野に咲く草花
五月五日は、端午の節句、薬草摘みの日です。などと書くと、季節外れの話題と笑われそうですが、旧暦の五月は新暦でいえばちょうど今ごろ。今年は、六月七日が五月五日(端午の節句)にあたります。雨期に入り不調になりがちな人間の身体とは逆に、植物の方はひと雨ごとに勢いづき生命力が高まる時期。先人たちは節句という行事に托して、植物の力を借りる知恵を受け継いでいったのでしょう。今回は、普段あまり意識することのない野に咲く花や草に目を向けてみました。
無病息災を願って
五月雨(さみだれ)という言葉もあるように、旧暦の五月は雨の季節。病気や災厄を避けるために植物の力を借りる行事が、奈良時代からおこなわれていました。端午の節句は、強い香気をもつショウブ(菖蒲)やヨモギなどで季節の変わり目に厄を祓(はら)ったのがはじまり。宮中では、菖蒲の葉で作った蔓(かずら)を冠に付けて端午の節会(せちえ:宮中で儀式のある日におこなわれた宴会)に参列し、皇族や臣下には菖蒲酒がふるまわれ、ヨモギなどの薬草を集めて丸めた薬玉(くすだま)が配られたといいます。薬草を摘んで野遊びをする「薬狩り」もおこなわれていたようで、先人たちが暮らしの中で親しみ活用してきた花や草の多くは、野に生えるものたちでした。
雑草という名の草はない
一方、野に咲く花や草に目を向けることなどあまり無いのが、私たち現代人。先人たちが薬用や食用として、あるいは日々の安らぎとして親しんできた野の草花たちの多くが、今では「雑草」という言葉でひとくくりにされています。
「都会に住んでいるから野の草花には縁が無い」と言う人もありますが、その気になって足元を見れば、道端や公園の片隅など、ここかしこに野の草花が。街路樹の根元やアスファルトを突き破るようにして、名もない草や花が懸命に生きている姿は、けなげで心癒されるものです。
「名もない」と書きましたが、もちろん「名もない花や草」などありません。「雑草という名の草はない」と言われたのは、生物学の研究者でもあった昭和天皇。その後に続く言葉は、「どんな植物でも、みな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる」というもので、小さな命に心を寄せることの豊かさを感じます。
名前を知れば、知り合いになれる
「雑草も花なんだよ、一度それと知り合いになるとね」──『クマのプーさん』で知られるイギリスの児童文学作家、アラン・アレクサンダー・ミルンの言葉です。「知り合いになる」ための第一歩は、きっと、相手の名前を知ること。そう言われてみると、私たちは野に咲く花や草たちの名前をあまり知らないことに気づきます。
とはいえ、植物図鑑で調べるのも結構大変な作業。つい億劫になってしまい、知らない草花は知らないままで過ごしてしまいがちですが、最近では植物の名前を調べるための無料アプリも登場しています。知らない花を写真に撮って検索すれば、「可能性のあるもの」として名前や説明が出てくるというもの。ITを味方にして、身のまわりの自然と仲良くなれるなんて、なんだか楽しいですね。
野の空気を連れてくる
「手に取るな やはり野に置け 蓮華草(れんげそう)」という俳句があります。野原で咲いているからこそ蓮華草は美しい。摘んで自分のものにするのではなく、自然のままの姿を愛でるのがふさわしいといったような意味。実は、遊女を身請けしようとした人を諭すために作った句だといわれます。
たしかに、野の草や花は家に持ち帰って活けても早々に萎れてしまい、残念な結果になることが多いものです。一方で結構長持ちしてくれるのが、ヒメジョオンなどキク科の花やネコジャラシなどイネ科の草たち。また、ハート形の葉に白い十字の花をつけるドクダミは、美しさだけでなく実利を兼ねて活ける人もあります。蚊に刺されたときなど、その葉を揉んで患部にこすりつけると痒み止めになるのだとか。強い香りを臭気として嫌う人もあるのですが、一輪挿しに活ける程度ならあまり気にならないといいます。
そんな野の花や草を一輪だけいただいて、自分の空間に飾ってみる。たとえ都会のマンション暮らしでも、そこに「野」の空気が広がっていくのを感じることができるでしょう。
「雑草とは、その美点がまだ発見されていない植物である」と言ったのは、アメリカ合衆国の哲学者であり作家、詩人、エッセイストでもあったラルフ・ワルド・エマーソン。よくよく考えてみたら、先人たちがすでに発見してくれている多くの美点を、私たち現代人が見過ごしているだけなのかもしれません。野に咲く草花は、足元に息づくもっとも身近な自然。小さな命に目を向けるゆとりを持つことで、日常の景色は、もっとやさしいものに変わっていくのではないでしょうか。