海の大河を越えて 東京都伊豆諸島の旅その2
港からすぐのところに掘られた青宝トンネルは、外輪山の内側に通じている。外輪山の外縁部に通された道が以前に崩落して以来、この都道236号線が島北部の集落に至る唯一の道路である。
人間と自然のせめぎ合いが見られた島の外側とは違って、内側はほとんど自然に飲み込まれてしまっているような印象を受けた。
外輪山の急斜面から内カルデラとして中心に君臨する内輪山の天辺までを色の濃い常緑樹が生い茂り、足元をシダ植物が覆っていて、深々とした森を形成している。
以前はこのあたりに役場が置かれ、島の中心だった時代もあったようだけれど、今では幅一車線の道路脇に土木関係の作業場と倉庫、それに芋畑が残っているぐらいで当時の面影はまるで皆無だ。この場所で暮らして行くには、自然と戦い続けなければならない。戦いを放棄すれば、森たちまちあらゆるものを丸飲みしてしまう。
いや、それだけじゃなく、蔦が絡んで木の幹を覆い隠していたり、大樹を養分として他の植物が着性している。森の植物たち同士ですら、互いに熾烈な生存競争の最中にいる。
深い森に覆われた内輪山だったけれど、南側の斜面では地表が露出している場所があった。そこからは数カ所、煙が噴出していた。
外輪山と同じく島のもう一つの火山である内輪山は、大地から高温の蒸気が絶えず噴出していて、島では「ひんぎゃ」と呼ばれている。火の際(ヒノキワ)を語源するひんぎゃの熱エネルギーが森の侵食を寄せ付けずにいたのだ。
なんというか、自然との共存や共栄といった生優しい言葉では太刀打ちできない厳しさを、まざまざと見せつけられているような気がした。
どのぐらい島にいることになるのか分からない旅だったので、前回の北海道の旅と同様にキャンプの予定でやって来た。島のキャンプ場は集落から遠く離れたこの森の中にある。
こうも険しい自然を見せつけられると、果たして僕は、何日続くかも分からない島生活を無事過ごしていけるのか、かなり不安になってしまった。
テントを張る前にまずは役場にキャンプの届けを出さなければならず、飲料水も確保しなければならないため、まずは山向こうの集落へ。
外輪山の高台に形成されている島の集落へと続く道は、山の斜面を強引に切り崩して作られていて、とてつもない急勾配の連続だった。斜度が平然と15度程あって、100m進むだけでも額に汗が浮かぶ。「流し坂」と呼ばれているそうだが、言い得て妙だと思う。ハンドルから手を離してしまったら、自転車は途端に真っ逆さまに流れ落ちてしまうだろう。
途中にはこれまた強引にぶち抜かれたトンネルがあったけれど、平成4年にこのトンネルができて以来、これでも島の交通は便が良くなったそうだ。
汗だくになって外輪山上部に出て、そこから何度かのアップダウンを繰り返してやっと集落へ到着。
青ヶ島村は役場と小中学校、郵便局があって、商店が一軒、夜だけの居酒屋が二軒あるだけの小さな村だ。村民は168人で、日本で最も人口の少ない地方自治体として知られている。島の住所はすべて「東京都青ヶ島村無番地」。各家庭に番地は存在せず、宛名だけで郵便物が届く驚きのシステムを採用している。
役場でキャンプの申請登録を済ませ、商店でちょっとした食料を購入した後は、周辺を散策することにした。あの流し坂の激坂を考えたら、一旦テントを張りに内輪山の方に戻るなんてことは考えられなかった。
集落周辺は比較的なだらかな場所に築かれているが、それでも斜面だらけだった。電波塔のある裏山の山肌は緑色のコンクリートで塗り固められていて、よく目立っていたけれど、あれは雨水を用水池に流すための斜面のようだった。ここでの暮らしも決して楽ではなさそうだ。
大凸部(オオトンブ)という島で一番高いところに登ってみることにした。あまり人が訪れないのか遊歩道は草木が生い茂っている。突き当りが展望台になっていて、そこから外輪山で閉ざされた島の全貌を見渡すことができた。
上から全体を見下ろすと、改めてこの島の特異な地形に言葉を失ってしまう。
島はかつて女人禁制の男ヶ島だったとか、あるいは鬼の住む鬼ヶ島だったといった伝説が残っているけれど、ここに広がる奇異なる自然の圧倒的造形は、その伝説は本当にあったのだと語りかけてくるようだ(後日立ち寄った八丈島の民俗資料館に展示されていた江戸時代の地図には「鬼ヶ島」と確かに記されていた)。もし、この島が地中海あたりに浮かんでいたら、きっとコロッセオ島とでも名付けられていたことだろう。
中央部に盛り上がる内輪山が現在のように隆起したのは1785年の大噴火の時のことで、以前は近辺に大小2つの池があったそうだ。当時の名残はキャンプ場周辺の「池之沢」という地名に見出すことができる。
また、その大噴火によって青ヶ島は、無人島となった空白の歴史を持っている。噴火を逃れた島民は八丈島へと渡ったが、時は天明の大飢饉で苦しんでいた時代で、青ヶ島島民の八丈島での暮らしは困窮を極めたのだという。
青ヶ島に人が戻ったのは半世紀後の1832年。青ヶ島生まれの佐々木次郎太夫に率いられ、島民たちは還住(かんじゅう)を果たしたのだそうだ。
今も昔も繰り広げられる自然との戦い。周囲は「鳥も通わぬ黒瀬川」と八丈島の島唄にも歌われる黒潮に囲まれ、一度外へ出たら戻ってくるのも困難だ。
