将棋の世界の魅力
最近、一人の天才棋士の登場によって、将棋の世界がにわかに注目を集めています。その棋士の名は、藤井聡太。2016年10月、14歳2カ月の若さでプロデビュー。以来29連勝の大記録を打ち立て、さらに王位、棋聖のタイトルを奪取するなど、歴代の最年少記録を次々と塗り替えています。今回は藤井さんの活躍にスポットを当て、そこから見えてくる将棋の世界の魅力に迫ってみました。
将棋界のモーツァルト
もし、最年少というだけで藤井聡太という人を評価するのなら、それは間違った認識かもしれません。確かに17歳11カ月で「棋聖」のタイトルを奪取。18歳1カ月で「王位」を取った若者の活躍には目を見張るものがあります。17歳といえば高校3年生。詰め襟の制服姿で対局室に現れ、トップ棋士を負かしてしまう少年に、世間が驚いたのも無理はありません。
しかし、藤井聡太にとって「若いのに」という枕詞は不要かもしれません。たとえば、名人位を3期連続獲得したトップ棋士の佐藤天彦九段は、藤井聡太特集を組んだ雑誌※の対談で、「最近の藤井さんの将棋を見て、思い浮かべるのはモーツァルトです」と、希代の楽聖になぞらえてその天才ぶりを評しています。また、高校生の藤井さんと対決し、タイトルを奪われた渡辺明名人(棋王・王将)も、「過去にもタイトル戦で負けたことはあるけど、この人にはどうやってもかなわない、という負け方をしたことはありません。でも今回はそれに近かった」と語っています。藤井聡太という棋士が、いかにずば抜けた才能の持ち主であるかが分かります。
大人びたボキャブラリー
もうひとつ藤井さんが世間を驚かせたのは、その年齢に見合わぬ言葉遣いです。王位戦に4連勝し、タイトルを獲得した直後に感想を聞かれとき、彼はこう答えています。「そうですね、4連勝という結果は望外というか、自分の実力以上の結果が出たのかな、という気がします」。これに限らず藤井さんは多くの場面で、僥倖、茫洋、奏功、白眉、矜持といった大人びた言葉を口にします。いや、大人びているのは言葉だけではなく、立ち居振る舞いにも落ち着きがあり、いかにも礼儀正しいのです。どうすればこんな青年が育つのかと、首を傾げた親世代の人も多いのではないでしょうか。
それを理解するうえでヒントになる言葉を、前出の佐藤天彦九段が述べています。「僕らは同世代より一足先に社会に足を踏み入れている分、若い頃から落ちついて見られることが多かった」と。いま将棋界で活躍している多くの棋士が、10代で奨励会という養成所に入り、プロ棋士になっています。若いうちから甘えの許されない勝負の世界に入り、互いに切磋琢磨するうちに、棋士たちは自然と大人びた感覚を身につけていくのでしょうか。
厳しい勝負の世界
一般的に将棋の棋士は、対局で勝利したときに喜びを露わにしません。画面で見る限り、どちらが勝者か分からないほど抑制的に振る舞います。勝利の感想を聞かれても、まずは相手の実力を褒め称え、それから訥々と自らの勝因を語ります。なぜこんなにも棋士たちは礼儀正しく、謙遜の心を持っているのでしょうか。ここからはあくまでも想像ですが、たぶん棋士という職業の息の長さが影響しているように思います。
将棋の世界では50、60代になっても現役を続行する人が珍しくありません。同じ勝負の世界でも、ここがスポーツと違う点。監督やコーチになっているはずの年齢で、現役の棋士と対等に戦わねばならないのです。もちろん、勝負の世界なので、年が上だからといって勝てるわけではありません。自分から見たら孫のような相手に完敗することもしばしばです。いきおい年長者だからといって偉ぶることはなくなります。たとえ年下であっても、その実力を認め、相手を敬う文化が将棋の世界にはあるのです。そういう先輩の背中を見て育つうちに、若い棋士の心にも、自然と対戦相手をリスペクトする思いが生まれてくるのでしょう。
こんな逸話があります。2020年12月3日、藤井さんは自らの師匠である杉本昌隆八段と対戦することになりました。師弟対決ということでメディアも注目したこの一戦。対局が始まるかなり前に、先に姿を現したのは師匠である杉本さんでした。将棋の世界には、タイトル保持者が上座を占めるというルールがあります。この時点で、弟子の藤井さんは棋聖・王位の二冠。対して杉本さんは無冠なので、上座に座るべきは弟子の藤井さんです。だから、師匠の杉本さんは「間違っても藤井さんが下座に座らないように」と一足先に入室し、自分の荷物を置いて下座を占めてしまったのです。52歳の杉本さんと18歳の藤井さんの勝負は、73手で藤井二冠の勝利に終わりました。終局後のインタビューで藤井さんは「どちらも(席が)空いていたら自分が下座に座るつもりだったんですが、先に荷物を置かれてしまったので……」と語っています。
厳しい勝負の世界に生きるがゆえに、棋士たちは互いに相手を敬い、礼節を重んじる文化を育んでいきます。こういう観点から将棋を見ていくと、また違った楽しみ方ができるかもしれませんね。
※参考資料:「スポーツグラフィックナンバー1010」(文藝春秋)