研究テーマ

杉本貴志氏トークイベント採録

無印良品の店には、あえて気分を取り入れた。だから、洋服を置けば洋服屋に、雑貨を置けば雑貨屋になる。

このレポートは、2009年9月25日に池袋西武店で行われたトークイベントを採録しています。

杉本貴志

インテリアデザイナー

東京都生まれ。東京芸術大学美術学部卒業。(株)スーパーポテト代表取締役、武蔵野美術大学教授、「無印良品」創業以来アドヴァイザリーボード、各店の店舗デザインを手掛けている。
バー、レストラン、ホテルの内装デザインから、複合施設の環境計画、総合プロデュースまで幅広い分野で活躍。主な作品に「春秋」「響」「ジパング」等の飲食店の内装デザインや、近年では国内外のホテルのインテリアデザインを多く手がけ、「パークハイアット」(ソウル、北京)、「グランドハイアット」(シンガポール、上海、東京)、「ハイアットリージェンシー」(京都、東京)、「シャングリラ」(香港、上海)、「ベラジオ」(ラスベガス)などがある。
'84年、'85年毎日デザイン賞連続受賞。'85年インテリア設計協会賞受賞。

無印良品はライフワークのようなもの

皆さん、こんばんは。杉本貴志と申します。
無印良品が、まもなく30年になろうとしているとうかがいました。青山に第1号店をつくったのが1983年で、その前に西友の店舗内での展開が3年ほどありましたから、ちょうどそれくらいになるわけです。

私はその当時、西武百貨店の仕事をしておりまして、29歳くらいのときでしたか、この池袋店を大改装したことがありました。当時、西武グループを率いていた堤(清二)さんが、日本の百貨店の中で一番新しいことをやろうという思いを込めて、取り組まれたものです。我々もまだ若くてあまり経験もなかったんですが、そのチームに引っ張られまして、池袋を中心に、かなり大胆な改革をしました。文化館というんでしょうか、美術館ですとか、書籍の売り場ですとか、そういうものを集めて、この並びにつくりましてね。その一角を「ロアジール」と言ったのですが、これは西武グループが注目を浴びた最初のきっかけになりました。
そのあと、私が40歳になるくらいまでの約10年間、30店舗くらいの西武百貨店で、次から次へと仕事をさせていただきました。主にパブリックスペースである入口だとか、売り場でも美術館前の美術関連の書籍売り場や、劇場、そういうところが多かったですね。

その頃、堤さんの発意だったんでしょうか、無印良品というものが西友ストアの中でコーナー展開され始めていたんです。そのうちに、お前も手伝えみたいな話になり、それから1年くらいして、今日これからご紹介する、無印良品最初の青山店がオープンということになったわけです。
それから30年ですから、今振り返ると、デザイナーとして一番ものをつくっていた時代を共に過ごすことができたわけですよ。無印良品は私にとって、ある種のライフワークみたいなもののような気がします。

この無印良品にコミットするきっかけとなったのは、もう亡くなられたんですが、たいへん偉大なグラフィックデザイナー、田中一光さんでした。私は田中先生と、当時はいつもコンビみたいに仕事をやらせていただいていましてね。西武グループの仕事もそうですし、沖縄の海洋博であるとか、その他いろいろな仕事で、田中先生をサポートさせていただきました。

当時、西武百貨店は、外国からどんどん高級なブランドを持ってきていて、それがすごく人気を集めていました。西武はいち早くパリに出張所を置いていましたから、そこを通していろんなブランドが入ってきていたのですね。それがこの池袋を中心として展開され、日本もちょうど高度成長のときでしたから、受け入れられていきました。しかし一方、そういうものが脚光を浴びる中で、まるで正反対の考え方をもった無印良品が生まれたわけです。そしてこの無印良品に対して、田中先生はすごく思い入れが強かった。

今でも時々思い出しますが、最初に無印良品を担当なさったスタッフの方たちは、こういうと怒られるかもしれないけれど、西武グループの中ではちょっと変わりものたちの集合といった感じでした(笑)。百貨店が地方に展開し始めたときでしたから、主だった方たちは、そちらのほうに全力を出されていたんですが、そういうときに無印良品という、立ち上がったばかりの非常にコンパクトなブランドに関わっていたわけですからね。扱う品目も少なかったし、売り上げだって今とは比較できないほど、少なかった。
でも、だからこそいろいろなことができたというのも、事実なんです。スタッフの方たちがインドに行って、おもしろいファブリックを探してみたり、南米に行って、まだ日本に入っていないような道具を見つけてきたり。そういうことの中から、無印良品というのがだんだん育っていったのだと思います。

大きな反響を呼んだ、青山1号店のオープン

そういう時期を経て、まず1号店をつくろうという話になりまして、青山にそれほど大きくない店をつくりました。この写真がそうです。

この青山の店は、今でもあります。内部は一度、大改装して変わっていますが、店の位置や大きさは変わっていません。

店ができた当時は、私もしょっちゅう見にいきました。その頃はまだ、無印良品は西友の一事業部で、独立した会社になっていませんでしたから、西友の幹部の方や、これを統括されてる方、皆さんも心配して、よく来ていらっしゃいましたね。堤さんが力を入れてるものなんだから、何とかしなくちゃならないという感じでした。ですが、始めてみたら、これがじつによく売れたんです。
面積が小さいので、売り上げはたいしたことはないんです。しかし、本当によく売れた。それで、よかったよかったと見ていると、買う方がどうも、普通のスーパーとは違う。うかがってみると、田園調布に住んでいて、タクシーでここまで来たとか、これはまあ極端な例ですが、そういう方がけっこう来られていました。

