研究テーマ

想いをつなぐ ─森の中の小さな美術館─

子ども時代に遊んだ公園、仲間と行った海や山、家族と一緒に暮らした家…人には誰しも、宝物のようにしている大切な場所があります。多くの場合、それは「思い出」として記憶の中にしまい込まれ、たまに当事者同士の話の中で浮かび上がってくる程度でしょう。でも、大切な場所だからこそ、自分たちの思い出の中だけにとどめるのではなく、少しでも多くの人と分かち合いたい。そんな想いから、東北の小さな美術館が復活しました。今回は、ひとりの画家の遺したものを未来へつなごうとして始まった、ある活動をご紹介します。

郷里を愛した画家

白壁土蔵造りのその美術館は、月山の麓に広がる田園風景と柿畑に囲まれて建っています。山形県鶴岡市羽黒、小さな森の中にひっそりと佇む「今井アートギャラリー」。前身は、洋画家、故今井繁三郎さんが生前(1990年)に建設した私設美術館、「今井繁三郎美術収蔵館」です。
東京で画家としてのキャリアを積んでいた今井さんが、拠点を羽黒町に戻す決意をしたのは、終戦後まもなくの35歳のとき。「郷里の自然の中で子を育て、創作を行う」という決断は、画家としてどう生きるかという覚悟のようにも見えます。山林を切り拓いて移り住み、91歳で亡くなるまで、一貫してこの地で創作活動を継続。絵のモチーフは多岐にわたりますが、すべて今井さんの心のフィルターを通して描かれた心象画で、自由奔放な作風、表現が多くの人を惹きつけました。

大切な場所

自由な空気に満ちた祖父の家は、今井さんの孫たちにとって居心地のいい場所だったようです。各地に散らばっていた13人の孫たちは、夏休みになると毎年ここに集まり、共に過ごし、この場所を心の故郷として胸に刻んでいきました。
今井さんが羽黒の地に私設の美術館を建てたのは、80歳になってからのこと。鶴岡市にあった旧家の土蔵(元禄2年、1689年建立)を移築し、個人美術収蔵館として自らの作品約400点に加え、自身が日本全国、世界各地で集めてきた1000点に及ぶ民芸品などを展示してきました。孫たちにとって大切なこの場所は、美術館ができてから後は、ここを訪れる多くの人にとっても大切な場所となっていったのです。

休館、そして再開

しかし2002年に今井さんが亡くなった後は次第に維持管理が困難になり、2014年秋、いったん休館となりました。とはいえ、多くの人の胸には「このまま終わらせたくない」という想いが残っていたのでしょう。その後、今井さんの孫たちやゆかりの人たちが中心となって「羽黒・芸術の森運営会議」が結成されたのは、自然の流れといえるかもしれません。
単なる美術館ではなく、アーティストや地域の人々が気軽に集える「拠点」にという構想のもと、美術収蔵館を「今井アートギャラリー」、旧アトリエを「工房いずみの」、庭を「羽黒の小さな森」と分け、敷地全体を「羽黒・芸術の森」と命名。2016年、生まれ変わって再びオープンしたのです。

食と創作をつなげる

旧アトリエは改修して、「食」と「創作」が共存する場に。レストランを併設し、貸しアトリエやワークショップ会場としても使える空間に生まれ変わりました。レストランができたことで、これまで美術館のことを知ってはいたけど敷居が高くて入れなかったという人も気軽に訪れてくれるようになったといいます。
レストランを担当するのは、東京・吉祥寺でレストランを営んできた加藤博紀・あさ野さん夫婦。あさ野さんは今井さんの孫で、幼い頃から慣れ親しんできたこの場所を残していきたいという思いから、10年続けた東京の店を閉めて夫婦で移住してきました。子どものころはもちろん、大人になってからも落ち込んだときは「羽黒が足りない」と思うほど、ひたすらこの場所が好きというあさ野さん。この地で、祖父・今井さんの想いを受け継ぐために何かできるのが嬉しいと語ります。

多くの人に支えられて

もちろん、再開にはお金も人手も必要です。もともと私設の美術収蔵館ですから公的な補助があるわけではなく、資金の一部はクラウドファンディングで募りました。そして「手」を貸してくれたのは、ボランティアの人たち。生前の今井さんと直接関わりのあった人だけではなく、作品を通じて今井さんを知っていた人たちが再開を聞きつけ「ちょっとでも今井先生の作品に関われたら」と集まってくれたり、東北芸術工科大の学生さんたちが来てくれたり。開館前の整備や掃除、作品の架け替え、開館後の受付まで、大きな力になってくれたそうです。また、閉館から再開までの事情を知る地域の人からは「再開してくれて、ありがとう」という言葉をかけられることも。黙って手を差し伸べたり、見守ってくれたりする存在があってこそ、想いをつなぐという夢が実現したのでしょう。

地域の交流の場として

「芸術、絵画は次の世代のためにある」「子供や若い世代に共有される空間をつくる」という今井さんの想いを形にするため、ここでは数多くのイベントも行われています。
さまざまなワークショップ、クラフト作品やハンドメイドの品を持ち寄って販売する「小さな森のマーケット」、地元出身の音楽家が愛用していた古いグランドピアノを修理復元するためのチャリティーコンサート、インドアッサム州の舞踏団の公演などなど。ジャンルを超えた幅広い芸術の発信・創造・体験の場となりつつあるようです。

「衣食住足りれば人は生きていけるが、心が動かないと本当の人として成り立たない」──今井さんは生前そう語り、「よりよく生きる」を信条としていたそうです。その想いを受け継ぎ、この場所を「人が人として生きる」ための場にしたいと復活した小さな美術館。そんな想いとともに、今後この場所は、より多くの人の「大切な場」に育っていくのでしょう。

[関連サイト]
(Facebookページ)羽黒芸術の森-今井アートギャラリー
(Facebookページ)オーブンカトウ

研究テーマ
生活雑貨

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