ケルト人の都市パリ
今回の旅は昨年(2012年7月)に現地レコーディングを行った、フランスブルターニュ地方をご紹介します。フランスブルターニュといえば伝統料理ガレット発祥の地としてご存じ方も多いと思います。パリから西に500km、フランス北西部ブルターニュ地方は古くからケルト文化の地としても有名です。ブリテン島ケルトの地コーンウオールまでケルティック海を挟んで150kmほどの距離にあります。ブルターニュを訪れたのは無印良品BGM島ケルトシリーズ4番目「ブリトン/Briton」のケルト伝統音楽を収録するためでした。
パリエッフェル塔
紀元前50年、ガリア(現在のフランス)に古代ローマ帝国ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が進出してくるまではガリア語、ゴール語を話すケルト諸部族が住居しているケルト人の地でした。ローマに破れたガリアは支配するローマへの同化が進みました。その後のゲルマン人の一派であるフランク人が流入しフランク王国を形成しフランスという名になりました。フランスとケルト、今ではなかなか繋がらない印象ですが、史跡や地名に当時の隆盛が残っています。また、フランス人の中には今でもケルト文化を強く意識している方々もおられるようです。ケルト人の都パリ、そういう視点で眺めてみたいと考え、少し早く日本を発ちプライベートでパリに滞在することにしました。
パリ(Paris)の語源はパリシイ族(Parisii)
シテ島
パリ周辺には紀元前4世紀頃から人が住み始めていたようです。紀元前3世紀頃パリのシテ島にケルト系部族、パリシイ族が定住し始め城壁都市を造り、ルテティア(注:ラテン語 / ルテティア・パリシオルム / Lutetia Parisiorum, パリシイ族の沼沢地)と呼ばれるほど発展したそうです。パリはこのシテ島を中心に発展しました。ローマ支配時にはルテティアもローマ化が進んだようです。3世紀頃にルテティアは先住民パリシィ族の名称をとってパリと改称されました。これがパリという名前に起源です。その後メロヴィング朝、カロリング朝、カペー朝 、ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝、フランス革命とパリの歴史が流れます。それまで一地方都市であったパリが首都となったのはカペー朝の時からです。1163年ノートルダム大聖堂が建築され、シテ島は政治と宗教、文化の中心になっていきました。
もう一つの由来 Par-Is(イスの街に匹敵する)
ブルターニュのラ岬
パリの名称由来にはもう一つ、今回収録に行ったブルターニュに纏わるロマンチックなケルトの伝説があります。5世紀頃、ブルターニュのコルヌアイユ(Cornouaille)という国を治めていたグランドロン王が愛娘ダユー(Dahut)の願いをかなえるために築いたとされるイス(Is)という伝説の街があります。ダユーはキリスト教に改宗したコルヌアイユの首都カンペールが海から遠く、また堅苦しいキリスト教の街になったことを嫌い、海に近いところに新しい街を造って欲しいと愛娘ダユーは王に懇願しました。海の妖精との間に生まれたと噂されるダユーは海に対して人一倍の憧れを持っていたのです。
Pointe du Raz(ラ岬)
イス(Is)の街は海のすぐそばに築かれましたが、高波から守るための防波堤がありませんでした。ダユーは王に防波堤の必要を説きました。王はそれよりも先にイスの街にもキリスト教会を造ることを決めました。ダユーは失望し古い宗教を祭るサン島の巫女を訪ね助けを請いました。キリスト教に迫害されたサン島の巫女は願いを聞き入れ妖精コリガンに防波堤と教会を見下ろすほど大きな城の建設を命じました。コリガン達によって造り替えられた街はとても美しく、その後とても栄えました。繁栄と共にダユーの堕落と荒廃が始まりました。街に現れた若者に姿を変えた悪魔に心を奪われたダユーは思いを遂げるために防波堤水門の銀の鍵を悪魔に渡してしまいました。
パリの風景
悪魔によって開けられた水門を大波が襲い、イスの街は瞬く間に海に飲み込まれてしまいました。馬に乗った王グランドロンと娘ダユーが難を逃れ高台に逃げようとした時、急に馬が動かなくなりました。共をしていた修道僧ゲルノはダユーを悪魔と呼び、杖を延ばし王の後ろに乗ったダユーを海の中に落としてしまいました。ダユーはあっという間に波にのまれて見えなくなりました。それと共に嵐が収まり馬に乗った王は無事安全な場所に逃げることが出来ました。 娘を亡くしたことを悔やんだ王は城を出てしまいました。王を探し回った従者ゲルノが森の小径で王を見つけたとき、王はすでに死の床ありました。王のそばにはケルトの僧侶ドルイドが寄り添っていました。王は死の際に「自分は最愛の娘と都を失った、しかしこのドルイドは信仰が死んだことを悼んでいる。これほどの悲しみがあるだろうか」と従者ゲルノに言ったそうです。ゲルノはドルイドにキリスト教の僧院で暮らさないかと勧めたところ、ドルイドは「私にはこの森の小径がむいています。こんな小径も、あなたたちキリスト教が求める道も、同じ神のところに通じているかも知れません」と断り森に消えていったそうです。
パリの街角
少し長くなってしまいましたが、パリシイ族(Parisii)のパリ(Paris)と伝説都市イスに匹敵するとの(Par-Is= Paris)ふたつの説、皆さんはどちらがお好きですか。学術視点では前者に軍配が上がりますが、ブルターニュに残るイス伝説の方が私にはとても印象深く、パリの由来としては素敵な気がしました。ケルトの宗教であるドルイド教とローマによってもたらされたキリスト教、その狭間の時代の苦悩が見えるような伝説に、伝承、継承の文化的豊かさを実感したパリの滞在でした。長い文におつきあいいただきありがとうございました。
次回はいよいよブルターニュ地方に入り、グランドロン王が築いたとされるカンペールに滞在します。
(参考文献:図説ケルト神話物語/原書房/ISBN-10: 4562030984ISBN-13: 978-4562030989)