ノエル・ホーザとアントニオ・カルロス・ジョビン
リオ・デ・ジャネイロの音楽を収録するために我々は調査を始めた。さすが音楽の国、音源、楽曲資料だけでも膨大にある。何週間かブラジルの音楽資料をひっくり返し、CDを入手し、リオの歴史を調べていくうちに1930年頃、彗星のように現れ200以上の曲を残し、若くしてこの世を去ったノエル・ヂ・メデイロス・ホーザというサンバに大きな足跡を残した作曲家を発見した。早々にブラジルに問い合わせてみると、なんと229曲におよぶCD音源があるという。長年この仕事をしているが70年以上前の音源がほぼ完全な形で手に入ることは大変まれである。いかにノエル・ホーザがブラジルの人々に愛されまたサンバにとって重要な作品を残したがうかがえる話である。
期待に胸膨らましながら待つこと2週間、手元に届いた素敵なCDセット、最近はダウンロード流行りであるが、こんな感動はやはりCDでなければ味わえない。7枚のCDとCD1枚分はあろうかと思われる解説書。すばらしい。
最高のサンビスタ、ノエル・ホーザについてはBGM13のライナーノーツ、中原仁さんの解説を引用させていただく。
初期のサンバを代表する作曲家/歌手にノエル・ホーザがいる。ヨーロッパ系の中流階級の家に育ったが、サンバに目覚めてボヘミアンの生活に身を投じ、下町のバーに通いつめて音楽仲間と交流しながら作曲をスタート。叙情的で繊細な歌ごころを伝える作品は1930年代、ラジオやレコードの浸透と共に大勢の歌手によって歌われ、リオの人々の心をとらえた。ノエル・ホーザは1937年、26歳の若さで病に倒れ世を去ったが、10年足らずの間に発表した作品は200曲以上にのぼる。その多くがスタンダード・ナンバーとして今も歌われており、ボサノヴァの二大創始者であるアントニオ・カルロス・ジョビンもジョアン・ジルベルトも、ノエルの作品を録音したほどだ。ノエル・ホーザのサンバはカリオカのハートビート、そう言っても決しておおげさではない。
(中原 仁)
ヴィラ・イザベルのノエル・ホーザブロンズ像
中原さんの文中に出てきた「カリオカ」という言葉だがこれは「リオっ子」というような意味で「江戸っ子」と同じように自負と気質を表した呼び名です。
そんなカリオカの一人であるノエル・ホーザの生まれた街を見てみたいと、レコーディングの合間をぬって下町、ヴィラ・イザベルに出かけてみた。彼は良くバーで作曲をしたらしい、その雰囲気をそのまま再現したブロンズ像が街の目抜き通りに建っていた。ふとその像に続く歩道をみると、なんと舗装に五線譜がちりばめられている。良く見てみると彼の曲だった。それも一曲ではなく何曲かが歩道を彩っている。白と黒の歩道石が丁寧に組まれていて、その手間からもカリオカ達が彼をいかに愛し、尊敬しているかがわかる。
歩道が五線譜。その上を人々が行き過ぎていく。
そして、ノエル・ホーザと同じようにブラジル音楽に大きな足跡を残し、人々に愛されている偉大な音楽家がもう一人いる。ボサノバの巨星アントニオ・カルロス・ジョビン。彼の生誕80周年を記念して建てられた、Espaco Cultura Meio-Ambiente Antonio Carlos Jobimという記念館にも足を運んでみた。記念館はジョビンが愛したジャルヂン・ボタニコ(植物園)という気持ちの良い空間のすぐ脇にある。
ジャルヂン・ボタニコ(植物園)には多くの人が集っていた。
お気に入りだった葉巻とパナマ帽
驚いたことは二カ所とも観光名所としてではなく、カリオカ達の日常生活の中に偉大な音楽家を棲まわせていることだった。散歩をしたり、買い物をしたりする日常導線にさりげなく、あくまでもさりげなく彼らの思い出が置かれていた。カリオカがどのように音楽を愛し、音楽家愛するかがわかる豊かな出来事でとてもうらやましく思った。あとで知ったのだが、リオ・デ・ジャネイロ国際空港はガレオン国際空港と呼ばれていたが1999年アントニオ・カルロス・ジョビン空港に名称を変更されている。音楽家の名前を冠した空港は他にはポーランドのヴェニャフスキ空港くらいだろうと思う。もっともこちらは2007年だからリオに刺激されて名前をつけたのかもしれない。ここにも歴史を博物館に入れず、自分たちのもとして生活していく思い、今を生きる歴史があった。