レコーディング開始
いよいよレコーディングの朝が来ました。9時にホテルを出てオーコーネル通りを北に向かうとブレシントン通りに入ります。歩行者信号のとても短い交差点をすぎればスタジオです。少し早く着いてしまったと思ったら、スタジオの前で初日のミュージシャン、ミレラ・マレイが待っていました。彼女は鍵盤アコーディオン奏者ですが、彼女のお父さんはシャーンノス・ダンサーでした。シャーンノスとはアイルランドの伝統的様式のダンスでスコットランドのハイランド・ダンスとも似て、床をリズミカルに蹴るのが特徴でアイルランドというとリバーダンスを想像される方も多いと思いますが歴史が浅く、アイルランドの伝統舞踊の一つがこのシャーンノスです。
さっそくレコーディングの打合せが始まりました。
譜面ではなく伝承という方法
幼少の頃から伝統音楽に親しんで育った彼女の腕前は素晴らしく、フィドル演奏者のトーラ・カスティとのデュオで制作した「Three Sunsents」はIrish TimeのTop5に選ばれるほどで、アイリッシュ・ミュージック・マガジンの新人賞も受賞しています。そんなミレラが約束の時間よりも早くアコーディオンと共に待っていてくれました。私は初めてお会いしたのですが、アイリッシュらしい生真面目さとその笑顔のおかげで、とても気持ちの良いスタートになりました。写真は左がミレラ、真ん中がピアノのキャスリーン・ボイルです。キャスリーンもアイルランド、英国の両方の国において、ピアノとアコーディオンで全国首位タイトルを取得し、99年にROYAL SCOTTISH ACADEMY OF MUSIC AND DRAMA を伝統音楽専攻の最初の学生として卒業しています。今回レコーディングでは彼女のひいおじいさんが作曲した曲も収録しました。
ミレラの録音風景です。
日本でもTVなどで放映され、有名になったアイルランドの伝承曲、ダウン・バイ・ザ・サリー・ガデンズを含め4曲の伝統音楽を収録させてもらいました。
普通はフィドルがメロディを奏でることの多いダウン・バイ・ザ・サリー・ガデンズですが今回はアコーディオンとピアノで演奏してもらいました。興味深いことにいつも聞くフィドルがリードの曲と全く違うアレンジなのですが、演奏から伝わる情感は同じでした。
彼女の前に譜面台がないのを気づかれるでしょうか。今回の演奏家達皆さんが一度も譜面を見ることはありませんでした。このクラスの演奏家になると2000曲あまりの曲が頭に入っているといいます。アイルランドの伝承曲の多さにも驚かされますが、全て頭に入っていることには感動してしまいます。音楽は譜面印刷の出現で発展してきましたが、譜面どおりの音楽ほど無味乾燥なものはありません。最近のコンピューターでの再生音楽もアレンジャーが抑揚をつけて初めて聞ける音楽になります。ご存じのように、演奏もそれぞれの演奏家によって微妙に弾き方や曲の解釈も違います。ある意味では譜面通りの正確な演奏が良い演奏とは限りません。情感のある良い演奏は譜面をどのように解釈するかですが、伝統音楽のような地元に根付いた音楽は解釈だけでは本当の意味での演奏はできない抑揚を持っていると感じます。これはその土地ならではの文化であり血だと感じています。特にアイルランドの音楽は伝承音楽といっても良いほど譜面に書けない、強い特徴と抑揚を持っています。
音楽学校の生徒風のストリート・ミュージシャン
街やパブが音楽修行の場
話はレコーディングから離れますが、アイルランドほど街に音楽が溢れているところは見たことがありません。それも伝統音楽で溢れています。ここに掲載したストリート・ミュージシャンはごく一部で街のあちらこちらで演奏しています。またアイリッシュ・パブに毎夜ミュージシャン達が集まり一晩中演奏しているパブも沢山あります。通常、その場に譜面はなく、リーダー格の人が弾き始めた曲を皆で演奏します。リーダー格のミュージシャンは3000曲ほど知っている場合が多いそうです。曲を知らない場合はもちろん演奏できません。まず、曲を体で覚え、演奏技術を学ばないとアイリッシュ・パブでは演奏できません。参加するだけでもたいへんな口伝の方法が今でもここアイルランドでは主流のようです。そこには、楽譜にできない抑揚と表現があり、それが伝統音楽の独特の発展を促し、土地の文化との結びつきをさらに高めていくのだと思います。伝統音楽は地域の仲間のための「音楽」であり、生活の中での自然な営みのようにも見えました。ストリート・ミュージシャンにとって街は修行の場であり伝承の場でもあるように思えました。
一人で演奏していたストリート・ミュージシャン
アイリッシュ・ミュージックとケルト・ミュージック
皆さんもご存じのエンヤも音楽一家の中で育ち、兄弟もミュージシャンです。推測ですがエンヤもこうした音楽文化の中で育ったミュージシャンだと思います。エンヤはケルト音楽といわれ独特の世界を持っていますが、このケルト音楽の定義が非常に難しく、楽譜上ではできないのではないかと思っています。真似をして楽譜どおりに演奏し、歌ってもただのコピーになってしまう可能性が高いと思います。
この伝統音楽の持つ地域独特の抑揚というかニュアンスが海を挟んだアイルランド、スコットランド、ブルターニュ、コーンウオールの伝統音楽にも共通していることに興味を覚えます。これらの地域はいわゆる島ケルト4地区と呼ばれます。この4地区に共通な音楽の傾向と抑揚は伝承によって伝わったケルト音楽ではなかろうかと私は考えています。各地域ではケルト音楽の催しが数多く開催されています。紀元前に広まったケルト文化は文字を持たず、もちろん楽譜もなかった時代ですから、ケルト音楽がどのようなものであったかは定かではありません。共通の伝統楽器としてもハープやパイプ、バウロンなど独特の楽器もあります。伝統音楽が祭や戦いなどの場で皆がダンスや唱和する参加型の音楽として成立し、口伝によって伝承し発展してきたとすれば、この4地区特有の抑揚やニュアンスの部分がまさにケルト音楽ではないかと考えるのも妥当なように思います。そしてそのケルト音楽がとても色濃く残るのがここアイルランドです。アイリッシュ・パブやストリート・ミュージシャンが見せてくれているものは今様のケルト文化ではないでしょうか。