学ができるので、この放ったらかしシステムは実は理に適った対応であったりもするのだった。

地下へと潜る50メートル弱の通路が延びている。突き当りの重たいスライドドアを開けると、むわっとした湿度に途端に包まれた。そこには数千、数万のおびただしい数の鍾乳石が空間内を埋め尽くす異世界が展開されていた。
剣山のようなつらら石の塊、天井から注ぐミネラルを受けてタケノコのように伸びる石筍(せきじゅん)、極太に成長して島の岩盤を支えている石柱など様々な形をした鍾乳石が照明でライトアップされて、神秘的にそして怪しげに光っている。

ひんやりと、そしてとても重たい空気が充満していて、立っているだけでも体力が奪われていくようだ。無理もないのかもしれない、なにしろ今僕は島の歴史そのものと対峙しているのだから。
鍾乳石は、天井から伸びるもので100年で1センチ、地面から伸びるものは300年で1センチのスピードで成長すると言われている。雨水に溶けた石灰成分が一滴ずつ固まってこの奇景を生み出している。僕の人生などここでは僅か3ミリに過ぎない。
人の持つ時間の儚さと悠久の時を刻んできた鍾乳石の長大なスケールと。相反するかのような二つの時間感覚を同時に感じる不思議な場所だった。

最深部の少し手前のところで妙なものを発見した。何だろうと目を凝らしてみるとガラス瓶がいくつも転がっていた。係員も帰ってしまう鍾乳洞だから、どこかの不届き者がゴミを捨てていったのかと思ったが、真相は違っていた。
南大東島には高校がないため子供たちは15歳になると全員が島を出る。その際に、泡盛を鍾乳洞に置いていくのが島の慣習なのだそうだ。鍾乳洞の環境は泡盛を熟成させるのに最適で、5年後、子供たちが帰ってくる成人式の日に家族で飲み交わすのだという。
なんて切なくて暖かい習わしなんだろう。星野洞の地下深くで、その日を待つ約束の泡盛に僕はしみじみとした感情を覚えた。

地上へと戻る帰り道、今年、中学を卒業した子供たちの寄せ書きが飾ってあるのに気がついた。
「自分の夢に向かって頑張ろう」
「島の人に恩返しするために帰ってきます」
「成人式で会ったときは一緒にお酒を飲みましょう」
一つ一つのメッセージが前向きな言葉で綴られていて、どこか大人びた落ち着きも感じられた。反抗期真っ盛りだった自分の15歳の頃と重ねてみるとぜんぜん違う。15歳で島を離れなくてはならない運命が彼らの心を大人に引き上げているのかもしれない、と思った。
星野洞は地震が少なく、状態の良い鍾乳石が多い鍾乳洞として知られている。そんな貴重な鍾乳洞が実は泡盛の熟成貯蔵庫になっていると、その手の専門家が知ったら卒倒してしまうかもしれない。昔は子供たちの遊び場でもあったため折れてしまった鍾乳石もあったそうだ。
もし星野洞が本土や本島にあったとしたら間違いなく規制されていただろう。でも、ここが、遠く離れた南の島だったから残った。それでいいのだと思う。
途方もない時間をかけて、今でさえ成長と漂泊を続ける島の自然史と、苦労を重ねて土地を切り拓いた人々の開拓史とが交錯する場所。それがこの星野洞なのだった。

(次週へ続く。沖縄県大東諸島の旅は全4回を予定しています)

サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その2

2016年12月07日

背の高い給水塔が二本立つ島の中心集落の在所周辺は、思っていたよりも随分と栄えていた。役場に交番、診療所、郵便局といった施設に加えて、島の台所を支えているであろう生協スーパーと、他にも商店が三、四軒。とりわけ目立つのが飲食店で、ざっと見て回っただけで十軒以上はある。外観はどこも年季が入っていたので、かつての島の賑わいを偲ばせる夢の跡、かと思いきや、ほとんどが今も営業中だという。現在、島の人口は1400人弱というから、不釣り合いなぐらいに多い気がする。
ともあれ、僕のような島外の人間が島で苦労するのは何と言っても食料の確保になるのだから、ここでは取り越し苦労になりそうなことに一安心した。

なんとパチスロ店もあった。時代が止まったかのような店構えだったので、流石にここはもうやっていないものかと思っていたら、夜に通りがかった時には、明かりが灯って中からピコピコという電子音が聞こえてきたのだから恐れ入る。

