研究テーマ

消えゆく情景を見つめて

画像:昭和52年 金山町

「ふるさと」という言葉を聞いたとき、多くの人が思い浮かべるのは、田んぼや畑、里山などがある、いわゆる農村風景ではないでしょうか。都市に生まれ育って田舎の暮らしを知らない人も、そんなイメージを抱くのは、農耕民族として長い歴史を刻んできた日本人のDNAが記憶しているのかもしれません。
今回は、私たち日本人の原風景ともいえる農村を、40年にもわたって撮り続けている写真家をご紹介しましょう。

通い続けて40年

ここに掲載した4枚の写真は、いずれも昭和50年代(1975~1985)に撮影された奥会津の風景です。写真を撮ったのは、竹島善一さん。奥会津に40年間通いつめ、人々の営みを記録し続けている写真家です。
竹島さんの本業は、写真家ではありません。東京・大泉学園でうなぎ屋さんを営みながら、そのかたわら、奥会津に通い続け、写真を撮り続けてきました。日曜の夜、うなぎ屋の営業を終えて夜行列車に乗り、翌早朝、奥会津に到着。夕刻までの限られた時間を撮影にあて、最終の上り列車で深夜、東京へ帰り着く。そんな撮影行を、当初の20年間は毎週ほとんど休みなく続けたそうです。八十路に近づいた現在も毎月会津に通い、その回数は千回にもなるといいます。

暮らしを見つめて

画像:昭和50年 田島町

そこまで竹島さんを駆り立てたものは何だったのでしょう。風景が美しいだけの場所なら他にもたくさんある、と竹島さんは言います。「僕にとって美しいものというのは、なぜこんな生活があるのだろうと思えるような、ひっそりとした人々の暮らし。人が生きている匂いがあってはじめて、僕の景色なんです」。竹島さんは、決して「古いものがいい」と言っているわけではありません。「今年も大根ができた、漬物が漬けられる、この仕事はオレがやってのけている、という充足感を写したい。そういう情景にいくらでも出会える場所、そこが奥会津だったんです」と。民謡『会津磐梯山(あいづばんだいさん)』の歌詞にもあるように、奥会津は、竹島さんにとってまさに「宝の山」だったのです。

記録として残す

画像:昭和56年 南郷村

当初は自分なりの景色を求めていた竹島さんですが、次第にこの地を写真によって記録していきたいと志すようになっていきます。それはアマチュアの自分だからこそできることのように思えたのです。この想いを確かにしたのは、地区の一つがダムに水没するのを知ってから。ここで消えていくものから、まず写していこう、と優先順位を決めました。茅葺き屋根の民家、そこでの人々の昔ながらの営み、蒸気機関車、その名の通り百の仕事をこなす百姓の姿…「作品」を撮るのではなく、人々の生きている姿に共感してシャッターを押す竹島さんの姿勢は、その土地に住む人にとっては、忘れかけていた「あたり前」を思い出させてくれることにもなったのです。

気づかう心

こんなこともありました。奥会津に通い始めてまだ間もない頃、ある集落を歩いていたら「写真屋さん、昼だ、飯食えや」と声を掛けてきたおばあさんがいて、そのお宅で昼食をご馳走になることに。食堂など見当たらない地域ですから、竹島さんはお店で残ったうなぎを詰めたお弁当を持って通っていたといいます。「どこの誰かもわからない人間の、昼飯の心配をしてくれるんだよ。ありがたかったねぇ」。雪深い奥会津では、たとえ見知らぬ人でも空腹のまま帰すのは犯罪行為に等しい、といった考えがあるそうです。行き倒れにならないようにとの配慮からですが、人と人との関係が希薄な都会では考えられないことでしょう。撮影を重ねていくうちに、こんな会津の人情や生活の下地は農業にあると竹島さんは気づきました。

変わりゆく農村

画像:昭和56年 南郷村

「農耕の文化、生活の伝統が、いたる所に展開しているのが農村であり、農村のつくりだす日本の田舎は人々が営々と生き続け伝承してきた、生ける総合文化財」と竹島さんは語ります。そして、「昭和50年代の奥会津の情景は、それ以前の長い時代の残り香を漂わせていた」とも。
しかしその後、農村の生活は急速に変わっていきました。その様子を、「農村から"暮らし"がなくなってきつつある」と竹島さんは表現します。30~40年前は、まだ人々が農村らしく働いている「生産の風景」があったといいますが、耕作放棄地が広がる今では生活の息吹が失われてきたというのです。
でも、「どんな状態でも、たとえ崩壊寸前であっても、そこには暮らしがある。暮らしがあり、人間の未練や残念があるところを撮っていきたい」「薬を売るだけでなく情報も運んでいた "富山の薬売り"のような存在になって、地域で頑張っている人たちを応援したい」と竹島さん。それは、消えゆく情景、もの言わぬ風景に眼差しを向け続けてきた写真家の集大成といえるものかもしれません。

日本人にとっての原風景ともいうべき「いなか」「ふるさと」の景観は、農家の人々によって支えられてきました。風景を構成する野も山も、農家の人にとってはすべて仕事の場であり、生産のための施設でもあるからです。しかし高齢化・過疎化の進む中で、この先それを保つことはできるのでしょうか。これは何も、奥会津という一地域だけの問題ではありません。
「私たちは何を捨てて、何を得たのか。それをもう一度、問い直し考えていかなければ」という竹島さんの言葉を、私たちはどう受け止めればよいでしょう?
ご感想、ご意見をお聞かせください。

※参考図書:『蘇る記憶━竹島善一写文集━』(奥会津書房)/『会津・農の風景━竹島善一写真集━』(新泉社)/『谿声山色』(奥会津書房)

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