研究テーマ

杉本貴志氏トークイベント採録(4/4)

2009年12月9日

無印良品は、そんなにきれいな存在じゃない。シンプルモダンという受け取られ方で済まされては、いけないんです。

このレポートは、2009年9月25日に池袋西武店で行われたトークイベントを採録しています。

今の無印良品は、拮抗すべき相手を失っている

皆さんがデザインに関心をお持ちだということを前提に話をすると、今のデザインは、非常に難しいところにきていると思っています。デザインに対する考え方が、グルグル回っているんです。

たとえば陸上競技で400メートルのトラックがあり、そこで長距離のレースを行っていたとします。そうすると、当然、周回遅れが出てきますよね。つまり、今走っている人のトップがどこにいるか、わからない。400メートルの競走だったら、すぐわかるんですが、1600メートル競走くらいになると、混然としてきます。実際に全部走りきったときに、順位がやっとわかるんです。

我々の社会もそうなんです。どこが一番かわからない。現代社会でデザインを考えたとき、その考え方はいろいろあります。求める価値観も、いろいろあるわけです。そうすると、どれがいいかというのは、なかなか言えない。
たとえば我々は、カレーを食べたり、蕎麦を食べたり、スパゲティを食べたりと、いろいろなものを食べます。けれど、どれが一番うまいかなんて、言えませんよ。私はこれが好きだというのは言えるけれど、それだってそのときの気分があるし、カレーだってピンからキリまである。蕎麦なんて、その典型です。
現代社会では、情報が広がっていて、生活も多様化していますから、これがいいとは言い切れません。

もちろん本来、クリエーションというのは多様化すべきなんですよ。さまざまな価値を含んだほうが望ましい。僕は、いろいろな価値観が存在し、そのそれぞれの価値観にクリエーションがつながっていったら、世の中は豊かになると思うんです。食事なんか、まさにその典型ですね。日本ほど、いろいろな料理を普通に食べられる国はありませんよ。ヨーロッパ料理はだいたいあるし、インド料理もベトナム料理も、何でもある。好きなものをチョイスして、僕らは食べているんです。
ただ、その多様性みたいなものが、今のデザインでは一番、収縮している。つまらない時代になっているんです。特に若い人がやるデザインというのは、僕らから見たら全部同じに見える。ある意味では、文化が一番、縮まっています。

これは今、ちゃんと考えなければいけないことだと思うんです。日本人の近代の歴史において、こんなことはかつてなかったでしょう。好奇心も弱まってるし、まわりを見回していく力もなくなってる。食べ物も、手軽なほか弁やおにぎりがやたら増えていて、若い世代が、今日はあれを食べようとか、食事を楽しみにしようということがなくなっている。
そういう文化の収縮した時代や社会に、無印良品は両刃の剣ではないけれど、若干そういう役割をいやな意味で果たしているところが、あるかもしれない。無印良品が意図しているわけじゃないけれど、無印良品でいいやとか、無印良品的だとかいう中に、半分、棘や毒があるわけです。

僕はもう少し、アンチ無印良品というのが、できるべきだと思っています。無印良品が発展するためにも、無印良品じゃない価値観や、無印良品じゃない商品、魅力、そういったものが、もっと生まれてきてもいいんじゃないか、と。
「理由(わけ)あって安い」は、それはそれですてきなことだけど、多様性という意味では、「理由あって高い」というのが出てきたほうがいい。たとえば無印良品より2~3割高くて無印良品をしのぐような製品の出てくることが、無印良品が発展していく大きなエネルギーにもなっていくでしょう。

そもそも、なぜ無印良品がこういう商品を提案しているかというと、本来は時代に対して拮抗しようとした結果でした。だからこそ、こういうモノができた。でも、今はその拮抗する相手がいないんです。何でも、すうっと入っていっちゃう。何かをつくっても「お、いいね」「お、きれいだね」ってことで、受け入れられてしまう。 しかし、無印良品は、そんなにきれいな存在じゃないでしょう。いや、きれいであっちゃいけない。受け取る側に、シンプルモダンみたいなことで済まされちゃ、困るんです。そうではなくて、ふがいがない、頼りがない社会に対し、ガンと強い何かをコンセプトとして出せなくちゃいけない。

「無印良品」は大変優れた言葉、優れたロゴで、これからもたぶん半永久的に続くと思います。でも、半永久的に続くためには、さっきも言ったように、悩まなければいけない。ときにカッコをつけて「その時代の」無印良品と入れてもいいかもしれないけれども、絶えず、我々にとっての無印良品とは何かという議論を、やっていかなきゃならないんです。

生活の中で、どう響いてくるか。その在り方が無印良品だと思う

じつは最近、本を出そうと思って、僕は旅が好きなので、この数年間に行ったところの資料を集めていました。

上海から車で3時間くらい行ったところに、西塘(シータン)という古い村があります。運河でずっとつながっているんですが、絵に描いたような中国の水郷です。
今、中国ではこういう古い村のいくつかを政府が支援し、建物を建て替えてホテルやレストランをつくり、観光地にしつつあります。でも、西塘は昔からの建物と佇まいがまだ残っていて、古い旅館が若干ある程度。この運河沿いに小さなレストランがあって、そこでは近所の人たちが夜な夜な集まって、魚料理を食べたりしています。李白という酒を愛した昔の詩人がいますが、ここにいると本当に、李白になったような気分になります。