昔ながらの個人経営の店が潰れて、経済が衰退する島も多い中で、南大東島ではある程度の経済規模が維持されている理由はどこにあるのだろう。本土や沖縄本島から遥かに離れ、隣に浮かぶ北大東島でさえ、険しい地形のために定期船や飛行機でなければ往来ができない孤島だ。ちょっと足を延ばして大型スーパーに…なんてことは不可能な土地柄である。絶対的に孤立していたが故に、島の経済は生き延びたと言えるのかもしれない。

とはいえ、今もなおサトウキビが主な産業であるモノカルチャー島のため、島に自給能力はなく、島は外界に依存しなければ生活は成り立たない一面もある。島外からの輸入に頼る食料品は外界の影響が顕著に現れる。
立ち寄った生協の生鮮品コーナーではキャベツが498円、レタスが650円で売られていた。法外とも言える値段に、南の島暮らしもなかなか大変だな…と値札をまじまじ見入っていたら、
「このレタスはね、このあいだ台風で船が止まった時は1350円だったんですよ」
と買い物に来ていたおばさんが教えてくれた。
1350円のレタスは島でも大騒ぎになって、そればかりか本島からも飛行機に乗ってテレビ局が取材に来たらしい。果たして誰か買い手は付いたのだろうか。買った人にそのレタスの味はどうだったのか尋ねてみたいと思った。

今日お世話になる予定の民宿との約束の時間までまだ時間があったので、先に昼食にすることにした。南大東島ではまずはこれ、というのが大東そばと大東寿司だ。

大東そばとはガジュマルの灰汁の上澄みと海洋深層水で練り上げた小麦粉の麺で、豚とカツオだしのあっさりしたスープで食べる。沖縄そばの一つに分類させる料理である。コシがあって太めの麺が特徴というだけあって、麺をすすると小さい頃に食べたすいとんのような素朴で懐かしい小麦の風味が口の中に広がった。
一方、大東寿司は醤油のタレに漬け込んだマグロやサワラなどをネタにして握られる寿司で、八丈島の島寿司にルーツを持つ料理である。寿司には八丈島では用いられないわざびが入っていたのを除けば、ほとんど一緒の味だった。
大東そばと大東寿司のセットの付け合せにはパパイヤやドラゴンフルーツといったトロピカルフルーツが添えられていた。南国と本土の食べ物がちゃんぽんになった何とも不思議な組み合わせ。これが大東料理だった。

予約しておいた民宿きらくへ向かうと、よく日に焼けた元気なオバアが部屋を案内してくれた。

かつては出稼ぎ労働者の寮だったのではないかと思わせる長屋風情の建物は、エアコンに冷蔵庫が付いた個室で2500円なのだから、文句無しである。

部屋に荷物を運び入れた後、空荷の自転車で島を散策に出かけた。とはいえ、もうそれほど日も長くないので、本格的に島を走り回るのは明日することにして、まずは近場を見て周ることにした。

「こんにちはー!」
ふるさと文化センター前で野球をしていた子どもたちが大きな声で挨拶をしてくれた。何かと物騒な世の中で、知らない人とは関わってはいけませんなんて教えられる世の中で、この元気な挨拶は痛快である。この気持いい挨拶が残っているというだけでも、この島はとても貴重な島だと思う。

子供たちが遊ぶ敷地の脇には、その昔、島を走っていたという2台の機関車が展示されていた。サトウキビを運搬するために考案されたという産業鉄道の別名はシュガートレインである。シュガートレインは島全体を循環し、1983年まで活躍していたそうだ。今でこそ日本最南端の駅は、ゆいレールの那覇空港駅だが、かつての最南端がこんな小島に存在していたことは、当時の繁栄に想像を張り巡らせるには十分だったし、ロマンのようなときめきを感じた。

文化センターに立ち寄ると、館内は電気がついておらず薄暗い状態だった。受付にいたおばさんがやって来て電気をつけてくれた。あまり観光客が立ち寄らないため、その都度、電源を入れるシステムのようだ。
そんな寂しい文化センターだったが、館内には八丈太鼓や江戸相撲の化粧廻しなどの八丈島ゆかりの品々に加えて、開拓時代の農耕具や生活用品など島の歴史を伝える貴重な資料が数多く展示されていた。
玉置商会や大日本製糖が島を経営していた時代の島内紙幣もここで見ることができた。

