21.森のアート
芸術の秋。全国的な緊急事態宣言も解除されて、久しぶりに美術館に足を運ばれる方も多いでしょう。今回ご紹介するのは、人の手が生みだしたアートではなく、日々の散歩の途中、森の中で見つけたアート的なもの。圧倒されるほどダイナミックなもの、近づいてみて初めてわかる繊細なもの、といろいろですが、いずれも自然の営みの中で必然的に生まれた「自然の作品」です。
蔓、つる、ツル
この森に住んで約20年になりますが、今年は異様なほどツルの勢いが強いことに驚かされます。太い幹を覆い尽くし樹の頂上をめざして這い上る姿は、アートとして見れば圧巻ですが、「その先」を考えるとちょっと怖い。ツルに巻き付かれることで樹勢が衰え、枯れていく樹も多く、そんな樹が台風や積雪で倒れていくのをこれまで何度も目にしてきたからです。
もちろん、ツルの立場からすれば、何かにしがみつくのが生きていくための手段。どちらの味方に立つわけでもないのですが、気候変動も言われている昨今、今年のツルのあまりの勢いには、ちょっと不気味なものを感じないでもありません。
大木にすがりつくことを途中から放棄して、単独で伸びていくツルも、たくさん見かけます。伸び続けていった結果、弧を描いたり、自身に絡まって複雑な模様をつくったり、立体的な建造物のようになったり…生まれる形は千差万別。地形や陽当たりによっても変わるようで、ふたつとして同じものはありません。
これ、な~んだ?
思いがけない樹の姿に出合って、ハッとすることもあります。
例えばこれは、立木の幹の一部にできたコブが肥大化したものですが、どう見ても顔。コブができたことにも肥大化したことにも、それなりの理由があり、おそらく学問的にも説明のつくことなのでしょうが、私にとっての興味はもっぱらその表情です。いろいろな映画に出てくる、樹の精のように見えませんか?
こちらは、幹の途中からバッサリ伐られたと思われる木。切り株というには背丈が高すぎるので、一瞬なんだかわかりませんでした。伐られた樹が、「痛い目に遭ったけど、とにかく生きよう」と頑張って芽を出し、細々と枝を伸ばし、秋が来て葉っぱが落ちた結果の姿なのでしょう。怒髪天を衝いているように見えなくもありませんが、その下の顔(?)は、とてもやさしい表情。散歩でこの樹に合うたびに、「ガンバレ」と声をかけてしまいます。
根元近くからバッサリ伐られた樹もあります。いわゆる切り株ですが、どっこい根っこは生きている。地面からむき出しになりながらもしぶとく生きている姿は、造形的にも面白いと思うのは私だけでしょうか?
そして、根っこから運ばれた養分で、切り株の一部からまた新しい命が芽吹いている。「造物主」という言葉を思い出すのは、こんな時です。
一方、森の工事現場の片隅では、根こそぎ掘り起こされた樹を見つけました。さすがに、ここから新しい命が芽吹くことはなさそうですが、それにしても根っこの堂々たる存在感には圧倒されます。
自然が生みだす森のアートは、当然ながら、場所によって異なります。湿気の多い場所で見つけるのは、さまざまな苔。苔むした石の階段などは、侘び寂びの世界を思わせ、なんとなく心が鎮まります。
キノコも湿気を好む植物。今年初めて出会ったこのキノコは、建築物を思わせる群生の仕方で目を引きました。
生きることは、美しい
動物たちも負けていません。こちらは、都会でも見ることのできるクモの巣ですが、こうしてじっくり眺めてみると美しいと思いませんか?バランスのとれた形といい、大きさといい、ここまでの巧みには、なかなかお目にかかれません。
面白いのは、ちょっとほころびができると、彼らがそれをこまめに繕うこと。おそらく、繕わないと小さな獲物を獲り逃がしてしまうからで、人間の漁師さんが次の漁に備えて網を繕うのと同じなんですね。
森に住んでいると、時折りカンカンカンカン…というリズミカルな金槌の音が聞こえてきます。実はキツツキが樹をつつく音だと知ったのは、移住後しばらくしてからのことでした。大工さんに言わせると、「あんなスピードで釘を打ち続けられるような腕のいい職人はいないよ」とのこと。たしかに、金槌の音に比べて、澄んだ高音です。
音で知る仕事ぶりの結果は、どんな「作品」になっているのか? ずっと気になりながら樹上高くのお仕事は、なかなか目にすることがありませんでした。それを初めて目にしたのは、地元の工務店さんから薪ストーブ用にといただいた丸太の中から。どうやって測ってつくったのだろう、と思うほど見事な円形! 不器用な私から見ると、想像を絶する作品です。この中でヒナを育てたのでしょうか? ヒナが巣立っていった後は、リスの棲み家になっていたかもしれません。円柱にくりぬかれた小さな穴が、想像をかきたてます。
ちょっと古い写真になりますが、見慣れないこんな巣に出合ったこともありました。巣の中に敷かれたふわふわの毛は、おそらく、その当時わが家で飼っていた白い秋田犬の毛。散歩の後に毛を梳く習慣でしたが、バケツの中に入れておいたそれがいつの間にか無くなっていて驚いたことがあります。そして、その後に見つけたのが、この巣。居住性といい見た目といい、アートと呼びたいくらいの作品でした。ただ残念なことに、巣づくりした場所が不安定。ハラハラしながら見守っていましたが、ある日突然、なくなってしまいました。子育てが終わって不要になったのか、それとも外敵に狙われたのか…理由はいまだにわかりません。
最後にご覧に入れるのは、地元の子どもたちが「リスのエビフリャア(エビフライ)」と呼ぶ、リスの作品。寒くなって樹上の木の実がなくなると、落ちた松ぼっくりを齧って、中の種(いわゆる松の実)を引っ張り出して食べるのだといいます。その食べかすが、これ。カラッと高温で揚げたエビフライそのものですね。これも「つくり手」によって出来はいろいろで、ていねいに端から齧る子、まん中からガブリといく子、途中で面倒くさくなって放り出す子…作者のいろいろな個性を想像しながら眺めるのも、楽しいものです。
森を歩いて何かを見つけるたびに「これはアートだ!」とひとりではしゃいでいるのですが、動植物にしてみれば、ただひたすら「生きて」いるだけのこと。生きるための営みの結果が、「無作為の美」を感じさせ、見る人にある種の感情を呼び起こすのかもしれません。
ちょっとまなざしを変えるだけで、見慣れた風景の中にも新しい発見があります。その気になれば、都会の真ん中の公園や草むらの中にも、小さな自然のアートを発見できるでしょう。