14.あるく、つくる、たべる。
新型コロナウィルスの影響で、「富士山と東京、行ったり来たり」ができなくなり、自宅テレワークの日々が続いています。森の家にこもって仕事をする期間が長引くにつれ、身体がガチガチに固まって、なんだか根っこが生えてきそう。運動不足を解消するために、無理をしてでも「歩く」ことを日課にしました。かつてのように愛犬連れの散歩ではないのですが、その分、自分のペースで歩けるので、立ち止まって空を眺めたり、摘んだ野イチゴを口に放り込んで水分補給したりするのも自由。てくてく歩きながら、体と心に酸素を送ります。
■ひぐれ時の散歩
私が歩くことにしているのは、陽が少し陰り始める頃から完全に沈む前までの時間帯。残照を映してピンクがかった雲の美しさに見とれたり、夕焼けで茜色に染まる西の空に見とれたり…自然のあやなす色使いには、造物主の存在を感じずにはいられません。そんな光景に出くわすことがなくても、昼と夜の間には、なんとなく緊張がゆるんだ空気が流れているようで、それがこちらの気分をほぐしてくれる気がします。
■セミの合唱、鳥の歌
樹々が茂る森の中は、生きものたちの声でとても賑やかです。晴れた日の昼間は、セミたちの大合唱。人間界ではコロナのせいで大きな声を出すこともはばかられる昨今ですが、セミたちは我が世の春(?)を謳歌して啼き放題。
陽が傾きセミがおとなしくなると、野鳥たちの出番です。「春告げ鳥」の別名をもつウグイスは、一般的に早春の鳥というイメージですが、ここ富士山麓の森の中では盛夏まで高らかに「ホーホケキョ」。春先には拙い感じがしたその声も、季節が進むにつれて堂々としたベテラン歌手のような声に変わり、そうした成長ぶりに気づくのも楽しみのひとつです。
声を頼りに見上げても、野鳥の姿は見つけられないことの方が多いのですが、代わりに見つけるのは、ひっそりと咲く樹の花やその周辺でゴソゴソ動いている虫たち。樹の下から見上げたときの葉っぱの裏側の表情も面白くて、つい見とれてしまいます。
とはいえ、上ばかり見て歩いているかというと決してそうではなくて、むしろ、足もと近くの草や花を見ている方が多いのです。お目当ては、手の届く範囲に生えている、野イチゴや食べられる野草たち。前回のブログでご紹介したベジブロスの材料も、最近ではその一部を自然からいただくことにしています。
■ドクダミを使う、食べる、飲む
ドクダミは都会にも普通に生えているポピュラーな植物ですが、ニオイが強いせいか嫌われることも多く、あまり利用されません。
「ドクダミは薬草」ということを思い出させてくれたのは、まだ東京に暮らしていたころの近所のおばあさん。子どもが蚊に刺されて痒がっていたとき、「ドクダミの葉っぱをクチュクチュ揉んで、痒いところに当てるといいよ」と教えてくれたのです。
化粧水もつくれると聞いたので、花の時期の生葉をウオッカに漬けてみました。半年から1年程度寝かせたものは、日焼けで火照った肌を鎮めてくれますし、スプレーボトルに入れて持ち歩けば虫よけや痒み止めにも。
もちろん食材としても使え、若葉は天ぷらに、天日干して乾煎りした葉は「お茶」として飲むことができます。
■棘(とげ)街道から
植物にはそれぞれ「お気に入りの場」があるらしく、わが家の周辺は、ひそかに棘(とげ)街道と名付けているほど「トゲもの」が多いエリア。野イチゴやタラ、山椒などが自生してはびこり、庭では植えた覚えのない山椒が2階に届くほどの大木に育っています。
これを食材として使わない手はない。というわけで、若い芽のときは、さっと湯通ししておひたしに。生長した葉や実は、ちりめん山椒に。ベジブロスにも一枝加えると、爽やかな引き締まったダシになり、山椒がハーブの一種であることを実感します。
そして、とても硬い材は「すりこ木」にも。わが家でも、2年前の台風で倒木にのしかかられ真っ二つに折れてしまった山椒の樹を使い、すりこ木を手づくりしました。
■ベランダ補修、完成
私が「つくる」のはもっぱらお腹に入るものですが、男性陣の「つくる」は大工仕事。築30年以上、しかも厳しい自然にさらされる森の中の家ですから、常にどこかに手を入れていないと、なかなか維持できません。その意味で、男性陣の「つくる」は、楽しみであると同時に森の暮らしを支える必須の仕事でもあるのです。年齢的にはだんだん力仕事がきつくなってきているのですが、さてこの先どうなるのか…。
■よもぎのおやつ
男性陣の労をねぎらって、ある日のおやつは、よもぎのパンケーキに。よもぎは東洋医学で生薬として使われるほどで、どこでもぐんぐん繁る生命力には圧倒されます。食べるには五月のお節句の頃がもっともやわらかいのですが、ゆがいたものをすりつぶしてパンケーキの生地に加え、焼いてみました。草餅ほどではありませんが、よもぎの香りがして、パンケーキなのに和の雰囲気がするから不思議です。
身の回りには、おいしく食べられる草や実がたくさんあります。もちろん私が森の中で暮らしているということもありますが、都会でも目を凝らせば同じ草や実があることに気づきます。「自然の恵み」と言うように、人が生きていくのに必要なものは、自然界の中にそこそこ用意されている気がしないでもありません。