ここで、企業による植民地的統治支配後の島の歩みを記しておこう。戦後1946年に沖縄の一部としてアメリカの軍政下に置かれた島は、村庁舎を設置し、ようやく南大東村としての歴史をスタートする。大日本製糖の社員は追放された。
しかし、大日本製糖撤退後に残ったのが土地の所有権問題である。島の土地所有権は引き続き大日本製糖にあるとされたため、島民らは激しく反発する。島民たちは開拓時に「30年間島を耕したら土地をもらえる」と玉置半右衛門と約束したと主張した。土地所有権が島民に帰属すると裁定されるのは1964年のこと。そして1972年に沖縄本島とともに日本に復帰を果たした。
南大東島の開拓の歴史は120年にも満たない短い歴史にも関わらず、その歩みはさまざまな紆余曲折を経て現在に至っている。

いや、もしかすると紆余曲折はこの先にも待ち受けているのかもしれない。
例えば、参加の是非が連日のように取り沙汰されているTPPは、大局的に見ればグローバル化を推進させて貿易のさらなる拡大に貢献できるようになると言われている。けれど、視点をミクロに落として、今も昔もサトウキビ産業で生きる南大東島を見てみれば、壊滅的な打撃を与えることは明白である。そうなった場合、未来の島には人がどれだけ残っていることだろう。

南大東村の発足後、1950年に興った大東糖業の工場の煙突には「さとうきびは島を守り島は国土を守る」という言葉が記されている。では果たして、国はいったい何を守ってくれるのだろうか? 余計なお世話と思いつつも、そんなことがふと気になった。

(次週へ続く。沖縄県大東諸島の旅は全4回を予定しています)

サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その1

2016年11月30日

もう十一月になるというのに国際通りは汗ばむ陽気で、まだ夏の残り香がたっぷりと漂っていた。賑やかで仰々しい土産物屋の連なりで耳にするのは中国語に英語、それからタイ語などの外国語ばかりで日本語の存在感はかなり小さい。
外国にでも来てしまったのだろうかと、少し浮ついていると道の反対側に修学旅行の学生団体を見かけて、ここが日本だということを改めて確認する。

けれど、足を延ばした先の公設市場で売られていたのが、ブルーの鱗がぬらぬら光るアオブダイや握り拳よりも大きな夜光貝、巨大な体にいかついハサミを構えたカニなど、なかなか見かけない南国の魚介ばかりだったから、僕は再び不思議な倒錯感を覚えた。
ここは日本でも、本土とはまるで異なる南国的ニッポン。満を持して、沖縄への初上陸である。

どうしてここにやって来るのに、これほど時間がかかってしまったのかは分からない。世界のあちこちを旅して、今は島を巡る旅をしているにも関わらず、ぽっかりと抜け落ちていた場所。それが僕にとっての沖縄だった。
だから、満を持してというよりも、ようやくと言った方が頃合なのかもしれないけれど、とにかくようやく沖縄を訪ねるきっかけを得た。
きっかけとは前回旅した八丈島出身の開拓民が切り拓いたという大東諸島のことだ。沖縄でありながら八丈島文化が根付くという島々に興味を引かれた僕は、まずは入り口となる那覇へと飛んできた。そして、どこか東南アジアの国々を彷彿とさせる南国の空気を味わいながら二日間を過ごした後、大東諸島へ向かった。

北大東島と南大東島で構成される大東諸島は沖縄本島の東350km程にちょこんと浮かぶ小島で、周囲に他の島はなく、地理的に孤立している。
島へのアクセスは週に1、2本の定期船の他に、空の便が毎日就航している。現地での滞在日数を考えて、行きは飛行機、帰りは船で往復することにした。飛行機といっても座席数39席の小さなプロペラ機で、今回の乗客は僅かに14名。大東諸島は沖縄の人間にとっても遠い島なのである。

フェリーならば15~16時間ほどかかる距離を、飛行機は1時間で結ぶ。早いのは結構なことだったけれど、シートベルト着用のサインが消えて、さんぴん茶の機内サービスが配られたと思ったら、まもなくすぐに着陸態勢に入るというからけっこう忙しない。やがて左手前方に南大東島が見えてきた。

山らしい山も見当たらず平たい緑の台地がのっぺりと広がる島だった。周りを取り囲むフチの部分は浜辺の一切がなく、ごつごつした岩肌の岸壁が続いていて、船での上陸の難しさを感じさせたけれど、上空から眺める率直な感想としては、気候穏やかそうな南の島との印象を受けた。それは奥に見える北大東島も同様だった。最近は火山島ばかり訪れていたから特にそう感じたのかもしれないが。

