蚊帳(かや) ─自然の風を取り入れる─
梅雨が明けると、いよいよ夏本番。熱帯夜に悩まされたり、睡眠中のエアコンで冷えたりと、体調を崩すことの多い季節です。エアコンも何もなかった時代、先人たちはどんな工夫をして夏の蒸し暑さをしのいでいたのでしょう? 今回は、自然の風を上手に取り入れながら防虫する「蚊帳(かや)」の話です。
蚊を通さず風を通す
「蚊帳」といっても若い方はご存じないかもしれませんが、文字通り、蚊を避けるための帳(とばり)。綿や麻などの繊維を1mm程度の網目に織ったもので、就寝時に室内で吊って使うテントのようなものです。風を通しながら蚊などの害虫は通さないので、かつては夏の夜の風物詩であり、昭和30年代の終わり頃まで、蚊帳は「日本の夏」と同義語でした。
蚊帳を使っていた時代には、もちろんクーラーなどはありません。しかし麻の蚊帳の中の温度は外界より1度以上涼しく、湿気も少なかったといいます。それは、麻という素材が、蚊帳の中にこもりがちな熱を逃がしたり、放湿してくれるため。平安時代の都人は、蒸し暑い京都の夏をやり過ごすために麻で作った敷きふとんを使っていたといいますから、先人たちは麻の機能をよく知っていたのでしょう。
蚊帳のあった暮らし
東京大田区にある「昭和のくらし博物館」は、昭和20年代に建てられた木造住宅にその当時使われていた生活道具を陳列した小さな博物館です。そこにはさまざまな寄贈品の申し込みがあるそうですが、いちばん多いのが蚊帳。館長の小泉和子さんはその著書「昭和のくらし博物館」の中で、「必需品だったため、その後使わなくなったものを捨てるにしのびず、とってある家が多いのであろう」と書いています。
実際、蚊帳を使ったことのある人に話を聞くと、多くの人が嬉々として、蚊帳の思い出を語ってくれます。季節の最初に蚊帳を吊った夜のわくわく感、蚊の侵入を防ぐために腰をかがめて出入りしたこと、朝になって吊り手を外されて広がる蚊帳の海の上を泳いだこと、蛍狩りで捕まえた蛍を蚊帳の中に放ってその灯りを楽しんだこと、などなど。雷が鳴ると麻の蚊帳の中に逃げ込んだ経験のある人も多いようです。麻は、碍子(がいし)にも使われていたという絶縁体。そんなことを知った上での生活の知恵だったのでしょう。
そして蚊帳の中では、家族が川の字になって寝るのが、平均的な日本の家族の慣わしでした。「蚊帳の外」といえば当事者から外されることのたとえですが、「蚊帳の中」はすぐ傍で人の気配を感じ取れる場所。蚊帳は単に蚊から身を守るためだけではなく、寄り添ってくれる誰かが居る大家族の安心感を象徴するものだったのかもしれません。
現代の暮らしと蚊帳
そんな蚊帳が日本の家庭から急速に姿を消していったのは、昭和40年代に入ってから。農薬の使用で蚊の発生が減り、下水道の整備など環境衛生が発達し、アルミサッシを使った密閉空間での冷房が普及したからだといわれます。
とはいえ、蚊帳が完全に消滅したわけではありません。小さな子どもの寝る部屋でクーラーや殺虫剤を使いたくない。締め切った部屋でクーラーをきかせるより、風通しのよい蚊帳の中で眠りたい。クーラーや扇風機の風に直接あたりたくない。そんな理由から、今でも蚊帳を愛用する根強いファンがいるのです。実際、昔ながらの蚊帳だけでなく、ベビー用、ベッド用、ワンタッチでセットできるスプリングタイプ、吊り場に困らない自立スタンド式など、現代のくらしに合わせて蚊帳のバリエーションもいろいろ。アウトドアや海外旅行に便利な携帯用の蚊帳もあるといいます。
海外で活躍する蚊帳
日本では需要が減っている蚊帳ですが、その一方、海外では命を守るために蚊帳を必要としている地域もあります。
ハマダラ蚊が病原体を媒介するマラリアで命を落とす人は、現在でも年間66万人。そんな中で、効果的なマラリア予防策として評価されているのが、電力の必要もなく蚊から身を守ることのできる蚊帳なのです。日本の企業がユニセフなどと協力して蚊帳の普及に努めた結果、この10年間で死者の数は25%以上減ったとか。もっとも、その多くは網に殺虫剤を練り込んだ蚊帳。健康と環境への影響を指摘する声もあり、殺虫剤を使わずに身を守る本来の蚊帳とは少し異なるような気もしますが、深刻なマラリア被害を前にして背に腹はかえられないということなのかもしれません。
風を通しながら防虫する蚊帳は、高温多湿な日本の風土から生まれた、人にも環境にもやさしい道具です。そしてそれは、風を感じ、微かな風が運んでくるものを身体と心で受け止めていたかつての日本人の暮らし方とつながるものかもしれません。
みなさんは、夏の夜の蒸し暑さを、どんな方法でしのいでいらっしゃいますか?