祈りの場
大晦日にはお寺で除夜の鐘を撞きながら祈り、一夜明けると神社へ初詣に行って祈る。一神教の国の人々からは驚きの目をもって見られるそうですが、私たち日本人にとってはごく当たり前の風景です。お寺であろうが神社であろうが、そこで求められているのは祈るための場。それは、森羅万象に神が宿るとしてきた日本人の自然観と無関係ではないでしょう。お正月明けの今回は、いろいろなところにある「祈りの場」と、そこに寄せる人々の想いについて考えてみました。
「いのり」の意味
そもそも、「祈る」とは何でしょう? 『広辞苑』には、第一義として「神や仏の名を呼び、幸いを請い願う」と記されています。初詣で「今年も佳い年になりますように」とお願いするのは、まさにこれですね。
しかし、祈りの原義にはもっと違う意味が込められているという説もあります。「いのる」の語源は、「意(い)+宣(の)る」。つまり、「自分の意志や意図を宣言する」ことだというのです。「いのる=自分の想いを宣言する」ことによって、その想いに忠実であろうと決意し、そして実現に向けて何らかの行動をとる。だから、たとえば「平和の祈り」とは、「戦争が無くなるように願うことよりもむしろ、まず自分が周囲の人間と争いごとを起こさないように努力すると宣言することにある」と言う人もいます。「いのり」が自分自身への誓いだとするなら、祈りの場は、人の気持ちを祈りに向かわせるための装置といえるかもしれません。
祈りと精神性
古くから続く商家の庭にお社(おやしろ)があるのはよく見かける風景ですが、今でも東証一部に上場している企業のオフィスに神棚があったり壁にお札が貼られていたりするのは決して珍しいことではないそうです。
自分たちが施主となって、長野県茅野市に蓼科山聖光寺(たてしなさんしょうこうじ)というお寺まで創建したのは、トヨタ自動車。そこでは1970年の創建以来、四十数年にわたって、交通安全・交通事故遭難者の慰霊・負傷者の早期回復を祈願しているそうです。毎年7月に行われる夏季大祭は、関連会社も含めた経営陣が集結して交通安全を祈願する恒例行事。トヨタグループの関係者が精神性を共有するための重要な場所になっているといいます。
辛い場所を、祈りの場所に
爆心地に近い場所につくられた広島平和記念公園では、原爆記念日でなくても、多くの人が訪れて祈りを捧げています。交通事故のあったらしい場所に花が手向けてあるのも、祈りの心のあらわれでしょう。
東日本大震災で大川小学校の児童74名が犠牲になった宮城県石巻市は、津波の爪痕が残るその校舎を「震災遺構」として保存しています。遺族の間では「保存」と「解体」で意見が分かれたそうですが、保存を訴え続けた一人が、津波にのまれながらも奇跡的に助かった当時5年生の只野哲也さん(18)。今では母校で「語り部」の活動もしていますが、「校舎があれば帰ってこられる。命日の日に手を合わせる場所が必要なのです」と話しています。慰霊の意味はもちろん、「祈りの場」を持つことで亡くなった人たちを思い起こし、生きている人の心に刻み込もうとしているのかもしれません。
日本人の祈り
古代日本人は、一木一草、森羅万象に神が宿ると信じていました。雷を起こすのは雷神で、山の神は農耕期に里に下りてきて田の神になり、竈には火の神がいる。自然を畏怖しつつ自然に寄り添い、自然と共生してきた先人たちは、日々の暮らしのなかで今よりずっと身近に神を感じながら生きていたことでしょう。
遺伝子工学の研究で知られる筑波大名誉教授の村上和雄さんは、その著書のなかで「太陽を"おてんとうさま"と敬い、おてんとうさまに恥じないようにと生き方を律して、何かの恩恵を受けても"おかげさま"と感謝する。そうした、見えないものへの畏敬の念を、特別な祈りの中だけでなく、日常の中で持ち続けて来た民族」が日本人だと記しています。何年か前、「トイレの神さま」という歌がヒットしたのも、こうした日本的な背景があったからなのです。
日常のなかの祈り
現代人の私たちは祈りは特別な場所に行ってするものと思いがちですが、日常のなかにも小さな祈りがあふれていることに気づきます。「がんばってね」「気をつけてね」「元気でね」と声をかけたり、手紙の末尾に「ご多幸をお祈りします」などと書いたりするのも、その一例。「行ってらっしゃい」には「無事に帰ってきますように」という祈りが、「いただきます」には生命を捧げてくれた食物への感謝の祈りが込められているそうです。「おかげさまで」という日本的な言葉も、その根底にあるのは、目の前の相手への直接の感謝というより、自分を生かしている造物主への感謝の祈りから発するものといえるかもしれません。
美しいものを見て美しいと感じられるのは、その人の中に既に美しいものが存在するからだ、という話を聞いたことがあります。その伝でいけば、「祈りの場」を持とうとする人間の心の中には、祈るという美しい感情が既に種のように埋め込まれているのかもしれません。
今年の初詣、みなさんはどんな願いを込めてお祈りをされましたか?
*参考図書:「奇跡を呼ぶ100万回の祈り」村上和雄(ソフトバンク クリエイティブ)
*参考:日経ビジネスONLINE「記者の目」(2017.8.17)