トコロジスト
たとえば自宅から駅や学校までの、「いつもの」道を歩くとき。時間に追われていることが多くて、周囲の自然に目をやるゆとりは、なかなかないものですね。通い慣れた道であっても、いえ通い慣れているからこそ、目に入らないこともあるのかもしれません。知っているようで知らない、身近な場所の自然。そんなところに目を向けて観察する人のことを、「トコロジスト」と呼ぶそうです。
「その場所」の専門家
「トコロジスト」は、「場所」を指す「所」に「~する人」という意味の「ist」をつけた造語で、その場所のことなら何でも知っている人。ある特定の地域(フィールド)にこだわり、その場所の動植物はもちろん、地形や地質、歴史や名所旧跡、民俗伝承など幅広く総合的な視点でそのフィールドをとらえる「場所の専門家」です。専門分野の生きものを遠くに探しに行くのではなく、足元にこだわる。神奈川県の平塚市博物館の元館長だった故浜口哲一さんが提唱した考え方から生まれた言葉ですが、辞書にはまだ載っていません。
市民の視点で
専門家というと、一般的には「植物学」「歴史学」などある特定の学問分野について詳しい人を指しますが、場所の専門家であるトコロジストは、必ずしもそういう人ではありません。でも、自分が足繁く通う場所については隅から隅まで歩き、さまざまなことに通じ、その土地に深い愛情をもっている。市民ならではの視点をもつこうした人たちの見識は、具体的な場所を保全しようとするとき、とても重要になってくるといいます。でもアマチュアであるがゆえに、耳を傾けてもらえないこともあるでしょう。「その場所の専門家(=トコロジスト)」という概念には、こうした人たちを社会的に位置づけし、いわゆる専門家と同じ重みと発言力を与えたいという願いが込められているようです。
だれでもトコロジストに
なんだか大変なことのように思えますが、トコロジストと呼ばれる人たちも、最初からトコロジストだったわけではありません。先述の浜口さんに影響を受け、自らもトコロジストになった日本野鳥の会職員の箱田敦只さんによれば、「散歩していたら、あるときふと印象的な鳥を見たとか、夕暮れの景色に見とれてしまった」といった「本当に些細なことがきっかけになって」「毎週、毎月同じ場所に通い続けているうちに、気がついたらその場所の第一人者になっていた」というような人が多いのだとか。
箱田さん自身も、子育てを通してトコロジストに目覚めたといいます。きっかけは、5歳の娘さんがいつの間にか自然嫌いになっていたのに気づき、わが子を「たくましく育てたい」と思ったことから。手を引いて森をに通っているうち、娘さんが変化していき、散歩が楽しくなっていきました。そして、「子どもが大人になったときに、ふるさとの自然を思い出せるようなたくさんの経験をさせてやりたい」という思いが芽生え、やがて「この土地に住む大人のひとりとして、子どもたちに対してこの土地のことを伝える責任があるのではないか」という思いにまで至ったといいます。
同じ場所をくりかえし歩く
トコロジストの基本は、「ひとつの場所をくりかえし歩く」ことです。とくに最初のうちは同じ場所、同じ道をくりかえし歩いてみることが場所になじむコツだとか。何度も歩いてはじめて、道端の草木や虫、鳥など、その季節の生きものの存在に気づけるだけの余裕が生まれるといいます。
小さな子どもと一緒に歩くときは、とくにこの基本が大切。幼い子どもはまだ五感が発達途上にあり、「遠くの景色をうまく認識することができず、常に目の前のものしか目に入らない」からです。幼い子どもが「遊びに没頭するためには、時間をかけて場所に慣れさせることが前提となる」と、箱田さんはその著書『トコロジスト』に記しています。
ゆっくり歩くと見えてくる
同書によると、歩いて気づくことのできる情報量は、その速度によって、まったく違ってくるそうです。たとえば、時速7~10キロメートルのジョギングで目に入るのは、せいぜい自分の前方10メートル以内くらい。大ざっぱな地形や環境の違い、目立つ花や木の実、大きな声で鳴いている鳥や虫の声くらいしか気づくことができません。一方、時速2~4キロメートルくらいで歩くと、視野は半径30メートルくらいまでになり、後方にまで広がります。そして、目にとまったものに興味を示しながら立ち止まったりしゃがみこんだりする幼児の歩きになると、時速約1キロメートル。このくらいになると、やぶのなかで身を隠している野鳥や、花の蜜を吸いに来ているチョウにも気づくことができるとか。スピードや効率を追い求めて、大切なものを見落としがちな大人の日常を反省したくなるような話ですね。
近所の公園でも、あるいはいつも買い物に行くお店や駅までの道でも、まずは身近なところで目を凝らし、耳を澄ましてみる。自然や生きもの、地域への目は、そんなところから開かれていくのでしょう。
博物学者でエコロジーの先駆者だった南方熊楠(みなみかたくまぐす)は、和歌山県田辺市の田辺湾に浮かぶ神島の保護活動をしたとき、「何たる特異の珍草珍木有ての事に非ず(希少な草や木があるから保護するというのではない)」と、身近で普通なものを大切にする必要性を説いています。
みなさんには、守りたい場所がありますか?
○参考図書:『トコロジスト─自然観察からはじまる「場所の専門家」』箱田敦只(日本野鳥の会)