研究テーマ

農的くらし

桜前線が北上して日本列島に春の陽光が満ちてくると、野菜作りや米作りをする人たちは俄然、忙しくなります。「種蒔き桜」「田植え桜」といった名前が残っているように、桜は農作業の時期を知らせる花でもあるからです。自然のリズムに沿って、土を耕し、種を蒔き、自分で育てたものを口にする━━かつてはあたりまえだったそんな暮らしが消え、お金さえ出せば地球の裏側の食べものでも簡単に手に入る昨今。たしかに便利にはなりましたが、それは果たして、本当の豊かさなのでしょうか?

食べていく、とは?

「食べていく」という言葉を文字通りとらえると、それは、自分や家族の心身を何らかの食べもので健康に養うこと。私たちは、「こんな安い給料では、とても食べていけない」といった言い方をしますが、そこには本来の意味以外の要素が多分に含まれていることに気づきます。
「幸せというのは今に満ち足りていること」「日本はリッチではあるけど、幸せというのがなくなっている」と警鐘を鳴らすのは、脚本家の倉本聰さん。1977年に北海道・富良野に居を移し、自然の中で暮らし、自然の中で自分のものの考え方をつくってきたという倉本さんの目には、「みんなが現状に満足できず、『もっと良くしろ、もっと良くしろ』と年がら年中言っている」状態は、「誠におかしい」と映るようです。なぜなら、「自然界には右肩上がりのものはなく」「食事というのは、水も酸素も含めて全部自然から来て」いるものだから。
農業は「もともと自分がそれをやって食べていくためのもの」で「それを商業にしちゃうから、あるいは工業にしちゃうからひずみが出る」という言葉には、「足るを知る」を座標軸にして生き、「作品を通して『何が満ち足りるということか』を描き続けてきた」という人ならではの重みが感じられます。

「小さな農」で自分を養う

自分で食べるものは自分で耕そうと、「国民皆農」を唱えたのは、自然農法の提唱者として知られる福岡正信さん。それは、ひとり一人の生活のベースに「農」を置くことで、「日々自らの生命の根源を確認する生活を意図する」ものでした。代表的な著書『自然農法 藁一本の革命(春秋社)』の中で、「一家族の生命をささえる糧を得るには、一反(=300坪)でよい」と具体的に記し、「小面積のところで、楽な百姓をやって、生命だけをつなぐ」ことで「人間の労働も楽になり、時間的にも余暇がふえ、精神的、肉体的な余裕ができる」としています。そして福岡さんが強調しているのは、「その余裕を、物質文明ではなく、本当の文化生活というものに」結びつけること。30年以上前に出版された本ですが、物質的な豊かさが必ずしも幸福感には結びつかなかった現代の状況を見通して書かれたようにも思えます。

「半農半X」という暮らし方

とはいえ、自分の食べるものすべてを自分でまかなうことは、普通の人にとってハードルが高すぎるのも事実です。そこで、いま少しずつ広まりつつあるのが、半自給的な農業とやりたい仕事を両立させる「半農半X」。提唱者の塩見直紀さんは、それを「持続可能な農ある暮らしをしつつ、天の才(個性や能力、特技など)を社会のために生かし、天職(X)を行う生き方、暮らし方」と定義しています。
「X」の内容は、人それぞれ。陶芸家や画家、ライター、ミュージシャン、カメラマンといった人だけではなく、半農半レストラン、半農半民宿経営、半農半起業家など、さまざまな職種に及ぶようです。田舎に移り住める人でなければ無理、と思いがちですが、二拠点居住なら、半農半サラリーマンだって不可能ではないかもしれません。塩見さんの暮らす京都府綾部市の近辺には、半農半Xの生活を求めて移住者が少しずつ増えつづけ、中には全人口の1割にあたる500人もの移住者を数える町もあるとか。千葉県の南房総にも半農半Xの実践者は多く、各地で広がりを見せています。

頑張り過ぎない

半農半Xで暮らすには、どれだけの田畑を耕せばいいのでしょう? 塩見さんは「必要なものを必要なだけつくればいいということに落ち着く」と言います。家族の力も合わせて、「草刈りが自分でできる範囲の田畑を耕すと、必然的に家族が食べられる分だけになる」のだとか。そして、「それ以上になると労力として無理があるし、がんばってしまえば『X』に響く」「人の分まで生産しようとなると、現代農業に欠かせない機械化、農薬などに頼ることになって、半農、小さな農の志に反することになってしまう」と、その著書(『半農半Xという生き方 ちくま文庫』)に書いています。欲張らず、身の丈に合った農。ここでも、倉本聰さんのいう「足るを知る」ことがポイントになりそうです。

消費者ではなく生活者として

ヨーロッパにはクラインガルテンと呼ばれる小屋付きの農園があり、単なる菜園にとどまらず、コミュニティ形成の場として、また重要な緑地空間として都市計画のなかに位置づけられています。ダーチャと呼ばれるロシア郊外の菜園付きセカンドハウスは、政治経済の混乱期には市民が自活するための生命線となり、買った方が安い時代になった今でも、多くの人が週末に野菜作りを楽しんでいるといいます。消費者として生きるだけではなく、自分に必要なものは少しでも自分の手でつくっていける「生活者」になる。そのための第一歩が、自分の食べるものを自分で育てる農的くらしなのかもしれません。

いきなり半農半Xは無理にしても、1/4農でも1/10農でもいい。畑がなければ、ベランダーのプランターでも、キッチンの窓に置いた鉢植えひとつからでも、まずは、土とつながってみる。そうすることで、食べものが命であり、その命をいただいて生きている私たち人間も、自然と無縁では生きていけないということが見えてくるような気がします。
みなさんは、農的くらしについて、どんな風に思われますか?

研究テーマ
食品

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