サトウキビ王国のあった島 沖縄県大東諸島の旅その2
背の高い給水塔が二本立つ島の中心集落の在所周辺は、思っていたよりも随分と栄えていた。役場に交番、診療所、郵便局といった施設に加えて、島の台所を支えているであろう生協スーパーと、他にも商店が三、四軒。とりわけ目立つのが飲食店で、ざっと見て回っただけで十軒以上はある。外観はどこも年季が入っていたので、かつての島の賑わいを偲ばせる夢の跡、かと思いきや、ほとんどが今も営業中だという。現在、島の人口は1400人弱というから、不釣り合いなぐらいに多い気がする。
ともあれ、僕のような島外の人間が島で苦労するのは何と言っても食料の確保になるのだから、ここでは取り越し苦労になりそうなことに一安心した。
なんとパチスロ店もあった。時代が止まったかのような店構えだったので、流石にここはもうやっていないものかと思っていたら、夜に通りがかった時には、明かりが灯って中からピコピコという電子音が聞こえてきたのだから恐れ入る。
昔ながらの個人経営の店が潰れて、経済が衰退する島も多い中で、南大東島ではある程度の経済規模が維持されている理由はどこにあるのだろう。本土や沖縄本島から遥かに離れ、隣に浮かぶ北大東島でさえ、険しい地形のために定期船や飛行機でなければ往来ができない孤島だ。ちょっと足を延ばして大型スーパーに なんてことは不可能な土地柄である。絶対的に孤立していたが故に、島の経済は生き延びたと言えるのかもしれない。
とはいえ、今もなおサトウキビが主な産業であるモノカルチャー島のため、島に自給能力はなく、島は外界に依存しなければ生活は成り立たない一面もある。島外からの輸入に頼る食料品は外界の影響が顕著に現れる。
立ち寄った生協の生鮮品コーナーではキャベツが498円、レタスが650円で売られていた。法外とも言える値段に、南の島暮らしもなかなか大変だな
と値札をまじまじ見入っていたら、
「このレタスはね、このあいだ台風で船が止まった時は1350円だったんですよ」
と買い物に来ていたおばさんが教えてくれた。
1350円のレタスは島でも大騒ぎになって、そればかりか本島からも飛行機に乗ってテレビ局が取材に来たらしい。果たして誰か買い手は付いたのだろうか。買った人にそのレタスの味はどうだったのか尋ねてみたいと思った。
今日お世話になる予定の民宿との約束の時間までまだ時間があったので、先に昼食にすることにした。南大東島ではまずはこれ、というのが大東そばと大東寿司だ。
大東そばとはガジュマルの灰汁の上澄みと海洋深層水で練り上げた小麦粉の麺で、豚とカツオだしのあっさりしたスープで食べる。沖縄そばの一つに分類させる料理である。コシがあって太めの麺が特徴というだけあって、麺をすすると小さい頃に食べたすいとんのような素朴で懐かしい小麦の風味が口の中に広がった。
一方、大東寿司は醤油のタレに漬け込んだマグロやサワラなどをネタにして握られる寿司で、八丈島の島寿司にルーツを持つ料理である。寿司には八丈島では用いられないわざびが入っていたのを除けば、ほとんど一緒の味だった。
大東そばと大東寿司のセットの付け合せにはパパイヤやドラゴンフルーツといったトロピカルフルーツが添えられていた。南国と本土の食べ物がちゃんぽんになった何とも不思議な組み合わせ。これが大東料理だった。
予約しておいた民宿きらくへ向かうと、よく日に焼けた元気なオバアが部屋を案内してくれた。
かつては出稼ぎ労働者の寮だったのではないかと思わせる長屋風情の建物は、エアコンに冷蔵庫が付いた個室で2500円なのだから、文句無しである。
部屋に荷物を運び入れた後、空荷の自転車で島を散策に出かけた。とはいえ、もうそれほど日も長くないので、本格的に島を走り回るのは明日することにして、まずは近場を見て周ることにした。
「こんにちはー!」
ふるさと文化センター前で野球をしていた子どもたちが大きな声で挨拶をしてくれた。何かと物騒な世の中で、知らない人とは関わってはいけませんなんて教えられる世の中で、この元気な挨拶は痛快である。この気持いい挨拶が残っているというだけでも、この島はとても貴重な島だと思う。
子供たちが遊ぶ敷地の脇には、その昔、島を走っていたという2台の機関車が展示されていた。サトウキビを運搬するために考案されたという産業鉄道の別名はシュガートレインである。シュガートレインは島全体を循環し、1983年まで活躍していたそうだ。今でこそ日本最南端の駅は、ゆいレールの那覇空港駅だが、かつての最南端がこんな小島に存在していたことは、当時の繁栄に想像を張り巡らせるには十分だったし、ロマンのようなときめきを感じた。
文化センターに立ち寄ると、館内は電気がついておらず薄暗い状態だった。受付にいたおばさんがやって来て電気をつけてくれた。あまり観光客が立ち寄らないため、その都度、電源を入れるシステムのようだ。
そんな寂しい文化センターだったが、館内には八丈太鼓や江戸相撲の化粧廻しなどの八丈島ゆかりの品々に加えて、開拓時代の農耕具や生活用品など島の歴史を伝える貴重な資料が数多く展示されていた。
玉置商会や大日本製糖が島を経営していた時代の島内紙幣もここで見ることができた。
ここで、企業による植民地的統治支配後の島の歩みを記しておこう。戦後1946年に沖縄の一部としてアメリカの軍政下に置かれた島は、村庁舎を設置し、ようやく南大東村としての歴史をスタートする。大日本製糖の社員は追放された。
しかし、大日本製糖撤退後に残ったのが土地の所有権問題である。島の土地所有権は引き続き大日本製糖にあるとされたため、島民らは激しく反発する。島民たちは開拓時に「30年間島を耕したら土地をもらえる」と玉置半右衛門と約束したと主張した。土地所有権が島民に帰属すると裁定されるのは1964年のこと。そして1972年に沖縄本島とともに日本に復帰を果たした。
南大東島の開拓の歴史は120年にも満たない短い歴史にも関わらず、その歩みはさまざまな紆余曲折を経て現在に至っている。
いや、もしかすると紆余曲折はこの先にも待ち受けているのかもしれない。
例えば、参加の是非が連日のように取り沙汰されているTPPは、大局的に見ればグローバル化を推進させて貿易のさらなる拡大に貢献できるようになると言われている。けれど、視点をミクロに落として、今も昔もサトウキビ産業で生きる南大東島を見てみれば、壊滅的な打撃を与えることは明白である。そうなった場合、未来の島には人がどれだけ残っていることだろう。
南大東村の発足後、1950年に興った大東糖業の工場の煙突には「さとうきびは島を守り島は国土を守る」という言葉が記されている。では果たして、国はいったい何を守ってくれるのだろうか? 余計なお世話と思いつつも、そんなことがふと気になった。
(次週へ続く。沖縄県大東諸島の旅は全4回を予定しています)