授業がない、先生がいない学校。
サドベリー教育。
前回のブログで、この日本にも文部科学省が認可していない「オルタナティブスクール」があることを紹介しました。今回はそのひとつである「サドベリースクール」について書いてみたいと思います。
今から半世紀前の1968年、アメリカはマサチューセッツ州のボストン郊外にある「サドベリーバレー」という土地に、あるユニークな学校が誕生しました。それが「サドベリーバレースクール」です。この学校のどこがユニークかというと、まず授業がありません。カリキュラムがありません。そして、子どもたちを教える先生もいません。小学生から高校生ぐらいの年齢の子が通っていますが、生徒たちはスタッフと呼ばれる大人に見守られ、広大なキャンパスの中で、一日中好きなことをやっていられるのです。
サッカーをしてもいいし、ギターを弾いてもいい。ダンスの練習をやってもいいし、キッチンでケーキを焼いてもいい。勉強は? やりたければもちろん勉強することもできます。でも、誰も強制はされません。当時まだテレビゲームはありませんでしたが、ゲームを一日中やっていても誰にも文句はいわれません。
1997年にNHK ETV特集「世界一素敵な学校 サドベリー・バレー物語」で紹介されるやいなや、この学校は教育関係者の間でたちまち話題になりました。授業がない? 先生がいない? そんな教育が成立するのか? 従来の学校教育にアンチテーゼを突きつけたサドベリーの取り組みは、驚きと戸惑いをもって受け入れられたのです。
世界一素敵な学校。
番組タイトルになった「世界一素敵な学校」というのは、スクールの創設者であるダニエル・グリーンバーグさんが書いた本の名前です。ダニエルさんの教育理念は、「子どもは学びたくなったときに、いちばんよく学ぶ」というもの。子どもには生まれながらに好奇心があり、本能的に自分で学びたくなる力を持っている。大人が教えたり、意図的に導いたりすることは、かえって子どもの学ぶ力を奪うことになると。だから、この学校では子どもに対して「教える」ということを一切しないのです。
また、ダニエルさんはこうも言っています。「子どもを退屈のプールにどっぷり浸けるのだ」と。「好きなことをやっていい」と言われて子どもが喜ぶのは初めのうちだけ。際限ない自由な環境に置かれると、しだいにやることがなくなって退屈し始めるというのです。そして、「自分は何がしたいのか」「何をすべきなのか」というテーマと向き合わざるをえなくなる。この「退屈のプール」の期間を経て、子どもは真の学びに目覚めていくというのです。
日本のサドベリー教育。
「授業がない、先生がいない」というこの学校の取り組みは、「サドベリー教育」として、ボストンからアメリカ全土へ、そして世界の国々へと広がっていきました。日本も例外ではなく、NHKの放送があった翌年の1998年に、兵庫県に「デモクラティックスクール まっくろくろすけ」が誕生します。その後、北は北海道から南は沖縄まで、今では10校ほどの「サドベリー教育」を取り入れた学校が立ち上がり、運営されています。
といっても、「日本サドベリー協会」のようなものがあるわけではなく、個々のスクールは完全に独立して、それぞれ独自の個性的なスクールづくりを行っています。同じ「サドベリー教育」でも、スクールの雰囲気からルールまでまったく違うのです。なぜなら、サドベリータイプの学校にはもう一つ大きな特徴があって、「自分たちの学校は自分たちで作る」という理念に基づいているからです。個々のスクールは、そこに集まる人が作るコミュニティによって運営されています。このような民主的な形態を持つ学校は「デモクラティックスクール」と呼ばれ、サドベリースクールはデモクラティックスクールの一部として位置づけられています。
生きる力が身に付く。
サドベリー教育の根本には「人間は教えなくても育つ」という考えがあります。それは逆に「教えることによって育つ力が奪われる」と言い換えることもできます。今の学校教育では、国語や算数などの教科はもとより、体育や図工、音楽まで、手取り足取りしながら子どもに教え込もうとします。でも、本来、人は学びたいと思わなければ学びません。無理やり勉強させるのは、食べたくない人に無理に物を食べさせることに似ています。
サドベリー教育の学校では、子どもに読み書きを教えません。でも、不思議なことに自然と読み書きは身に付いてきます。なぜなら、放っておいても子どもは文字を読みたくなるからです。「ねぇ、この本には何が書いてあるの?」「この字はなんて読むの?」そんな素朴な疑問から、文字や文章を学びたくなるのです。この「学びたくなる力」こそが、将来の「生きる力」に結びついていくのです。
さて、しかし、好きなことだけをやっていて、人間は本当に育つのかという疑問がここで生じます。甘やかしてばかりだとロクな人間にならないのではないか。大人になるためには、ある程度は嫌なこともやる必要があるのではないか。
ところが、完全に自由な環境に身を置いてみると、こういった心配が杞憂であることがわかります。「自由」と「甘やかし」はまったく別のものなのです。
次回は、サドベリー教育における「自由の厳しさ」について書いてみたいと思います。
(イラスト:中田晢夫)