研究テーマ

善意を伝える、ヒロシマの家

西日本豪雨の被災地となった広島や岡山では、連日の猛暑の中、大勢のボランティアが駆け付け、被災地の人々に寄り添っています。同じように今から約70年前、原爆投下後の広島に駆け付け、手を差し伸べた多くの人がありました。自然災害と戦争という違いはあるものの、駆け付けた人々の「気持ち」に変わりはありません。原爆記念日の近づいた今回は、広島市江波に遺された「シュモーハウス」と呼ばれる小さな家と、この建物に込められた平和への祈りと多くの人々の善意の行動をご紹介しましょう。

シュモーさんの家

集会所としての役目を終えた『シュモーハウス』は、被爆後の広島に寄せられた海外からのさまざまな支援を紹介する展示施設として新しい役目を担っています。

広島市江波といえば、2016年に公開されて大ヒットした映画「この世界の片隅に」の主人公、すずさんが生まれ育った町。「シュモーハウス」は、その皿山公園の南斜面に沿うように建っています。建物に冠されたシュモーとは、アメリカ人の森林学者であり平和運動家であったフロイド・シュモー氏(1895~2001)の名前。終戦4年後の1949年から53年の間に、家をなくした被爆者のため広島市内4ヵ所に住宅や集会所など15棟21戸を建築し、51~60年には長崎市にも被爆者のための家を建てています。そして、その中で1軒だけ残っているのが、冒頭にご紹介したシュモーハウスです。
地元の集会所として長い間親しまれてきたその建物がもともとあったのは、現在の地点から約40m離れたところ。道路整備のために一時は取り壊しも検討されたそうですが、曳家して移築したといいます。そこまでして遺されたのは、長年ここに集ってきた町の人々が、シュモーさんを誇りに思い、善意の象徴であるこの建物を大切に守り続けてきたからでした。

悩みや苦しみを分かち合いたい

フロイド・シュモー氏は、1895年にアメリカ合衆国カンザス州の農場主の両親のもとに生まれました。一家は代々、非暴力・社会正義・他者への奉仕を信条とするキリスト友会(クエーカー)の信者であり、暴力や戦争は絶対的な悪であるという信念は氏自身の核となっていたようです。
「ヒロシマに原爆が落ちたとき、あなたと私の上にも、そして未来の子どもの上にも落ちたのです」─そんな思想に立つ氏は、広島へ行くことを決意し、寄付を募り、ボランティアを集めて住宅を建築する「ヒロシマの家」プロジェクトを立ち上げました。
「家を建てるなら、むしろ永久に残る社会施設にしては」と勧める人もありましたが、氏は「戦争の一番ひどい犠牲者は自らの選択の自由も権利もなかった個々の市民一般である」「この個人的な悩みを共に分かち共に苦しみたいと思い『ハウス・フォア・ヒロシマ』を組織する」と答えたといいます。

ボランティアの力

もちろん、こうした活動は氏の想いを共有し、行動を共にする人々の存在なしには成り立ちません。1949年、募金活動で得た4000ドルと広島の病院のための医薬品、自分たちの食糧、大量の建設資材などを携えてシュモー氏が来日したとき、その傍らにはアメリカから同行したボランティアの姿がありました。そしてさらに、東京から、広島からも多くのボランティアが合流。たった一人の大工の棟梁以外は、素人のボランティアがその作業を担ったのです。

「過程」が平和につながる

「ヒロシマの家」プロジェクトの建設現場には、「ヒロシマの家ワーク・キャンプ・プロジェクト」と題して、次のようなスローガンが記されていたそうです。

  • 1.お互いを理解し合い
  • 2.家を建てることによって
  • 3.平和が訪れますように

プロジェクトに次々と集まってきた人たちは、年齢や国籍や人種や立場も一様ではありません。さまざまな違いを違いとして受け止めた上で、人が住む家を人がつくるという到達点に向かっていく。その過程にこそ、平和につながるものが生まれるとシュモー氏は考えていたのです。
国を超え、一人の人間としてなされた善意と愛に満ちた行動に触れて、プロジェクトに参加した人はもちろん、被爆地の人たちも絶望の中から生きる勇気と希望の光を見出していったといいます。

平和住宅

最初の4棟が建てられた皆実町の「ヒロシマの家」の庭園に置かれた石灯籠。日本語で「祈平和」、英語で「That There May Be Peace(平和が訪れますように)」と刻まれています。

1949年10月、シュモー氏たちの建てた最初の4戸が完成し、広島市に引き渡されました。ところが、その献呈式の招待状の中に、シュモー氏が面くらうような言葉が。「ヒロシマの家」が「シュモー住宅」と名づけられていたのです。それを見たシュモー氏は、式当日の寄贈演説の中で、自らその名称を訂正します。なぜなら、「これらの住宅の建築を可能なものにしてくれた友誼に富むアメリカ人や、私を助けて建設に従事した15ないし20人の人たちに対して公正とはいえない」から。
そして、同じスピーチの中で「この住宅は私たちの希望であり祈りの象徴であり」「私たちがやる仕事は、私たちの心の愛を目に見える『愛の表現』とすることなのです」と語り、建物の名を「平和住宅」とするよう提案したといいます。

こうして建築された「ヒロシマの家」ですが、時代を経て老朽化が進み、住宅事情の変化もあって、少しずつ取り壊されていきました。
シュモー氏の記憶も次第に薄れていきつつあった中、氏の功績を掘り起こして伝える活動をしてきたのが、市民団体「シュモーに学ぶ会」。絵本『シュモーおじさん』の発刊をはじめ、小冊子の制作やシュモーハウスの存続にも力を尽くし、ハウスの案内役も買って出ています。
「人は微力ではあっても無力ではありません。"人、一人からの力"の偉大さと、それが集まって仲間となった時の力の強さをぜひ知ってほしい」─「シュモーに学ぶ会」が制作した小冊子、『ヒロシマの家─フロイド・シュモーと仲間たち─』の前書きに記された言葉は、私たちに大切なことを訴えかけているようです。

※参考図書:「ヒロシマの家─フロイド・シュモーとその仲間たち─」(シュモーに学ぶ会)

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