研究テーマ

不便はイヤですか?

「不便益」という言葉をご存じですか? 不便益とは、不便の益。英語で言うとbenefits of inconvenienceで、不便さがもたらす利益のことを言うのだそうです。何をするにも利便性やスピードが求められ、それによって効率よくお金を得ることが「豊かさ」とされてきた現代社会においては、いわば真逆の発想。「便利」に向かってひた走ってきた視点をちょっとずらして、「不便益」という視点に立ってみると、これまで見過ごされていたものの価値が再発見できるかもしれません。

そもそも、便利って何でしょう?

「不便益」を語る前に、まずは「便利」と「不便」の意味を再確認しておきましょう。辞書によれば、「便利」とは「都合のよいこと。うまく役立つこと」。そして「不便」は「便利でないこと。自由のきかないこと」(『広辞苑』)。私たち現代人の場合、ここに「スピード」や「効率」が加わって、便利さとは「速くできること、手が抜けること、思い通りになること」といったとらえ方をしてきたような気がします。さまざまな電化製品をはじめ、新幹線、車、飛行機などの交通手段も、すべては「便利」のために開発され、進化してきたもの。それによって経済が成長しお金の豊かさを手に入れることが進歩であり、「便利な」ものやことは先進国の象徴として評価されてきました。

「便利」は生きものに似合わない

しかし「"人間は生きものであり、自然の中にある"という切り口で見た時、この方向には大きな問題がある」と警鐘を鳴らすのは、生命誌研究者の中村桂子さんです。なぜなら、「生きものにとっては、眠ったり、食べたり、歩いたりといった"日常"が最も重要」であり、「便利さは生きものの特徴と合わないところが多い」から。日常生活の中ではとてもありがたいと思える「速くできる、手が抜ける、思い通りにできる」といったことは、「いずれも生きものには合いません。生きるということは時間を紡ぐことであり、時間を飛ばすことはまったく無意味、むしろ生きることの否定になる」と言われると、ちょっとドキッとしませんか?

「便利」は人間を退化させる?

「人間は生きものである」という視点に立つと、「便利」と思えていたことが、実は生きものとしての能力を削いでいたかもしれない、ということに気づきます。コロナ禍で自宅テレワークになり、通勤のために時間や体力を取られることもなく便利になった反面、運動不足によるコロナ太りや筋力の衰えを感じた人が多かったのも、その一例でしょう。
電卓に頼るようになって暗算ができなくなった、パソコンを使うようになって漢字を書けなくなった、携帯電話になってよく使う電話番号も忘れてしまった、カーナビを使いだして道を覚えなくなった…誰にも心当たりのある話ですね。もちろん、便利になって「助かる」こともたくさんあるのですが、便利さを追い求めていったその先に見える景色にも、私たちはもう少し想像力を働かせたほうが良いのかもしれません。

便利の追及で、見落とされていたもの

「便利なものが生活を豊かにする」という一般的な考え方に対し、便利の追及で見落とされていた「不便の効用」を見直すことで、新しいデザインを生み出そうという動きもあります。「不便だけど、我慢すれば良いことがある」といった妥協ではなく、「不便だからこそ、良いことがある」という前向きの考え方で、不便の効能を追求する研究です。その第一人者である川上浩司さん(京都先端科学大学教授)は、不便益の効能を追求するためWEB上に「不便益システム研究所」まで設立。自らの活動を「中村桂子さんの言葉を借りて格好よく言えば、"自然の中にある生きものとしての人間"のための道具や仕組みを考える活動」と説明しています。

バリアアリーの設計

そんな川上さんが「不便益」の好例として挙げるのが、建物の中にあえて段差などを設ける「バリアアリー」。高齢者施設や介護施設ではバリアフリー設計が基本ですが、あえて段差や階段を配置し、日常生活をちょっとした訓練の場にすることによって、身体能力が衰えるスピードを低減させるというものです。ある施設のバリアは、作業療法士として数十年のキャリアを持つ人がデザイン。施設での過介護が、利用者の主体性を奪って依存化傾向を高めるという知見に基づいているといいます。過保護は、デイケアセンター利用者の主体性を奪うもの。施設の中に配置された不便なバリアは、身体能力の衰えを緩和するだけでなく、過保護からの解放でもあるのです。そして、その効果を発揮させるのは、「手を貸してはならないギリギリ」を見極めるスキルを身につけたスタッフたち。バリアアリーは、施設の利用者だけでなく、スタッフの専門性を高めることにもひと役買っているようです。

「便利の押しつけが、人から生活することや成長することを奪ってはいけない」と語る川上さんの著書には、この他、園庭をわざとデコボコにして園児の活動や発達を促す幼稚園の話や、参拝の予約受付にわざわざ往復はがきを使っている京都の苔寺(西芳寺)の話も紹介されています。
考えてみれば、「便利」か「不便」かは人によって答えが違っていてあたりまえ。ひとりの人間の中でも、その時の状況によって「便利」と「不便」の基準は違ってくるでしょう。みなさんの「不便益」は何ですか?

参考図書:
・『科学者が人間であること』中村桂子(岩波新書)
・『不便益のススメ 新しいデザインを求めて』川上浩司(岩波ジュニア新書)

研究テーマ
生活雑貨

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