研究テーマ

カレンダーと暦

年の瀬が近づき、来年のカレンダーを用意された方も多いことでしょう。カレンダーを日本語で言えば、「こよみ」。そもそもは「日読み(かよみ)」から生まれた言葉で、重要な起点を発見して、それから何日目が何の日であると指摘するためのものでした。聖人を意味する「ひじり」も、本来は「日知り」のこと。古代社会では、季節のめぐりやそれに合わせた農耕作業の時期など、日々のことを宇宙の循環原理にあてはめて的確に知っている人が貴いとされたのです。

太陽暦と太陰太陽暦

カレンダー、暦──辞書によれば同じ意味ですが、日常の中で、私たちはこの二つの言葉をなんとなく使い分けているような気がします。
現在、日本を含めて世界の多くの国々が採用しているカレンダーは、太陽の運行を基に定められた「太陽暦(グレゴリオ暦)」。1年の長さを365日とし、実際の太陽の周期との誤差を閏年(うるうどし)で調整する暦です。
その一方で、日本には明治6年の改暦まで、千年以上にわたって人々の暮らしに寄り添ってきた暦がありました。月の満ち欠けをひと月の基準としながら、太陽を基準とする二十四節気をもうけた「太陰太陽暦」です。太陽暦のカレンダーが数字で区切るのに比べて、太陰太陽暦の方には冬至や夏至、春分や秋分といった季節の移り変わりを知る目盛りがもうけられているのが特徴。気象情報などで「暦の上では…」と言うのは、ここから来ているのです。

月や太陽とつながる暦

月と太陽の周期を併用した太陰太陽暦は、宇宙のリズムをほぼ正確に感じることができる暦でもありました。「ついたち」の語源は「月立ち」という説もあるように、1ヵ月の初め(1日)は必ず新月の日。各月は新月とともに始まり、三日目が三日月、十五日目が十五夜…暦の日付と月の満ち欠けとは密接に結びついていて、夜空の月を見れば大体の日にちがわかったのです。
新月とは、月と太陽が同じ方向にあって地球からは月が見えない状態。天文学では月と太陽との黄経の差が0度となる瞬間と定義されています。夜でも明るい都市に住む現代人には、新月でも満月でも実生活にあまり影響はないと思われますが、灯りの乏しかった時代、月光は大きな意味を持っていたに違いありません。

季節感のズレ

太陽暦(新暦)と太陰太陽暦(旧暦)の日付を並べたカレンダーを見ると、旧暦の日付は、おおむねひと月ほど新暦より遅い日付を指していることがわかります。その理由は、明治初期の改暦のため。新暦が明治6年1月1日となる前日の日付は、実は明治5年12月31日ではなく、明治5年12月2日だったのです。この約1ヵ月間のズレが、現在の日にちと伝統行事の季節感とのズレに。お正月やお盆などの行事を今でも旧暦でおこなう地域が多いのは、自然のリズムに沿った暮らしを捨てがたいからなのかもしれません。ちなみに、改暦のため1年が途中で終わってしまった明治5年は、1年の日数がわずか327日。日本で暦日が記録に残るようになってから、最短の年となっているそうです。

季節に沿った江戸の暮らし

江戸末期には幕府公認のものだけで450万部の暦が発行されていたといいます。では、江戸時代の暮らしとは、どんなものだったのでしょう。
多くの人が時計を持っていなかった江戸時代、時刻は日の出と日の入りを基準とする「不定時法」で計られていました。日の出の時刻(明け六つ)と日の入りの時刻(暮れ六つ)で昼と夜を分け、さらに昼・夜それぞれを6等分して、一つ一つの時間の間隔を一刻(いっとき)としたのです。この方法では、一刻の長さは、昼と夜で、また季節によっても違ってきます。夏至の頃の昼の一刻が約2時間40分あるのに対して、冬至の頃では約1時間50分。現代人の私たちには奇妙に映りますが、時計のない時代には、「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。夜は暗く、行燈の明かりにする菜種油は「油一升、米三升」といわれるほど高価なものだった時代。不定時法の中では、意識しなくてもサマータイム制度のような暮らしになっていたと思われます。もちろん現代の私たちがそのまま真似ることなどできませんが、省エネが常に課題となるこれから、江戸の人たちの暮らしぶりは、ひとつのヒントになるかもしれません。

日本人は、月の満ち欠けや日脚の長さ、草木のたたずまいなどから季節の移ろいを読み取りながら暮らしてきました。こうした一人一人の季節感が積み重なって、民族の季節感となり、日本の文化に影響を与えてきたとも言えましょう。暦はもともと、自然の移ろいである季節と人間の生活を結びつけるためのものです。新しい年を迎えるにあたって、古くからある暦を見直してみるのもいいかもしれません。

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