今の無印良品は、拮抗すべき相手を失っている
皆さんがデザインに関心をお持ちだということを前提に話をすると、今のデザインは、非常に難しいところにきていると思っています。デザインに対する考え方が、グルグル回っているんです。
たとえば陸上競技で400メートルのトラックがあり、そこで長距離のレースを行っていたとします。そうすると、当然、周回遅れが出てきますよね。つまり、今走っている人のトップがどこにいるか、わからない。400メートルの競走だったら、すぐわかるんですが、1600メートル競走くらいになると、混然としてきます。実際に全部走りきったときに、順位がやっとわかるんです。
我々の社会もそうなんです。どこが一番かわからない。現代社会でデザインを考えたとき、その考え方はいろいろあります。求める価値観も、いろいろあるわけです。そうすると、どれがいいかというのは、なかなか言えない。
たとえば我々は、カレーを食べたり、蕎麦を食べたり、スパゲティを食べたりと、いろいろなものを食べます。けれど、どれが一番うまいかなんて、言えませんよ。私はこれが好きだというのは言えるけれど、それだってそのときの気分があるし、カレーだってピンからキリまである。蕎麦なんて、その典型です。
現代社会では、情報が広がっていて、生活も多様化していますから、これがいいとは言い切れません。
もちろん本来、クリエーションというのは多様化すべきなんですよ。さまざまな価値を含んだほうが望ましい。僕は、いろいろな価値観が存在し、そのそれぞれの価値観にクリエーションがつながっていったら、世の中は豊かになると思うんです。食事なんか、まさにその典型ですね。日本ほど、いろいろな料理を普通に食べられる国はありませんよ。ヨーロッパ料理はだいたいあるし、インド料理もベトナム料理も、何でもある。好きなものをチョイスして、僕らは食べているんです。
ただ、その多様性みたいなものが、今のデザインでは一番、収縮している。つまらない時代になっているんです。特に若い人がやるデザインというのは、僕らから見たら全部同じに見える。ある意味では、文化が一番、縮まっています。
これは今、ちゃんと考えなければいけないことだと思うんです。日本人の近代の歴史において、こんなことはかつてなかったでしょう。好奇心も弱まってるし、まわりを見回していく力もなくなってる。食べ物も、手軽なほか弁やおにぎりがやたら増えていて、若い世代が、今日はあれを食べようとか、食事を楽しみにしようということがなくなっている。
そういう文化の収縮した時代や社会に、無印良品は両刃の剣ではないけれど、若干そういう役割をいやな意味で果たしているところが、あるかもしれない。無印良品が意図しているわけじゃないけれど、無印良品でいいやとか、無印良品的だとかいう中に、半分、棘や毒があるわけです。
僕はもう少し、アンチ無印良品というのが、できるべきだと思っています。無印良品が発展するためにも、無印良品じゃない価値観や、無印良品じゃない商品、魅力、そういったものが、もっと生まれてきてもいいんじゃないか、と。
「理由(わけ)あって安い」は、それはそれですてきなことだけど、多様性という意味では、「理由あって高い」というのが出てきたほうがいい。たとえば無印良品より2~3割高くて無印良品をしのぐような製品の出てくることが、無印良品が発展していく大きなエネルギーにもなっていくでしょう。
そもそも、なぜ無印良品がこういう商品を提案しているかというと、本来は時代に対して拮抗しようとした結果でした。だからこそ、こういうモノができた。でも、今はその拮抗する相手がいないんです。何でも、すうっと入っていっちゃう。何かをつくっても「お、いいね」「お、きれいだね」ってことで、受け入れられてしまう。 しかし、無印良品は、そんなにきれいな存在じゃないでしょう。いや、きれいであっちゃいけない。受け取る側に、シンプルモダンみたいなことで済まされちゃ、困るんです。そうではなくて、ふがいがない、頼りがない社会に対し、ガンと強い何かをコンセプトとして出せなくちゃいけない。
「無印良品」は大変優れた言葉、優れたロゴで、これからもたぶん半永久的に続くと思います。でも、半永久的に続くためには、さっきも言ったように、悩まなければいけない。ときにカッコをつけて「その時代の」無印良品と入れてもいいかもしれないけれども、絶えず、我々にとっての無印良品とは何かという議論を、やっていかなきゃならないんです。