「ランチは食べないの」
スタジオに突然声が響いた。レコーディング中の食事を一手に引き受けてくれる若き肝っ玉かあさん、サマンサがスタジオに食事の催促にやってきたのだった。 スタジオ・オーナーの親戚でコーンウォール生まれのサマンサは、小さな頃から家族と一緒に世界各地を旅して来た。だからいっさい人見知りをしない。そして、世界中の料理が作れるようになったと紹介された。彼女の料理と仕切りのうまさは地元でも一目おかれているようでした。上の写真は彼女が作ってくれた野菜のパイ。とても美味しかったです。
お世話になったサマンサ
「今日は野菜のパイとスープだよ。早く食べないと冷めてしまうよ」いつもニコニコ顔のサマンサがスタジオの入り口にたって、わざと怖い顔をしている。機嫌を損ねてはと、作業を中断して全員そそくさとダイニングに向かいました。皆、ウインクしたり、笑みを浮かべたりサマンサの指示に従うことを楽しんでいるようでした。
料理は生活の中の音楽
レコーディングスタッフ全員集合のランチです
食事の時はいつも、全員が円卓の騎士のように並んで和気藹々と話をしながら食べます。サマンサの料理自慢とサー・マイクのケルトの歴史話を聞きながら、笑いの絶えない家族的な楽しい食事でした。日本のレコーディングは効率第一で、食事はほとんどが出前です。今回のようにスタジオで料理を作って食べる事は全くないと言っても良いと思います。また全員で外に食べに行くことも少ないように思います。ヨーロッパのレコーディングでは全員揃ってレストランに食事に行く場合がほとんどです。勿論出前で済ますこともありますが、食事としてちゃんと時間をとるのが普通のようです。仲間として当然のことなのですが、こんなところからも音楽に対しての姿勢の違いを感じました。
キッチンのコーヒーブレイク
レコーディング中はスタジオを抜け出してキッチンに行き、コーヒーを貰いながらサマンサと話をするのが私の楽しみでした。笑顔でマイペースの彼女を相手に、サマンサ自身の考え方やコーンウォールの生活のことを聞くのが日課になってしまっていました。とても深くそして理路整然とした話や優しい人柄からを写す地元の生活風景、私はすぐにサマンサのファンになってしまいました。ある日サマンサが朝から慌ただしくしていることがありました。聞くとスタジオのキッチンのオーブンが小さ過ぎてパイが焼けず、パイ皮を作っておばあちゃんの家で焼かなければならないので忙しいと慌てていました。
ワイン瓶でパイ皮を器用に伸ばします
私はサマンサがパイ皮を伸ばすのを見ながら「スタジオの食事だからなんでも良いですよ」と言ってしまいました。急に怖い顔をして「ありがとう。でもちゃんとしたものを食べて貰いたいから」と睨まれてしまいました。「ちゃんとした食事が人を幸せにし、自分がその幸せを作れることを楽しみにしている」彼女の気持ちを忘れ、つい日本のレコーディングの時の感覚で言葉を吐いてしまったのです。
サマンサのおばあちゃんの家で焼いてきたパイ
おばあちゃんの家でパイを焼いてきたサマンサとまた話をしました。「世界各地で生活してきたけどおばあちゃんと友人がいるコーンウォールが大好き。料理を作る事が楽しい。食事はとても大切なことだからね。」「ここは何もないけど料理の材料はなんでも揃うよ。少し努力が必要だけど、でも私の仕事だから」大切な人のために自分のできる最大の努力をする。それがサマンサの哲学でした。各地を転々とした彼女は〈平穏な生活の大切さ〉という人生の答えを知っているように思いました。丁寧な生活、働くことが収入を得ることだけではなく、生活の一部としてバランス良く位置づけされている生活。効率、分業社会ではない、忘れていた「豊かな生活」を思い出させてもらった気がしました。
朝食を作るためにキッチンを使わせて貰いました
次の日の朝は私に朝食を作らせてもらいました。家では家族のために良く料理を作ります。仕事の場で料理を作ることは、まったくありませんでした。サマンサの話を聞いて私なりに手を動かすことでレコーディングに参加したいと思ったのが朝食作りでした。たいした物ではありませんがとても料理をしたくなりました。
私が作ったミネストローネです
効率が求められる時代に、その中で生活してきた自分がいます。その考え方に疑問を持ち伝統音楽の制作を始めましたが、まだ効率主義の尾を付けている自分を今回サマンサに怒られた気がしました。レコーディング中でも皆で食卓を囲む。生活の中の音楽もそういうものなのであり、料理は生活の中の音楽なのかもしれないと思うようになりました。サマンサは料理を通じてキッチンで演奏していたのです。いまさらのように気づかされた私は簡単な朝食ですが心を込めて作りました。朝のテーブルでサマンサが私にウインクしてくれたことが今でも忘れられない大切な思い出になりました。