見えざる微生物の世界
私たちが住んでいる地球にはふたつの世界があります。ひとつは人の目に見えるマクロの世界であり、もうひとつは目に見えないミクロの世界です。ミクロの世界の主人公は、多種多様な働きを持つ微生物たち。地球が豊かな自然に彩られているのも、私たちがこの星で生きていられるのも、微生物の力によるところが大きいのです。
ノーベル賞をもたらした微生物
北里大学教授の大村智さんがノーベル化学賞を受賞したのは昨年(2015年)のこと。大村さんが研究していたのは「放線菌」と呼ばれる微生物でした。この微生物がつくりだす化学物質からつくった「イベルメクチン」は、牛の胃や腸にいる寄生虫を退治する働きがあり、また、犬の心臓に寄生するフィラリアにも効き目があることがわかりました。
牛や犬に効くものならヒトにも効くに違いない。ということで研究を進めた結果、イベルメクチンは糞線虫症や疥癬症という、寄生虫やダニが原因で起こるさまざまな病気にも効くことが判明しました。
イベルメクチンの名を世界に知らしめたのは、アフリカや中南米などで蔓延していた「オンコセルカ症」という病気への効果です。この病気はフィラリア線虫の回旋糸状虫による感染症で、毎年約1800万人が感染し、うち100万人以上が、失明を含む重い目の病に苦しめられていました。それがイベルメクチンを年1回飲むだけで、予防ができるようになったのです。大村さんと製薬会社のメルク社はイベルメクチンの無償提供を決め、この薬はWHOを通じて世界中の感染地帯に配布されました。オンコセルカ症の苦しみから多くの人を救うことができたのです。
微生物のさまざまな働き
大村さんはどこへ行くにも小さなビニール袋を携帯し、スプーンで掘った土を入れて持ち帰るそうです。そして、採取した土から微生物を分離・培養し、その生き物がつくりだす化学物質を丹念に調べていくのです。イベルメクチンをつくる放線菌は、1974年に川奈ゴルフ場周辺から持ち帰った土の中で発見されました。このように片っぱしから土を持ち帰り、微生物の働きを調べることを「スクリーニング」といいます。
新薬の発見にスクリーニングが有効なのは、それだけ微生物に多様性があるということ。これまでさまざまな微生物が土の中から見つかり、病気を治す薬として使われてきました。東京大学名誉教授の別府輝彦さんの著書「見えない巨人 微生物」(ベレ出版)によると、1グラムの畑土の中から見つけられる細菌の種の数は、個体数が少ないものも含めると、なんと100万種の桁に達するそうです。土の中にはまだまだ知られざる微生物がたくさんいて、人類の手で発掘され、活躍するのを待っているのです。
あらゆる分野で活躍する微生物
微生物が活躍しているのは、なにも医療分野に限ったことではありません。以前のコラム「ニッポンのコウジ」「発酵の神秘」などでもご紹介しましたが、日本酒や醤油、味噌などの発酵に使われる麹菌も微生物の一種です。また、洗濯洗剤に入って汚れを分解するプロテアーゼやセルラーゼなどの酵素も微生物がつくりだすもの。工業用のアルコールも、工場で大量生産されるので人工的なもののように思えますが、実は酵母という微生物の力によってつくりだされているのです。
もし、この世から微生物がいなくなったら、日本酒はもちろん、ビールもワインも飲めなくなります。味噌汁や煮物、パンやチーズも口にできなくなります。いや、それどころか、そもそも毎日こうやって息をしていられるのも、海中でせっせと酸素をつくりだしてくれている微生物がいるおかげなのです。
見えない世界を支配する微生物
しかし、一方で、微生物は必ずしも人助けをするために存在しているのではありません。ときには結核や肺炎、赤痢などの恐ろしい病気を引き起こし、人の命を奪います。たとえば中世のヨーロッパで蔓延したペストは、別名「黒死病」と呼ばれ、この病のためにヨーロッパ全土の人口の3分の1が死滅したといわれています。ワクチンや抗生物質の発見で不治の病はずいぶんと減りましたが、いまだにエイズ、エボラ出血熱、マラリア、鳥インフルエンザなど、細菌やウィルスが引き起こす恐ろしい病は後を絶ちません。良くも悪くも、私たちはこの地球上で、微生物とともに共生しているのです。
今から350年ほど前、ドイツのレーウェンフックが顕微鏡を発明して以来、微生物は新たな生き物として、私たちの前に姿を現しました。それまで妖精や悪魔の仕業だと思われていたさまざまな現象が、微生物の働きによって説明できるようになったのです。微生物は土の中や水の中、空気中など、この世のいたるところに存在し、目に見えないもうひとつの生物界をつくりあげています。
大村さんがノーベル化学賞を受賞したとき、「微生物のおかげです」といったそうですが、この言葉には微生物の偉大さを知り尽くした人のみが語れる、奥深い意味が含まれているように思いました。
※参考図書:
「大村智物語─ノーベル賞への歩み/馬場練成」(中央公論新社)
「見えない巨人 微生物/別府輝彦」(ベレ出版)