自由であることの厳しさ
天国のような自由
17歳になる私の息子は、中学校1年から3年までの3年間、「東京サドベリースクール」というオルタナティブスクールに通っていました。前回のブログでも紹介しましたが、ここは先生もいない、授業もない、自分の好きなことをやっていられる学校です。日がな一日、本を読んでいてもいいし、映画を見ていてもいい。ソファで昼寝をしたり、キッチンで料理をしたり、みんなでテレビゲームに興じることもできます。同年代の子が見たら羨ましくなるような、まさに天国のような自由が保障されているのです。
「こんな自由な学校があるんだよ」と人に教えると、「いいですねぇ」という人がいる反面、「子どもに好き勝手をさせていて大丈夫か」と首を傾げる人もいます。実際、私もはじめは同じような疑問を抱きました。ここまで自由を与えるのは、子どもを甘やかすことになりはしないか。好きなことしかできない、こらえ性のない人間に育ってしまうのではないか。でも、実際に子どもが学校に通ってみると、このような心配は少しずつ消えていきました。なぜなら、自由というものの本質が見えてきたからです。自由は決して甘いものでもなく、子どもにとって天国のような状態でもない。自由であるがゆえの「辛さ」や「厳しさ」が見えてきたのです。
制限の中での自由
日頃私たちが享受している"自由"の背後には、"義務"や"規則"といった自由を制限するものの存在があります。たとえば、土日の休みが嬉しいのは、月曜から金曜までの仕事があるから。夏休みがあれほど待ち遠しいのは、長い長い一学期があるからです。言い方を変えれば、日々自分を束縛しているもののおかげで、"自由"は輝かしく、甘美なものに思えているのです。
ところが、サドベリースクールにおける自由は、このような制限付きの自由とはまったく性質を異にします。たとえていえば、モンゴルの大平原にぽつんと一人たたずんでいるような状態。自分の意志でどっちにでも行けるけど、どっちに行ったらいいか分からない。何をやってもいいけれど、何をやればいいか分からない。そんな自らの存在が心もとなく思えてしまうほど、とてつもなく大きな自由なのです。何をやればいいか誰も指示してくれないし、教えてもくれない。こんな状況の中で「毎日好きなことをやっていい」と言われたら、たいての大人は戸惑い、途方にくれるかもしれません。子どもだって、「やった! 好きなことができる」と喜ぶのは初めのうちだけで、その後は持て余してしまうほどの膨大な自由時間と向き合う日々が始まるのです。
自由の刑
フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルは著書「実存主義とは何か」の中で、「人間は自由の刑に処されている」と言いました。「自由であることは、自分のなすこと一切について責任があるからだ」と。そう、"自由"と"責任"は常にワンセット。そして、サドベリースクールに通う子どもたちは、誰に教わることもなく、「自由と責任」について深く考え、学ぶことになるのです。
たとえば、授業のないこの学校では、一日中遊んでいても誰も何もいいません。本人さえよければ、ずっとゲームをやっていてもいいのです。ただし、その責任は自分で取ることになります。読み書きの勉強をしなければ、当然、文字は読めるようになりません。もし、本やマンガが読みたければ、読み書きを学ぶ必要が出てきます。一生、字の読めない人間でいるか、あるいは勉強をして文字が読めるようになるか。サドベリースクールに通う子どもは、それを小さい頃から自分で考え、判断していかなければならないのです。
自由は厳しく冷たい
自分はいったい何がしたいのか。将来どんな人間になりたいのか。普通の学校に通っていたら考えもしないことを、無限の自由を手にしたこの学校の子どもたちは、考えざるをえない境遇に置かれます。東京サドベリースクールのある卒業生は、次のようなことを言いました。「普通の学校に通う子は、あらかじめ敷かれたいくつかの道を選択するだけでいい。でも、サドベリーに通っていた僕は、山から木を伐り出して、自分の道をつくることから始めなければならない」。また、中学時代をこの学校で過ごした私の息子も、「自由の中に閉じ込められているようだ」「大人に管理されている方がよっぽど楽だろう」と言っていました。このような厳しい自由の中でもがき苦しむ子たちを見るにつけ、私自身の中で"自由"に対するイメージが少しずつ変わってきたのです。"自由"とはそんなに甘いもんじゃない。子どもにとってはむしろ辛く、厳しいものなのです。
「子どもに好き勝手をさせていて大丈夫か」という問いに、今の私なら自信をもって「大丈夫」と答えることができます。モンゴルの大平原のような自由の中で育った子たちの逞しさ、力強さを知っているからです。先の見通しの効かない混迷の時代にあっても、自由の厳しさを知っている彼らは、自らの手で道を切り拓き、しっかりした足取りで歩んでいくことでしょう。
(イラスト:中田晢夫)