今、西塘を訪れた話をこの場でさせていただいたのは、きれいでしょ、ということではないんです。そうではなく、僕がデザインを発想するときに、こういうものの影響が、とても強いということをお伝えしたかったんです。
この中国の田舎町に限ったことではありません。昔はヨーロッパもそうでしたし、最近は主にアジア。韓国の田舎だとか、ベトナムの田舎だとか、インドネシアのバリ、そういうところをよくまわって、そこで自分がどういうことを感じるのかということ。それが自分自身にとって、強い興味になっています。去年はインドをずっとまわってみました。そうやって自分のもっているデザイン観に、絶えず刺激を与えるわけです。

そこで自分の感じたことをあえて言うと、それがそのまま、無印良品というのはこういうことかなとも思います。
つまり、今、我々が無印良品について論議するときには、たいていの場合、現代デザインとして無印良品を見ているんです。深澤(直人)君は、たぶんそういう話をされるだろうし、原(研哉)君もそういうことの論者だと思います。私は原君を尊敬しているし、話に感銘も受けます。
ですが、自分の中ではそういうこととは対比的に、こういう古い町とそこでの人々の生活の在り方、そこに残ってる伝統、そういった目に見えないものに、興味を惹かれているし、無印良品を見ているんです。

たとえばこれは上海での話ですが、朝になると、荷物をかついだ人が何か売りにくる。何を売りにくるかというと、豆腐です。まだ温かくて、ひとつ10円くらいかな、それを買うと、醤油ベースの餡をかけてくれる。それをごはんといっしょに食べる。本当にうまいです。ずっと昔から彼等はそういうものを食べていて、それが今でも残っているということ。それが、僕らの生活の中での無印良品なんです。
無印良品とはいったい何なのか、と考えるときに、箱の絵を描いてこれが無印良品というのじゃ、つまらない。生活の中で、それの在ることがどう響いてくるか。これが無印良品について今、議論をすべきところかなと思っています。

今は大観光地になった上海の豫園という有名な公園の、池の真ん中に喫茶店があります。建物はもう150年くらい経っていますが、そのままなんです。まわりはみんな建て替えている中で、ここはそのまま。いい材料でつくられてはいますが、特にてらいもなくて、池を見ながらお茶を飲むという、ただそれだけです。大変、気持ちがいいです。
そしてこの在り方も、僕はある意味、無印良品だと思っているんです。

生活に刺激を与える無印良品でありたい

人生の長さなんて、だいたいが決まっているものです。百年と言われても、なかなか生きられるものではない。しかも自分の意志が働いている時間というのは、子どものときを別にすれば、せいぜい50年とか60年くらいです。さらに、自分の意志が明解で、意志的に生きられるとなると、正味30年くらいでしょう。

そして皆、そういう時間をすりあわせて、例えば今日、こうしてここにいるわけです。当然、昔の人とはすりあいができないし、これから生まれてくる人たちとも、こうして分かち合うような時間は、なかなか持てないものです。

人生なんていうものは、生きていてよかったなと確認しながら、あるいはよかったなと確認できるようなことを前にぶらさげて、そこをめがけて生きていく、そんなものだと思います。それは例えば、週末はあの山に登ろうということかもしれないし、あの温泉に入ろうということかもしれない。山でも温泉でもいいけれど、大切なのは、それが我々の精神や気持ちに、刺激を与えるものであること。そういう生活が、一番望ましいわけです。

そして、その刺激を与える役目を担うのが、クリエーションなんですよ。
デザインというのもそうで、このデザインをやったから売れるとか、このデザインをやったからきれいになるとか、そういうことはたいした問題じゃない。大事なのは、このデザインがあるから、自分の心が刺激を受ける、あるいは自分がその刺激を伝えていけるということなんです。

そう考えると、無印良品というのは今、そうではない部分が少し拡大解釈されていて、無難な無印良品になりかけているのかもしれません。それはつくるほうではなくて、受け取る側の意識においてね。
私は、無印良品というのは本来、クリエイティビティを含めて、刺激をどう与えていくかということを大切にしてきたと思っています。しかも、その刺激というのは唐辛子みたいな刺激じゃなくて、噛んだときに「お、新鮮な味だな」とか、「この旨みは!」とかいった類のものです。
これからも、そんな刺激を与えられる無印良品でいたい。僕はそう思っています。

最後になりますが、これは比較的最近の仕事で、京都のハイアットリージェンシー・ホテルです。古いホテルをかなり大胆に改装しまして、今、京都ではなかなかいい売り上げだと聞いてます。
これはバーの写真なんですが、相当変わっているでしょう?

僕自身の中において、このハイアットリージェンシー・京都は、無印良品という概念に、相当近いと考えています。あえて説明はしませんが、概念としての無印良品には、表から見る、裏から見る、横から見る、といろいろ見方があり、これはかなり裏から見たもの。古い本だとか、京都の古いもの、あまり高くないものをいろいろ集めて、ディスプレイしたり、建材として使っています。

とりあえず今日は、こんなところで終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。