滞り無く無事に着陸。バゲージクレームのベルトコンベアもない小さな空港は飛行機が到着した時だけささやかな賑わいをみせる。出迎えには、沖縄らしい南洋の顔つきの人もちらほら見かけたのに加えて、肌も顔立ちも明らかに南国出身を確信させる人間も何人かいた。出稼ぎ労働者だろうか。
僕と入れ替わるようにして、空港で待機していた人々が戻り便となる飛行機に乗り込み出した。
ちなみにこの大東航路はとてもユニークな航路で、戻り便は隣の北大東島に立ち寄ってから那覇へと向かう三角航路なのだけれど、南大東島と北大東島の距離は直線で12km程度しか離れていない。だから飛行時間は短いときでたったの三分しかないそう。離陸した瞬間に着陸体制に入るという日本一短い航空路線となっている。
大東航路は曜日によって南大東島を先に周る南先行と、北大東島を先に周る北先行があるので、北先行便に乗っていれば僕もこの三分間フライトを楽しんでから南大東島にやって来れたはずなのだが、それを知ったのは飛行機を予約した後だったから、ちょっと悔しい思いをしてしまった。

北大東島経由那覇行の飛行機のプロペラのはためきを聞きながら、自転車を組み立てていると、いつものように島人の老夫婦に声をかけられた。
「自転車ですか。何もないところですけど、何をしに来たんですか?」
「先日、八丈島を訪ねてまして。この島が八丈島とゆかりがある島だと聞いてやってきました」
「そうですか。私の生まれは八丈ですよ」
さっそく八丈島に縁がある人物が現れるとは幸先がいい。やはり今も結びつきはしっかり残っているようだ。
「ここは何もない島ですけどね。ゆっくりだけはできますよ」

老夫婦が立ち去った後の空港は人気がなく、がらんとしていた。
自転車を組み上げると、サドルに跨って、さっそく島へと漕ぎ出すことにした。
空港の駐車場の出口には"おじゃりやれ"と掘られた石碑が立っていた。おじゃりやれは、"ようこそ"を意味する八丈言葉だ。島と島の繋がりが、ここにもあった。
おじいさんは何もない島だと繰り返し言っていたけれど、何もないどころか、僕にとっては冒頭から発見だらけだった。

走り出すとすぐにサトウキビ畑が広がっていた。平坦な地形も手伝って、島とは思えない、大陸を彷彿とさせる広大なスケール感でどこまでも続いている。南大東島は島の六割がサトウキビ畑だという。サトウキビは開拓以来ずっと変わらず中心産業で有り続けている。

島の開拓史もまた独特でとても興味深い。
もともと無人島だった南大東島は、明治時代に日本として領有が宣言されて以後、政府に多くの開拓願いが寄せられたが、周りを囲む険しい岸壁のために上陸を阻まれ続けていた。1900年になってようやく上陸を成功させたのが、八丈島の実業家の玉置半右衛門の送った23名の開拓民だった。半右衛門は八丈島の遥か南に位置する鳥島でアホウドリの羽毛貿易で巨万の富を築いた人物であったが、乱獲によりアホウドリはほとんど絶滅に追い込まれていた。
羽毛に変わる新たな事業を画策する中で、目をつけられたのが南大東島だった。開拓民たちは平坦で肥沃な土地を利用して大規模なサトウキビ栽培を始め、1903年には北大東島の開発も始まり、こちらではサトウキビの単一栽培に加え、燐鉱石の採掘も行われた。以来、島には八丈島のみならず、沖縄や台湾などからも出稼ぎ労働者がやって来て、入植から十数年で、島の人口はそれぞれ2000~3000人の人口を抱えるほどに栄えた。

これだけ労働者が集まっていた大東諸島だったが、当時は市町村が置かれておらず、島は半右衛門の会社である玉置商会によって統治されていた。島のインフラ整備から学校や病院、商店の経営、郵便に至るまで行政と経済活動のすべてを玉置商会が担っていた。
流通する通貨までも独自の玉置紙幣を発行していたというのだから驚いてしまう。玉置紙幣は島内でしか使用することはできず、労働者への賃金は玉置紙幣で支払われていたため、彼らは島から逃げ出すこともできなかった。
半右衛門の死後、急速に経営が傾いた玉置商会の権益は東洋精糖へ売り渡され、さらに東洋精糖は後に大日本製糖に吸収合併されるようになるが、それでも一企業による島の支配は戦後まで続いた。
主権は国にありながらも、実際は一つの会社がすべてを支配する島がつい100年前の日本に存在していたなんて。サトウキビに刻まれた奇異な歴史に何とも言い難い好奇心を掻き立てられた。

刈り入れを間近に控えたサトウキビは僕よりも背が高く、風に揺られて穂先が優しくざわめいていた。ざわめきは何を語っているのだろう。このサトウキビこそがこの島の栄枯盛衰を物語る生き証人である。

(次週に続く。沖縄県大東諸島の旅は全4回を予定しています)