「コンパクト」を考える
「起きて半畳、寝て一畳」という言葉があります。どんな豪邸に住んでも、人ひとりが占めるスペースは、せいぜいその程度。欲望を膨らませても際限がない、という教えです。それは、しばしば道徳的な教訓として使われますが、最近見られるのは、小さいモノで「ガマンする」というのではなく、小さいことに価値を見出してそれを選び取るという流れ。大きなもの、多くのものを持つことが「豊かさ」とされてきたこれまでの価値観とは、一線を画すものです。
小さな家で暮らす
定年退職後に、それまで住んでいた家を「小さく」建て替える人が増えています。子どもも巣立って夫婦二人だけの生活になってみると、広い家は身の丈に余り、かえって使いづらいのだとか。建て替えた小さな家には多くのモノが入らないので、大抵の人が、この時点で、それまで持っていた多くのモノを始末することになります。モノを整理し身軽になって小さな空間に住むと、掃除も隅々まで行き届くので「清々しくて心地よい」というのが、実践した人の実感。「ウサギ小屋」からの脱却を目指して、より広い空間を求めてきた私たち日本人の中で、静かな意識改革が進んでいるようです。
小屋の魅力
一方、「家」と呼ぶには小さすぎるほどの「小屋」にも人気が集まっています。「小屋」を住宅の原型と位置づけてきた建築家の中村好文さんの展覧会「小屋においでよ!」(金沢21世紀美術館/2014年8月31日まで)には、連日、大勢の人が入場。誰もが目を輝かせながら、小屋の細部まで見入っている姿が印象的です。また、郊外に土地を購入し、週末ごとに通ってセルフビルドする人も少しずつ増えています。
時代をさかのぼれば、「方丈記」の作者、鴨長明(かものちょうめい)は、晩年、3メートル四方の小さな庵に住んで、「方丈記」を記しました。「方丈」とは、そもそも1丈(約3メートル)四方のこと。その方丈で書かれたから「方丈記」なのです。近代建築の三大巨匠の一人と謳われる建築家ル・コルビュジェも、国家プロジェクト的な大建築を手がける一方で、自身は小屋を愛し、晩年は3.6メートル角の小屋で過ごしたとか。かつては大邸宅に住んでいた人や、大きな建造物を知り尽くした人が、最終的には、コンパクトな小屋にたどり着く。そのことが、「コンパクト」の奥深さを物語っているような気もします。
日本のコンパクト
そもそも、「コンパクト」は日本のお家芸ともいえるものでした。使わないときは重ねてしまえる重箱や入れ子の器、たたんで収納できる布団や着物、用途に合わせて部屋を仕切るための襖(ふすま)や障子
「たたむ」「重ねる」「巻く」「組み込む」「縮小する」「まとめる」「動かす」「変容する」などの工夫で、先人たちはさまざまな「コンパクト」を生み出してきました。それは、狭い国土の中で少しでも快適に生きていくための知恵であり、そこにはまた、小さなものの中に無限の広がりを感じる日本人独特の美意識も働いていたでしょう。
一方、新しいテクノロジーがもたらすコンパクトもあります。かつて音楽シーンを大きく変えたウォークマンをはじめ、軽量小型化が進むパソコン、スマートフォンなどなど、最先端技術によるコンパクト化によって、私たちの生活様式が大きく変わったのは、誰もが認めるところです。
「身の丈に合う」といえば、自分の身体のサイズに合うことです。しかし人間の身体は小さくて、出来ることも限られます。身ひとつで出来ないことをするために、道具や機械を発明し、発達させ、それを使いこなすことで人類も進化してきたのでしょう。「大きい」ことを良しとする考えは、人間のそんな願望に根ざしているのかもしれません。
しかし一方で、行き過ぎた拡大がさまざまな歪みをもたらし、地球環境にまで影響を与えているのも事実です。身の丈に合わないことにはどこか無理があり、身体の実感から離れすぎたモノやコトは他人事になってしまうことを、私たちは薄々気づいています。地球というこの小さな星に住み続けるためには、もう一度、身の丈に合う「コンパクト」を考える時期に来ているのかもしれません。
成長から成熟へと時代が変わりつつある今、「コンパクト」は、これからの時代を生きていくためのキーワードのひとつになりそうです。
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