「雑」を見直す。
雑事、雑用、雑務、雑音、雑念、雑談、雑草、雑魚(ざこ) 「雑」の字が付く言葉には、どことなく、「取るに足りないもの」「余計なもの」といったイメージがあります。この時季、たくましく伸びていく野生の草花が「雑草」の名前で呼ばれるのも、それらがやっかいものだと思われているから。「雑」のつくものは、本当に「いらない」ものなのでしょうか?
雑草の効用
ガーデニングや家庭菜園を楽しむ人にとって、生命力が強く土の養分を奪ってどんどんはびこる雑草は仇敵のような存在で、始末すべき(抜くべき)ものというのが「常識」です。しかし、「雑草が土をつくっている」と語るのは、リンゴの無農薬栽培を実現した木村秋則さん。「草の根のまわりには、草の種類に応じていろんな微生物や菌、バクテリアが集まり」「植物の種類が多いほど、土の中は多様な環境になり、連作障害や病気が発生しにくくなる」といい、木村さんの唱える自然栽培は静かに各地に広まりつつあります。
一方、戦争中の食料難を体験したことで、野草(つまり、現代の私たちが"雑草"と呼ぶ草)に目が開かれたというのは、日本の料理研究家の草分けとして知られる辰巳浜子さん。「いのちのスープ」で有名な料理研究家、辰巳芳子さんのお母さんです。「乏しさのなかから自然を見直し、家族の命を守ろうとして」「アク抜き、乾燥、塩蔵」や「ひたしもの、和えもの、揚げもの、漬物など数限りなく食べる工夫を覚えた」という辰巳さんですから、ひとくくりに「雑草」と呼んだりはせず、ひとつひとつの野草と真正面から向き合っています。
雑草から、名のある草へ
辰巳さんは、著書『料理歳時記』(中公文庫)のなかで数々の野草の料理法を紹介していますが、そこにこんなエピソードが書かれています。「あれは刈ってはいけない、これも抜いては駄目」と辰巳さんに言われ、「手間がかかるし、さっぱりきれいに見えない。怠けているようでいやだね」と草取りの手伝いに来ていた小母さんたちがこぼしました。そこで、抜かせなかったハハコグサ(春の七草のひとつ)で草入りの白玉だんごを作り、小母さんたちにふるまったところ、大好評。「こんな草は引っこ抜くものだとばかり思っていた」けれど、「なんでも食べられる」ことに驚き、「私たちもさっそく真似して作りましょう」と喜んだというのです。この体験をした人たちは、おそらくその後、ハハコグサを単なる雑草とは見なくなったことでしょう。同じ草でも、それを見る人がそのものに価値を見出せるかどうかで、雑草と呼ばれたり呼ばれなかったり。そういえば、海藻を食べる習慣の少ない欧米では、海藻のことを「海の雑草(Seaweeds)」と呼ぶようですね。
雑音で落ち着く?
雑草と似たようなものに「雑音」があります。私たちは「雑音=不快な音」と思いますが、「雑音なしでは人間はおかしくなってしまう」と語るのは、宇宙創生理論で知られる理論物理学者の佐治晴夫さん。友人が体験した話として、アメリカのトーマス・J・ワトソン研究所の話を紹介しています。世界トップクラスの学者たちが在籍するその研究所で、研究に集中できるようにと外からの音を遮断する防音の個室にしたところ、研究能率がまったく落ちてしまったとか。「雑音のような、ゆらゆらするものがあることが"自然"」であり、「雑音がないと、人間は精神が落ち着かない」(佐治さん)というのです。
「雑音と仲良くしよう」と考えた佐治さんは、雑音の性質をずっと数学で調べていきました。佐治さんの研究によれば、「私たちが感じる心地よさのもとは、たとえば普通の扇風機の風にはなくて、野原をわたってくる風にはある」のだとか。「吹くかと思ったら吹かないし、吹かないと思ったら吹く。自然現象のなかにある"半分予測できて、半分予測を裏切る性質"」は「1/f ゆらぎ」と名付けられ、その理論は、世界初のVHS長時間録画用磁気ヘッドや「ゆらぎ扇風機」など、日常的な家電製品の開発にも生かされています。
雑木林と人工林
雑木林とは、種々雑多な木々が混じって生えている林のことですが、読み方によって2つの意味があります。「ぞうきばやし」は一般用語で、クヌギやコナラなどさまざまな広葉樹で構成され、人が手を入れながら維持してきた林のこと。一方、「ざつぼくりん」は林野産業の専門用語で、スギやヒノキなどの有用樹種を植えてつくられた「人工林」に対する言葉です。昭和30年代に打ち出されたこの拡大造林の方針のもとでは、スギやヒノキといった高価な材以外は「雑木」としてくくられ、取るに足りないものとして扱われたことがわかります。
そして今、使い道のないまま放置されてしまった人工林から飛来する大量の花粉が「花粉アレルギー症」の原因に。一方でまた、価値のないものとして見捨てられてきた雑木林(=里山)も荒廃し、集中豪雨などの自然災害の原因になったり、人と野生動物の境界線がなくなったりしていることは、ご存じの通りです。「雑」のレッテルを貼ってないがしろにしてきたコトやモノが、いかに貴重なものであったか。私たちはやっと今、気づき始めたところなのかもしれません。
草餅の材料になるヨモギも、山菜好きが珍重するタラの芽も、そこに価値を見出さなければ、単なる「雑草」に過ぎません。さまざまな仕事も、それを「雑用」ととらえた途端にどうでもいい仕事になってしまうでしょう。知らないこと、知ろうとしないこと、まっすぐ向き合って見ようとしないことが、対象物を「雑」の付くものに追いやっているような気もします。目の前のモノやコトに心を向け、価値を見出していく。「ていねいに暮らす」とは、そういうことなのかもしれません。
みなさんのご意見、ご感想をお聞かせください。
※参考図書:『農からはじまる地球ルネサンス 自然栽培』東邦出版