無印良品の最初の商品は、それほどたくさんはありませんでした。たとえば、折れたうどん。うどんを干して乾麺にするとき、竿にかけて真ん中でたれた部分、曲がった部分は、普通、出荷するときは省くんです。そういうのばかりを集めて、地元ではお徳用として売っているんですが、無印良品はそれに目をつけて売りました。当然、安いです。

それから、今やもう、かなり有名になったんですが、割れシイタケ。干しシイタケをつくる工程では、かたちが不揃いだとか、途中でひびが入ったりとか、いろいろなものが出てきます。干しシイタケというのはわりと高級品ですから、かたちの良いものだけを選んで、大きさを揃えてパックするわけです。そこではじかれたもの、ひびが入ったり割れたりしたものは、これも地元でお得用品として販売されていた。でも、考えてみれば、干しシイタケなんて、自宅で使うときは、だいたいもどしてから、みじん切りにしてお寿司に入れたりしていますよ。業務用ならかたちがきれいだというのも大事ですが、家庭で使うなら割れていても問題ないんじゃないかと考えたわけです。こういう割れた干しシイタケや、折れたうどん、そういうものから無印良品の商品企画は始まっていったんです。
もちろん、ステーショナリーなども、徐々につくり始めてはいました。でも、洋服関係は、まだTシャツくらいしかなかったですね。

今回トークショーの話があって、私も何を話そうかなと、昔の資料を探してみたりしたんです。そうしたら、古い写真がいろいろ出てきました。
ひさしぶりに見た感想としては、あんまり変わっていないなあ、と。今、やっている設計と、ほとんど同じなんですね。もちろん、面積は非常に大きくなっていますよ。昔は20坪とか30坪なんていう店が多かったんですが、今は200坪とか300坪、中には1000坪なんていう店もあります。商品も増えていますしね。

でも、無印良品の店は、最初につくったときからほとんど同じなんです。
もちろん、店をつくるための技術だとか、コストだとか、普通は30年も経つと変わってきますよ。昔は簡単にできたけど、今はこんなことをやると大変だとか、昔は1週間かかったものを、今は5日間でやらなくちゃいけないとか、時代の要請というのが入ってくる。たとえば店のフローリングも、昔は古材でつくっていたんです。伊豆の廃校になった小学校の床材を安く分けてもらって、使ったこともありました。

当時、無印良品が勃興してきたものですから、他のスーパーなどがあわてましてね、似たようなことをやったんです。例えばダイエーも、漢字四文字でブランドをつくったりしました。しかし、それがあまり売れなかった。
それで、当時は今みたいな緊張感もなかったから、ダイエーの人がいきなり僕らの事務所に訪ねてきましてね、「何でうちは売れないのか、杉本さん、どう思いますか」なんて聞くんですよ。それはないだろうと思うんですが(笑)、僕らものんびりしていたから、「じゃあ、一回見に行きましょう」と見に行って、「わかんないけど、ここじゃないですかね」なんて言った覚えがあります。

そのダイエーの店と、無印良品の青山の店を比べてみるとね、ダイエーはゴンドラなんですよ。ゴンドラというのは、今、コンビニなんかで使ってるような什器※のことですが、じつは、このゴンドラのほうがコストは高いんです。非常に現代的ですから、ステージもちゃんとしていて、可動の棚も使っているので、安くはない。結果、立派な店になるわけです。だけど、何か違うんですよね。
この、何か違うということについて、そのときもうまく言えなかったんです。でも、無印良品には何かこう、"気分"がある。それがたぶん、無印良品の成功した原因のひとつだと思います。この気分が、他の店とはちょっと違うんですね。

当時は、小さなブティックが全盛になり始めた頃でした。ブランドで言うと「BIGI」などが勃興しつつあって、そういうものが東京から地方へと伝播していった時代です。僕らも若かったですから、そういう店を設計する仕事も一方ではやっていました。小さなブティックを北海道から九州まで、頼まれては、どんどんつくっていったんです。
青山1号店の写真を見ると、ここにはそういう気分が残っているんです。ここで店内の商品を全部取り出して、シャツだとかセーターだとかを置けば、そのままブティックになる。スーパーにはならないですよ。もちろん、コストはかけてないから安い造りで、木も安いのを使っていますし、工事もざっくりとしています。ですが、商品を置き換えれば、そのまま洋服屋になる。あるいは、雑貨を置けば雑貨屋になる。

そこの判断なんですね。さっきのゴンドラを置いても、洋服屋にはならない。ゴンドラはやっぱりコンビニ仕様で、どうやってもコンビニという気分なんです。しかし、無印良品の場合はあえて、洋服屋だとかブティックだとか、そういった類の気分を選択した。最初の店をつくるとき、僕らがひとつだけ意図したのは、そういうことでした。
そして、この青山1号店の売れ行きがよかったものですから、すぐに続いて大阪に、さらに各地にと、無印良品の店が広まっていったんです。

※什器
店舗やショールームなどに置いて、商品やカタログなどを陳列・設置するため器具や器材