それでも人は還ってきた。この島に住み続ける理由は何なのだろう。それは、この島で生まれ育った人間にしか分からないような気がした。
色々と島の話を聞いてみたかったのだけれど、村人と僕の間にはなかなか近よりがたい距離を感じていた。通りを歩く数少ない村人に「こんにちは」と挨拶を交わしても、そこから会話が始まらない。
「へぇ、自転車で?」「その入れ物には何が入ってるの?」とかろうじて話が広がったとしても、「変な乗り物で島に来るのはいいけど、余計なことはしてくれるなよ?」そんな言葉の裏側が透けて伝わってくる。
島の日常は、僕とこの自転車に戸惑いを見せているように思えた。
この島の人々は名前だけで郵便物が届くような顔の見える社会で生きている。それは東京都本土の、すれ違う人が誰なのかも分からない匿名の社会とは真逆の実名の社会である。
そんな社会においてスーツケースを牽いた自転車で突如現れた僕は"異物"なのかもしれない。
これまで訪れた島々ではその見た目の物珍しさから、会話のきっかけにもなっていた自転車だったけれど、黒潮で隔てられ、外界との接触も少ない青ヶ島には馴染まないものだった。今にして思えば上陸直後の「転んだら死ぬからね」もそういうことだったのかもしれない。
そして、そんな直感には思わぬ事実が隠されていたことを僕はこの夜知ることになる。
日も暮れて、キャンプ場へ戻った僕は、テントを張って近くの入浴施設へと向かった。キャンプ場は周辺は飲水もなく、人も住んでいないけれど、ひんぎゃの熱エネルギーを利用した地熱サウナまでは歩いてすぐなので、お風呂にだけは入りそびれずに済むのが唯一にして最大の利点だ。
脱衣所の床から既に地熱でポカポカとしていて、浴場に至ってはじっと足をつけていられないほどの熱エネルギーが渦巻いている。
はじめは僕だけだったお客も、少しするとおじさんが一人やって来た。二人で高温多湿のサウナ室に腰をかけると、これぞ裸の付き合いの効能とも言うべきか「どこから来たの?」「いつまでいるの?」と、あれだけ距離感を感じていた島の人と初めて会話らしい会話ができた。そんな些細なことに僕はとてもホッとしてしまった。
「船次第ですけど、船があれば明日ですかねぇ」
「たぶん明日は来ないぞ。この島に来る時は帰りのヘリを抑えてからこなきゃあ」
「でも僕、自転車持ってきちゃってるんですよ」
話題が自転車に差し掛かった時、おじさんはそういえば
とつい先日起きた事件を教えてくれた。
「夏にも自転車で来たやつがいたんだけどよ、転んで大怪我してヘリで緊急搬送だよ」
そうか、それでかと僕は頭を抱えたくなった。島の人々のあの妙な距離感の背景には、最近起こった大事故があったのだった。怪我は一刻を争う事態だったらしく、ヘリコプターを八丈島から呼んだのだそうだ。通常一日一往復、たったの9名しか運ぶことができないヘリコプターは島民の貴重な足であり、島民でさえ簡単に乗れない幻の足である。それを観光客が勝手に起こした事故で呼んでしまったのだから、島人の我々に対する、特に自転車乗りに対する信頼が落ちてしまうのは当然のことだった。
おじさんはさらに興味深い話を僕に聞かせてくれた。
「今年のゴールデンウィークには急に観光客が100人も来てよぉ、8月の牛祭りだって50人ぐらいなんだぞ。宿もぜんぜん部屋が足りないよ」
テレビか何かで取り上げられたんですか? と尋ねてみたものの、どうもそういうわけではなくて理由は分からないけれど、とにかく、何故か、急に、外からの人間が押し寄せたらしい。
「外国人も最近は多いよ。フランスだとかカナダとか。"死ぬまでに行ってみたい島"か何かに選ばれたらしくてなぁ」
もう色々と、だいたい見えてきたように思えた。
この島は今、外の世界に大きく晒されているのだ。それは島の誕生以来、初めての事と言ってもいい。インターネットやテレビが瞬く間にこの島の存在を世界中に知らしめ、性能が向上した船が以前よりもずっと容易に島の往来を可能にした。僅かながらヘリコプターもある。黒潮に囲まれて絶海の孤島として存在していた青ヶ島も、否応なしにグローバル化する世界のうねりに飲み込まれようとしていたのだ。
そこで外からやって来た異分子が事故を起こしたり、大挙してやってきたとすれば、島の人間がナーバスになるのも分かる。
散歩に出かけた観光客が森で遭難しかけたこともあったそうだ。島への興味だけが先行していて、訪問者としての心構えが疎かになっていれば事件事故は当然起こる。厳しい自然の島だから尚の事だった。
もちろん僕もその中の一人であることは間違いなくて、僕の存在が島の心配を煽っているのかもしれないと考えると、いたたまれない気持ちになった。けれど、島に来てしまったからには、この島を去るには一日一本の船が来るのを待つしかない。こういう時ばかりは、ここが未だ海で閉ざされた孤島なのだと都合よく思った。
夜になると雨がパラつき出し、日付が変わるぐらいの時間には嵐のような風が吹き荒れた。風雨は夜が明けても止まず、テントの外へ出られなかった。こうなる頃にはもう覚悟がついていたが、「本日の八丈島連絡船は欠航となります」の村内放送が風に紛れて聞こえてきた。
おじさんの予言とおり、船は無くなってしまった。明日と明後日はメンテナンスで運休日だそうだから、少なくともあと3日はこの島への滞在が確定したことになる。
(次週に続く。東京都伊豆諸島の旅は全4回を予定しています)