連載ブログ 音をたずねて

マスタークムフラ ジョージ・ナオペ

2011年08月17日

今回は無印良品BGMのサウンド・プロデュースをお願いしたアンクル・ジョージことジョージ・ナオペ氏の紹介をしたいと思う。

アンクル・ジョージ氏の歩んだ道はそのままハワイの近年史だと思う。
18世紀後半にキャプテン・クックがハワイ諸島を訪れハワイの西洋化が進む中で、19世紀初頭にフラの禁止令が発布され19世紀後半カラカウア王がフラ禁止令を解除するまでの50年余りの間に、ハワイの伝統文化は徐々に衰退していった。


アンクル・ジョージからいただいたジンジャーの花のレイ

そのような中で1893年にハワイはアメリカ合衆国に併合され、1901年にはハワイ語が禁止されてしまう。そのような状態の中で開かれたパナマ・太平洋国際博覧会(1915年サンフランシスコ)では観光地ハワイのプロモーションとしてフラとハワイ音楽が紹介され大人気をはくした。1930年代からはハリウッド映画でも楽園ハワイをイメージした映画が制作され、1960年には絶頂期を迎えた。しかしこれらで使用された音楽はネイティブ・ハワイアン達が「パパ(半分)・ハオレ(白人)音楽」と呼ぶものであり、彼らの音楽を利用して新たに制作されたハリウッド・スタイル音楽だった。もちろん踊りも脚色され観光用のものになっていた。


アンクル・ジョージの住んでいた コナの町

1960年代になるとハワイアン達は自分たちのアイデンティティに目覚め、ハワイの伝統文化の復興を目指すハワイアン・ルネッサンスの時代を迎える。1964年にはハワイ島ヒロでハワイアンの伝統文化普及、継承に大きな役割を果たすことになる「メリー・メリーモナーク・フェスティバル」が生まれる。
このフェスティバルは地元のハーラウ(フラの教室)単位でしか出場はできない、正当なフラの祭典でフラ・カヒコ(古典フラ)とフラ・アウアナ(現代フラ)を明確に分けた厳しい規則を持つハワイアンのための祭典である。ハワイの伝統文化の継承と伝統文化が受けてきたつらい過去の歴史が繰り返されないよう、正しく理解され、守られ、伝承される事を望み、このフェスティバルを実現し、一生をかけて育ててきたのがマスタークムフラ、アンクル・ジョージ・ナオペ氏である。その功績をたたえ2006 年には全米芸術部門で最高位の賞である「National heritage Fellowship of Award」が授与された。


ミーティング中のアンクル・ジョージ

「メリー・モナーク・フェスティバルにはハワイアンが主宰するハーウラしか参加できない。日本人は練習熱心だから参加したら入賞するかも知れない。しかし、フラはハワイの伝統文化である。ハワイの人間しかハワイの舞台は造れない。私たちの文化は私たちで復活させなければならなかった。日本人はハワイアンが好きでフラがうまい。しかし日本には素晴らしい文化があるのだから、自分たちの伝統、今を生きて子孫達にも継承していく文化を大切にしたほうが良い。」メリー・モナーク・フェスティバルやフラにつてお話しをうかがう中でアンクル・ジョージ氏が何度も僕たちにおっしゃった言葉だった。


美空ひばりさんとも仲が良かったとおっしゃるように親日家でもある。酔うと「清水港の次郎長はーー♪」とウクレレ片手に披露してくれた歌はとても粋なものだった

様々な歴史の中を歩んでこられた氏が「今回のようなCD制作の話は、本来アメリカからあることが良いのだがいまだかって話はない。私がやりたいことを日本から君が話を持ってきたことがとてもうれしい」「ハワイアンのフラのすべてを詰め込んだアルバムにしよう」こうおっしゃったことがとても印象に残った。
我々が思っていたことをアンクル・ジョージが自分の言葉としておっしゃってくれた。
やはり本当のハワイはあった。今回の出会いを実現してくださった松本大学の山根教授にはとても感謝している。

  • プロフィール くらしの良品研究所所員
    Y.Iさん

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