被災地の産業復興に向けて ─第1回 義援米─
大震災の後、被災地への救援活動はさまざまな形で進められています。このコーナーでは、被災地復興に向けて真摯に取り組んでいる方たちに直接取材し、その思いと活動内容をご紹介していきます。
会津食のルネッサンス 代表:本田 勝之助(福島県会津若松)
第1回目は、会津若松の震災後の復興支援をしている本田勝之助氏の活動をご紹介します。氏は故郷の町でIT企業を立ち上げ、農業の活性化にも果敢に取り組むベンチャー企業の代表者です。東京でコンサルタント業を経験した後、会津の町の活性化を目標に故郷に戻り、地域のための事業を行っていました。これからは地元の農業振興が大切だという信念のもと、付加価値の高い農作物の販売仕組みを整えつつある中での今回の震災でした。本田氏はそれまで築いてきた地域のネットワーク、また行政のネットワーク、東京とのネットワークを駆使して、すぐに震災への対応を始めたのです。
会津若松は、原子力発電所から西に約100kmの位置にあります。もちろん揺れはひどかったのですが、倒壊やけが人などはありませんでした。しかし事態の重大さを直感した本田氏は、まず救援物資のルートを確保するにはどうしたらよいかを考えました。東京の友人とのメールでさまざまなやり取りをしていく中で、東京から新潟までの高速のルートがうまく使えるという話になり、早速、新潟出身のカメラマン高橋じゅんいちさんが新潟へ物流拠点を設置。地元のNPOなどが支援に当たり、物資の受け皿をつくります。小口の支援なども、そこで一旦まとめ、そこから会津の本田氏のところへ。そして氏はさまざまなネットワークや被災現場へ乗り込んだ人たちからの情報をつなげて、必要なところへ物資を届けたのです。震災から3日後にはこの体制が整い、また被災地との連携も少しずつ始まっていきます。
一方、地域の温泉旅館では、この事態を重く見て、震災翌日には自主的な受け入れを始めました。この旅館(くつろぎ塾/代表者:深田智之氏/定員:800人。この旅館の取り組みは次回の記事でご報告します)は自主的に、なんと1360人の被災者を自費で受け入れたのです。まだ県が受け入れの発表をする前のことです。14日(月曜)には、1万人を受け入れることに決まり、高校・中学校・小学校・市の体育館などでも受け入れが始まりますが、その対応が落ち着くまでの混乱の期間を、本田氏は地域の人や行政と連携して支援を続けていったのです。
今回取材に行って感じたことは、なによりも地域を思う本田氏の思いと、その決断力でした。地域の活性化を旨とする氏の活動の源は、この時に役に立てなくていつ役に立つのか、という強い使命感でした。
取材をした日は2011年4月2日。大地震からすでに3週間あまりがたち、被災地の課題は刻々と変わっているようでした。現場はまだまだ復旧そのものが課題ですが、一方で被曝の風評被害により農作物が売れなくなっていました。国からは出荷停止の指示が出ていなくても、市場では一向に売れない。まったく問題のない農作物も売れなくなってしまう、風評被害そのものです。本田氏は、ともかく産業復興が大切と、地域の米や野菜、肉などをなんとか地域外の人に買ってもらうような仕組みを考えました。名前は「義援米」。物資の応援や資金の提供の代わりにネットで農作物を原価で買ってもらい、それを被災者に送るという仕組みです。被災者も農家も一緒に支援してもらいたい、という彼の思いに心を打たれました。
復旧は、まだまだ始まったばかりです。入学式を前にして体育館にも長くはいられない被災者をなんとかしたいと、本田氏は奮闘しています。東京にも出向き、地域の農作物を買ってもらえるお店や飲食店を探し、すでに数店舗が氏の要望を受け入れていると聞きました。
本田氏の扱う「義援米」は、以下のサイトから、ご覧いただけます。
掲載アーカイブ
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1
- 2011年4月27日 名前は「義援米」
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2
- 2011年5月4日 東山温泉「くつろぎ塾」
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3
- 2011年7月6日 Plant to Plant