ふだん着の縞 日本から
身の回りを見まわしてみようと、衣服の分野ではマドラスチェックを以前にとりあげましたが、今回は日本の「縞・格子」について見ていきたいと思います。
経糸と緯糸とが織りなすだけの基本的な文様の縞・格子は、日本人の生活の始まりとともにあったと言えるでしょうか。3世紀には麻の縞織りが魏の国への献上品にされたと伝えられるなど、縞織物が古くから貴重に思われていたことが分かります。5世紀に入ると中国、朝鮮との交易も盛んとなり、縞に紋を織り込んだ精緻な錦の織物が正倉院御物に遺されているなど、当時の人々の審美眼まで偲ばれます。
ふだん着としての縞・格子は、やはり文化が庶民のものとして栄える江戸時代、素材も木綿の普及によって楽しまれるようになっていきます。間道(かんどう)唐桟(とうざん)といった縞織物は近世初期に中国や南方諸国からの"舶来物"として珍重され、やがて庶民の生活になくてはならぬ木綿の生活着となっていったのでした。
どこか懐かしい、素朴な縦縞、格子などに出会い、惹かれた経験はどなたにもあると思いますが、間道、唐桟などが代表するこれらの縞が実は異国の島からのものが始まりだったということはご存じだったでしょうか。
例えば、インドのベンガルからきた弁柄縞、インド東海岸のサントメ(セントトマス)からの桟留縞(さんとめじま)。セイロン島からセーラス縞、などなど。縞は島、と知ると日本の文物の成り立ちの面白さが浮かび上がってきます。異文化を吸収して咀嚼し、自国の文物として名称も考案し作りあげる、そのたくましさに祖先への敬意が湧くようにさえ思います。
古道具屋さんや博物館で「縞帳」という、織り見本帳をご覧になることがあると思いますが、野良着などのワーキングウエアで着られてきた懐かしい日本の縞柄がたっぷり貼られたサンプルです。その縞文様が、実は異国のルーツに学んだ結果の産物という背景を持っているのです。さらに現在は日本のNPO,NGOの有志がアジアの各地で現地の綿栽培などを支援していることを考え合わせると、先祖帰りの縞・格子が復活することもあるでしょう。
ハイブリッド、エクレクティック、フュージョン。飛び交う言葉はいろいろですが、衣食住のそれぞれに異文化遭遇の姿を見ていきたいと思います。
みなさまのお考えをお寄せください。
[参考文献]
別冊「日本の文様」3 縞・格子 光琳社出版
注1)柳井縞:
「柳井縞(やないじま)」は、素朴な木綿織物として、古くから親しまれてきた伝統織物です。
柳井が商都として栄えていた江戸時代、柳井縞は綿替(木綿商人が職人に原料を渡し、織る手間賃を払って製品を引き取る方法)として発達しました。これが柳井木綿として全国に名を馳せたのは、江戸中期の頃からです。岩国藩が宝暦十年(1760年)から始めた織物の検印制度によって、高い品質が保証されていたからだと言われています。しかし、近隣諸国の織物業衰微という時代の流れは柳井縞も例外としてはくれず、明治の後半から急激に衰退して、大正初期以降は幻の織物となってしまいました。
近年、伝統の芸を復活させようという声を受けて再現した「新生柳井縞」は手織りの風合いを大切にしながら新しさを加えて創作した木綿です。その素朴な手織りの感触は「柳井縞」ならではです。