ヴァーサ号
ダーラナ地方からストックホルムに戻り最初に訪れたのが、ここヴァーサ号博物館でした。ヴァーサ号はスウェーデン王国が威信をかけて建造した当時最強の戦艦です。ところが1658年の進水式当日に港から1300m離れたところで横風を受けいとも簡単に沈んでしまいました。300年以上経った1961年にほぼ原型のまま海底から引き上げられました。バルト海の低い海水濃度と平均水温4度程度の冷水に守られ、原型のほぼ95%以上をとどめる船体は当時を知る貴重な歴史的建造物として修復を施され、この博物館に飾られました。
実物を博物館で見たときにはあまりの大きさに全体を写真に収めることは不可能でした。総排水量1,210t、6台の24ポンド砲を含め、64門の大砲を持ち、マストの先端から竜骨まで52m、全長は69m、約3年近い歳月を費やし造船工、大工、建築士、彫刻家、画家、鍛冶屋など当時のあらゆる技術を駆使して造船されたヴァーサ号はそのまま美術的価値も持つ素晴らしい船でした。
ヨーロッパ歴もうひとつの視点
この大戦艦が作られた1650年代はスウェーデン王国最盛期の王グスタフ2世アドルフによってスウェーデンがバルト海全域を制覇した時代でもありました。日本ではこの時期のヨーロッパ史ですとオランダ、イギリス、フランスを中心に学びますが、バルト海に目をやるとまったく違う視点で見えてきます。この船は宿敵ポーランド制覇に向けて作られ、また国の権威の象徴としての面もあったようです。軍艦は王や将軍が座する城でもあった時代、そのために沢山の大砲、素晴らしい装備、装飾、そしてそれらを表すための大きな船が必要だったようです。ヴァーサ号はその役割を持って建造されました。もし、この船が計画通りの役割をはたしたらヨーロッパの歴史が変わっていたかも知れないと解説で聞きました。あまりにも再現性の高い船を目の前にしたとき、当時の夢と力、時代を見る思いがしました。
海底から引き上げられたヴァーサ号の船尾(とも)に施された装飾は色こそ退色し無彩色になっていますが、その彫刻は当時のまま絢爛たる美しさを保っていました。当時の技術の素晴らしさに驚きます。
色の違う部分が修復した箇所です。その保存状態の良さがわかります。
なぜ沈んでしまったのか
これだけ当時の技術の粋を集めた戦艦がなぜ進水式当日に沈んでしまったのか? この疑問はすぐに解けました。上の写真、船の側面に並ぶおびただしい数の大砲用の窓をご覧ください。その割に竜骨に向かう曲線(腹の部分)がとてもゆるくそして浅いことに気がつきました。吃水がとても低い位置に設定されています。
やはりそうでした。これが館内に模型で示された船体の構造です。たぶん2階層3階層に大砲が設置されていたと思います。150名の乗組員と6台の24ポンド砲を含め、64門の大砲、飲み水や食料、その他の武器それらをのせて3本マストで帆走するには最下部に作られた石を積んだ、バラスト部分の体積があまりにも少なすぎるとお気づきになられると思います。今の時代であれば、たぶん中学生でもこのバランスの悪さに気づくのではないかと思います。あの大航海時代の後半になぜこのような設計の船が生まれたか、とても不思議に思いました。
当時の設計者は一家相伝で正確な図面は作らず、過去のうまくいった船の寸法とバランスを使用し建造していたそうです。このことを聞きとても驚きました。今までなかった大きな船舶を建造することは始めから実験的な試みだったようです。そして上部が異常に重く吃水を保つことが出来なかったヴァーサ号は出航まもなく2回の横風であえなく横倒しになり、胴に開いた大砲用の口からの大量の海水流入でストックホルム湾を出ることなくわずか1300m走っただけで沈んでしまうことになりました。
ドイツでヴァーサ号の迎えを待っていたグスタフ2世は乗ることもなく帰国したそうです。そのあとこの沈没の責任問題になったそうですが、結局は王の注文による設計変更が原因であるとの暗黙の答えが出て、誰もその責めを負うことなく今日まで来ているそうです。300年以上経った船から出てきた品は当時のスウェーデンの生活や海洋技術を確認できるすばらしい資料になりました。とても不思議な体験でしたがほんの数百年前でこのような状態だったことがヴァーサ号によって知ることができとても勉強になりました。また無理に誰かが責任をとらさせることのなかった当時のスウェーデンの良識にもいたく感動した旅でした。次回はいよいよ最終回、スウェーデンの市中をご紹介します。