フラメンコ発祥地アンダルシア
バルセロナを後にしてやっと目的地アンダルシア地方の都市セビリアにたどり着きました。今回の収録はフラメンコの発祥の地、セビリアの音楽です。フラメンコといえばロマ(ジプシー)、その不思議な民族を追ってみました。セビリア・ロマは自分たちをヒターノと呼びます。その語源はエジプシャンだそうです。ラテン語でGitanoと書き、スペイン語読みではヒターノとなります。インド北西部からヨーロッパに移動してきたとされるロマですが、ヨーロッパではエジプトから来たと思われていたそうです。独特の演奏技術と音楽を特徴とするロマはヨーロッパ大陸を西に移動する過程で、それぞれの土地の音楽と融合を繰り返してきました。そして彼らの音楽もいっそう発展しながら、それぞれの土地に強い音楽的影響を与えました。
そして最終地アンダルシアまでたどり着きました。同じように混成文化の色濃いアンダルシア地方の音楽と結びつき、フラメンコが生まれました。
このロマは、現在でも民族として定説がない謎の多い民族です。インド、トルコ、マケドニア、アルバニア、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ロシア、スペイン、フランスなど各地にロマは定住しており、その音楽は地元の音楽に深く関わっていることも事実です。また、ヨーロッパのクラシックや民謡・歌謡への足跡をみても、「ハンガリー協詩曲」フランツ・リスト、「ハンガリー舞曲」ヨハネス・ブラームス、「ツィガーヌ」モーリス・ラヴェル、「ツゴイネルワイゼン」パブロ・デ・ラサーテ、「チャールダーシュ」ヴィットーリオ・モンティ、「ラプソディラプソディ第一番、二番」バルトーク、「流浪の民」ロベルト・シューマン、「ジプシーの歌」ドヴォルザークなど多くの作品にその影響がみられます。そして、ロマの血をひくとされる著名人も多く、カルメン・アマヤ、ジャンゴ・ラインハルト、チャールズ・チャップリン、ラフカディオ・ハーン、ヨハン・シュトラウス二世、ビル・クリントン、ユル・ブリンナーなど限りなくいます。ロマの定説がなにかという事よりも、ロマの独特の文化とそれをアイデンティティとして生活されている方々にとても魅力を感じ着目しました。
ヒターノ(セビリア・ロマ)の音楽
アンダルシアのヒターノは15世紀にイベリア半島に移動してきたようです。彼らが訪れたイベリア半島は地理、歴史的にインド、アラブ、ユダヤ、ギリシャ、カステリーヤなど様々な文化が混ざりあって生まれた、アンダルシア音楽と呼べるとてもエキゾチックな魅力を持つ音楽がすでに存在していました。その土着のアンダルシア音楽に混成し発展したヒターノ音楽が混ざり、お互いに影響し合いながら完成したのが今のフラメンコだと言われています。
流浪の民であった彼らの生業(なりわい)は馬の売買人、鍛冶屋、占い師、細工物職人や歌や踊りなど、移動しながらでもできる商売が多かったようです。定住を嫌い、他の民族との混血を避け、独自の習慣をまもるヒターノは異端として定住社会から忌み嫌われる存在だったようです。このあたりは第二次世界大戦まで、日本にも存在した山窩(さんか)と呼ばれる移動生活集団ととてもよく似ています。スペインでは16世紀から18世紀にわたって迫害の歴史が続き、政府のスペイン人同化政策の元「ヒターノ移住地」に定住を強いられるようになったそうです。長い迫害の歴史の中から叫びや嘆きが歌(カンテ)として表現され、カンテ・フラメンコが生まれました。フラメンコの特徴である激しい踊り、強いリズム、押し込めたような感情表現は、彼らの苦渋の歴史の中から生まれたと言っても過言ではないでしょうか。
今回録音に参加してくれたミュージシャンはほとんどがヒターノです。ピアニストで今回のミュージシャンのコーディネートを担当してくれたエミリオ・グルエンもヒターノです。ヨーロッパ各地では今でもロマに対しての偏見が根強く残っているようです。しかし、彼らに接していると全くそれが偏見であることがわかります。時間に正確で真面目、音楽に対しての姿勢もとても素晴らしかったと思います。そして、なにより彼らにしか表現できない音楽があります。それは長い苦難の歴史の中から生まれたにせよ、これほど広い範囲で音楽に影響を与えてきた彼らの感性と技術は音楽にとって、とても大きな功績だと思います。ちょうど我々が現地を訪れていたとき、スウェーデンのキリスト教会が歴史におけるロマの迫害を認め、謝罪したニュースが入りました。音楽界は昔からロマの才能を認めてきました。お互いの民族の文化を認め合える音楽という世界がいかに素晴らしいかとても印象に残る出来事でした。彼らと食事をし、音楽をつくり、さまざまな話が出来る機会を持てた事はとてもうれしい体験でした。